第12話 ポピーの魔法
瞬は、海を睨んでいる。
丸一日ほど熟睡し、夜明け前に目が覚めた。
ナースコールをして、何でも食える物を持ってきて欲しいと頼んだ。意外に美味だった。
だが、その後の魚住の来訪は不愉快だった。
上司の魚住は、瞬について何も知らないはずだった。そのくせに、瞬を理解しているような口振りで話した。
仲間が無数に死んだあの遠征の悲劇は、体験した者にしか分かりはしない。
死んだ人間は
この絶対の真理は、時間操作技術の開発により、史上初めて揺らいだ。過去に逆行して死ななかったことにすれば、死すべき運命を変えられる。
現に内務省・時空間保安局の救済チームが、多くの実績を上げてきた。だからこそ、瞬を含めて最近の人間は、人の死に対してあきらめが悪くなったのだろう。
だがしかし、クロノス同士が衝突する異時空間での戦死は、まったく話が別だった。
元々、戦闘に先立ち、意図せざる事象改変を避けるために、戦場に強力な結界を張ってから作戦行動を展開する事情もある。加えて、多人数による強力なサイの発動が、不動の結界を生み出す。
結果として膨大なエネルギーを持つ結界が確定過去を形成し、後の改変は不可能となる。
時空を支配する神は、やはりいるのかも知れない。
過去を向いていても始まらない。
瞬はまだ残されている、二年ほどの未来を見ようとした。
ごく最近、瞬は立て続けに二人の女性に出会った。すれ違うだけの関係ではないのではないかとの思いがあった。。
ひとりは若い預言者、天川真子。独裁者の娘。口は悪いが、未適応症のせいか、シャワー室以来の肌の触れ合いのせいか、どうも憎めなかった。いっしょにいると、愉快だった。せっかく友達になったはずだが、次はいつ会えるのかも分からない。
もうひとりは死んだ恋人と瓜ふたつの女性、織畑砂子という時間操作士。確かに瞳の色も焦げ茶色だったし、髪もかなり長かった。だがあまりに酷似している。何かの事情で、素性を隠しているだけではないか。
ふたりの女性について代わる代わるに思いふけるうち、昼前になって病室がからりと開いた。
「失礼しま~す」
悪く言えば、素っ頓狂とさえ言える、明るい声がした。
若い女性看護師が、カートを押しながら、笑顔で入ってきた。彼女がいるだけで、辺りが華やぐような笑みだった。
「春の香りをお届けに来ました。いい匂いでしょう?」
看護師は、笑顔しか浮かべたことのないような顔で、無邪気な笑みを、瞬に向けて、頭を下げた。
「いつもありがとうございます」
瞬に、礼を言ってもらう覚えはなかった。
名札には「馬場奈々子」と書いてある。精神的にはともかく、肉体的には瞬より五つ、六つ年上だろうか。
「母も昔、クロノスの方たちのお世話をしていたんです。子供のころからずっと聞かされて育ちました。クロノスの皆さんは、私たちに未来を残すために、命を懸けて戦ってくださっているんだって」
瞬はこれまで、奈々子に感謝されるような戦いをしたろうか。
命ぜられるままに、異時空間で、敵である「昴」との戦争に明け暮れていただけだ。もちろん「終末」を回避するための戦争だと信じてはいた。だが、真実かどうかは瞬も知らなかった。
奈々子は、窓際に置かれていた花瓶に、赤や黄色やピンクやオレンジの花を一本一本、愛おしそうに生けていく。
「それ、何ていう花ですか?」
「ポピーです。可愛らしいでしょ?」
奈々子は花瓶から少し離れて、花の具合を整えている。
「実家が花屋をやっているんです 。子供の頃から、花の名前や花言葉を教えてもらいました。詳しいんですよ」
「ポピーって花言葉とか、あるんですか?」
「感謝、です。クロノスの皆さんへ感謝を込めて 」
奈々子が現れ、花を活けてくれただけで、海まで輝きだした気がした。
「朝香さん、もしかして立ち上がれたら、ソファに移ってくださいません? シーツ、替えますから」
奈々子に介添えを受けて、ソファに移動する。
「どうして、俺の名前を知っているんですか?」
奈々子は、口に手をやり、くつくつ笑った。別段、面白くないことでも、愉快にしてしまう人らしい。
「患者さんのお名前は、全部覚えます。病室の入り口にも、書いてありますし。あ、私は」
と、奈々子は、自分の胸に付けてある名札を示した。
「馬場奈々子です。ナナって、みんな呼んでくれます 」
「俺は瞬って、呼んでくれますか? 本名はもう少し長いんですけど」
入院でもしない限り、奈々子とは会えないだろう。だが瞬は、もう少し奈々子に近づきたいと思った。
「私、シュンってお名前、好きです。実は、わたしの婚約者の名前も、シュンなんです 。わたし、今度、結婚するんです。ジューン・ブライド」
瞬の心は素直に、奈々子の幸せを祝福できた。
「おめでとうございます、ナナさん」
奈々子が頬を染めてはにかむ姿が、可愛らしかった。幸せであるに違いない。
瞬が奈々子に感じていた想いは、恋愛とは違う。友情とも違う。育てて見なければ分からないが、瞬が記憶のない肉親への愛情を抱けるとするなら、それに近そうだった。
「俺はオブリビアスなんですけど、血の繋がった家族が結局、分からなかったんです。本当はどこかにいるかも知れないんですけど……」
「忘却の日ですね。私もあの時、両親を失いました。記憶はあるのですけれど……」
奈々子は手際よくリネンを取り替えて行く。
「ナナさんは記憶があって、良かったと思いますか?」
記憶を失くしたから不幸なのか、記憶があるほうが幸せなのか。
「瞬さんには、ごめんなさいですけれど、記憶があって良かったと思います。愉しい思い出も失いたくなかったですから。ここにもオブリビアスの方がいらっしゃいます。もしかしたら、あまりに悲しくて耐えられない出来事があったから、神様が全部忘れさせてくれたのかも知れませんね……」
瞬は悲しむことさえ、許されなかった。何が起こったのかも分からずに、いつの間にか天涯孤独になった。第五次遠征のように、悲劇を憶えていて、己を苛み、復讐の炎に
「ナナさんは結婚しても、仕事、続けるんですか?」
皺一つないシーツの上に、奈々子は真新しいカバーの枕を乗せた。
「もちろん。おばあさんになるまで、続けますよ。瞬さんに、未来を残していただいて。子供もたくさん作りたいんです」
「俺がいた軍の病院は、全然、雰囲気が違いました。ただ、治療を受けるだけの場所だった」
治療技術こそ優れてはいた。が、冷酷な殺人兵器のメンテナンスをする場所にすぎなかった。
奈々子に助けられて、瞬はベッドの上に移動した。
「ここにいると、みんな、ナナさんの笑顔に癒されるでしょうね」
「まあ、瞬さんたら」
「本当ですよ。俺でさえ、そんな気がするんですから。何か、ナナさんといると、こんな俺でもまだ、生きていていいのかなって思えるんです。俺は除隊してから、世界を放浪していました。友達もいなくてね。昨日、友達がやっと一人できたんです。でもまた、失くしたみたいで。でも何で俺、こんな話をナナさんにするんだろう? 初対面で、仕事中の看護師さんに」
奈々子は悪戯っぽい笑みを浮かべ、瞬の耳元に顔を近付けた。
「花のせいです。ポピーの魔法です。ポピーの香りを嗅ぐと、人は素直になるんです。人は辛い時、他人に助けを求めればいいのに、強がって自分で抱え込んじゃうんです。瞬さん」
笑顔の奈々子が、手を差し出してきた。瞬は、柔らかな手を握った。
「これで私たち、お友達ですね」
瞬がうなずくと、奈々子はウィンクをした。
「私のフィアンセはね、瞬さんみたいな美男子じゃ、全然ないけど、まじめで優しいんです。技術一筋のエンハンサー技師なの。彼、妬いたりしませんから、安心して」
いい匂いのする掛け布団を、奈々子が首まで掛けてくれた。
「引っ越しはまだですよね。瞬さんも寮に入るんでしょ?」
クロノスは全員、本部ビルの北に隣接する寮に入る決まりになっていた。退院次第、入寮手続を取ることになるだろう。
「確か、部屋番号も決まっていたな……」
「寮のお部屋には一度、猿橋さんに連れて行っていただいて、知っているんですけど、とても素敵ですよ」
猿橋とは、昨日会った茶髪のクロノスだったはずだ。
「お荷物の受取りの手続、私が代わりにやっておきましょうか?」
「荷物は特になくて……そのザック一つだけです」
瞬の使い古した軍用のザックは、今朝、航空会社から病室に届けられていた。
「え? これだけ? 着替えとか、身の回りの物は? 寮には家具があるし、リネンは大丈夫ですけれど……」
「近くで、買えますか?」
「お勧めのお店がありますよ」
奈々子はベッド脇のメモ用紙に、ペンで何やら地図を書き始めた。
「ナナさん。退院したら、俺の買い物を手伝ってくださいませんか?」
「いいですよ。お友達ですもの。早く、退院してくださいね」
部屋での用事を終えた奈々子が、カートに手をかけた。
「瞬さん、一つ、約束してくださる?」
「俺にできること、なら」
「できるわ。頑張れば」
奈々子は真顔で、瞬を正面から見た。
「瞬さんは、何があっても、死なないって。前にも一度、その日にすぐ友達になっちゃった人がいたんです、さっきみたいに。瞬さんと同じで、除隊した人でした」
人間兵器として軍で殺戮を繰り返した後、罪滅ぼしのためか、内務省に入る者は、昔から一定数いた。舞台装置さえ変えてしまえば、新天地で人間に戻り、人生をやり直せる気になるのかも知れない。
奈々子は視線を落とし、頬を赤く染めた。
「瞬さんはちょっと似ているんです。その人に……私の、初恋の人に……。でも、その人は戻って来ませんでした」
奈々子は、うつむき加減の顔を上げた。
「瞬さん、必ず『終末』まで生き抜いて、私たちに未来を残して。約束ですよ」
奈々子が細い小指を差し出してきた。
指切りげんまんをしたのは、第五次遠征の直前、死んだ恋人と、して以来だった。
瞬はまだ人を愛せる気がした。
恋人以外の愛しかたが、瞬の知らない肉親への愛情に近い愛しかたが、奈々子に対してなら、できるのではないか。
奈々子が去った病室。
ポピーの花が笑って見えた。
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■用語説明No.12:未適応症
サイ発動による時空間操作を行った者のみが罹患する特有の疾患。
クロノスの半数近くが発症するとも言われる。身体の震え、硬直を特徴とする原因不明の熱病で、脳内に輝石の結晶が生じることにより、発症する。過剰発動により発症し、徐々に悪化していくが治療法はなく、十年以内の致死率は一〇〇パーセントとされている。
未適応症は、過剰発動の累積による心身への弊害であるが、発動限界を極限まで超えたサイが一時に発動されたような場合(急性型)は、精神崩壊を来す。時流解釈士には、不可逆的な発狂に至る症例が多くみられる。
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