第3章 ちっぽけな戦場

第11話 海の匂い

 魚住幸恵の勤務先、内務省の時空間保安局・第二課、すなわち空間保安課は、新浦安市のテーマパーク「東京ディズニー・シー」の海側の高層ビルにあった。


 魚住が当直室のクロノスたちをねぎらって返した後、誰もいない早朝のオフィスに入って小一時間ほどになる 。魚住は照明をつけずに、自然光で仕事をするのが好きだ。


 新しい部下、朝香瞬もそろそろ目を覚ましただろうか。

 昨日の瞬は、絶対安静の一歩手前の状態だった。

 サイ発動に伴う疲労感、特に空間操作士のそれは、しばしばフルマラソンに喩えられる。

 

 個人差はあるが、エンハンサーを通じ、改めて瞬の発動経過を解析してみると、フルマラソンを三度連続したほどの極度の疲労状態にあった。とても今日、仕事ができるような体調ではない。


 オフィスを出て、魚住はエレベータの↓行きボタンを押す。


 朝香瞬の病室は、隣の二号棟の高層階だから、直線距離としてはすぐそこだ。空間移動すればいい話だが、平常時に必要もなくサイを用いることは禁じられていた。時間操作と違って、空間操作記録は厳重管理されていないし、処罰まではされないが、課長自ら禁を犯すのはうまくない。


 エレベータのガラス張りの窓から、旭日に煌めく太平洋が見えた。


 内務省の空間保安課は、現業の公権力行使部隊である。公安活動を行う中で、相手もサイを使うためしばしば戦闘となった。実態は警察官と軍人を合わせたような仕事といえた。


 そのせいもあって、空間操作士が集う職場は、軍事基地に近い。たとえ職員が空間移動に失敗した場合でも、海に落下すれば被害が少なかろうという、単純な発想に基づく立地だが、実際、移動に失敗した者が東京湾に落ちて助かったケースもある。

 

 さて、朝香瞬である。

 彼は最初のミッションに、見事に失敗した。だが、普通の空間操作士には不可能な超長距離の空間移動ミッションだから、それは構わない。

 だが瞬は、国立時空間研究所というお堅い組織が秘蔵していた時流解釈士と下着姿で抱き合い、唇を重ね合った状態で発見、保護された。こちらのほうは全くの想定外だった。


 どのように好意的、楽天的に考えても、朝香瞬が、幸先良いスタートを内務省で切ったとは、とうてい言えない。


 気のいいサルは、ニヤニヤ笑って済ませてくれるだろう。

 だが、肝心の織畑砂子は、相当の悪感情を瞬に対して抱いたに違いない。魚住が入手した周辺情報を総合する限り、砂子は開けっ広げに見えながら、男を病的に避ける傾向があるようだった。抜群の時間操作能力を持つ砂子にはこれから瞬とタッグを組んでもらう予定だったが、調子が狂った。


 本来、見なくていいはずの現場を見せてしまったわけだが、膨大な手続を要する逆行許可を取って、やり直すほどの話ではないし、研究所がからむ案件となれば、事案処理自体が魚住の手を離れたに違いない。


 本庁のビルを出ると、潮風が魚住の髪を撫でた。


 朝の海の匂い はいつも、懐かしい気がする。好きだ。昔、憧れの上司といっしょに並んで嗅いだ匂いだからかも知れなかった。

 魚住が途中の連絡通路を用いなかったのは、外に出て、日が昇って間もない海の匂いを、嗅ぎたかったからでもあった。


 魚住には、生涯をかけてなし遂げるべき遠大な「目標」がある。魚住が愛した上司、織畑宙哉ちゅうやの遺志を継ぎ、「終末」を回避することだ。

 宙哉は軍と戦い、敗れて死んだ。だが、魚住は軍の終末回避計画「アルマゲドン」ではなく、宙哉が提唱した「回天」こそが正しいと、今でも信じていた。


 とどまらぬ時の流れがついに、二〇六四年四月四日の「最終結界」にまで到達したとき、人類の存亡を賭けた本当の戦いが始まるだろう。真の敵と味方が、その時わかるはずだ。だが、それでは遅い。自分の力だけでは、とうてい「回天」は無理だ。


 時空を自由に天翔けるクロノスの力が、必要だ。そのためにこそ魚住は、朝香瞬を内務省に呼んだ。単に時空局が所掌する公安活動のためなどではない。

 

 エレベータを降り、魚住は病室に入った。

 クロノス優遇の批判を避けるために「病室」と呼び、看護師も配置してはいるが、実際にはリゾートホテルの一室のような部屋だ。


 そもそも瞬は、病というわけではない。サイの過剰使用により、極度の疲労状態にあるだけだ。ゆっくり静養するだけでいい。逆に言えば、それくらいしか、回復手段はなかった。


 もっとも、瞬があの遠征で負った心の傷は、容易に癒えはすまい。除隊後の一年あまりで、癒えるどころか傷口はますます広がったかも知れない。だが、完治を待っている時間的余裕など、人類にありはしなかった。


 朝香瞬は起きていた。ベッドから半身を起こし、ヘッドボードに背をもたせかけて、窓の外の海を眺めていた 。


 若者は、そのメデューサの蒼い瞳で何を見ているのか。

 死んだ恋人と過ごした忘れえぬ過去か、それとも恐らくは苦難しか待ち受けていない先の見えぬ未来か。


「海は好き? 朝香君」


 瞬は海を見たまま、呟くように答えた。


「もし好きだったら、俺にくれるんですか?」

「好きなら、自分の力で手に入れるものよ。与えられるものじゃないわ」

「力がなければ、どうしたらいいんです?」

「あきらめることね」


 突き放した答えに、瞬は苦笑を漏らし、魚住を見た。


 切れ長の眼に、やや太めの眉。固く閉じられた、強い意思を感じさせる口元。

 魚住はハッとした。あの人に、眉が似ている気がする。

 美男を見かけるたび、かつてただひとり愛した男の面影を見出そうとするのは未練がましい悪癖だと、魚住は知っていたはずなのだが。


 何気ない風を装い、魚住は来客用ソファに腰を下ろすと、足を組んだ。


「身体の具合はどうかしら、朝香君」

「見ての通りです」


 まさか、遅過ぎる反抗期が今ごろ来たわけでもあるまいが、思春期の少年のような幼い答えだった。

 空間操作士に時々いる、多重人格のような青年だ。


 戦場では、冷酷残忍な悪鬼羅刹あっきらせつに化すとのもっぱらの噂だった。戦歴からも明らかだ。だが、昨日のやりとりからは、普段はどこにでもいる晩稲おくての青年にしか、魚住には見えなかった。


「まさか、あんなに遠くまで翔んでいたとはね。探すのに苦労したのよ」


 瞬は、魚住の言葉を遮ってきた。


「この町に、タバコは売ってないんですかね?」


 魚住は、新浦安の観光案内ボランティアではない。


「猿橋君にでも聞きなさい。でも、発動限界をあれほど超過していたのに、一日寝ただけで、身体を起こせるとはね。後で精密検査を受けてもらうけど、三日間は発動停止になるわ。年度始めだけど、今日一日は、公休でいいわ。でも今晩、新人歓迎会、顔だけでも出せないかしら」


「どうして、ですか?」


 不愛想な問い返しだった。仲良くやる気は、最初からないのかも知れなかった。

 だが魚住には、部下の機嫌取りをする上司になるつもりは、毛頭ない。上司は部下を守りながら、その能力を最大限に引き出し、職務を遂行する仕事だ。汗と涙と血を流す中で、目的をともに達成すれば、喜びと信頼が得られる。そう、信じて来た。


「ウチは少人数で動くの。あなたがいた軍とは、まるで文化が違うのよ。チームワークが何より大切。時流解釈士の応援も十分じゃないから、結構、危ない橋を渡る案件もあるわ。仲間に信頼がなかったら、人を救えないだけじゃない、仲間が命を落とすの。特に最近はテロ紛いの事件も多いから」


 喧伝される「終末」 が近づくにつれ、体制への不満をあおるテロ組織「オリオン」の動きが活発化していた。二、三年前から、クロノスの殉職者は右肩上がりに急増している。


「業務命令なら、出ますよ」

「じゃ、出なさい。ほんの少し顔を見せるだけで、いいから」


 この若者なら、夜には歩けるに違いない。多少無茶な話だが、魚住は、当代最強の「人間兵器」たる瞬を使って、内務省を復権させる腹づもりだった。そのお披露目をしたいとの思いもあった。


 大事な話をするには、まだ早すぎるようだ。

 ほとんど初対面だ。当たり前だろう。

 まだ少しなら、時はある。


 魚住はソファから、ゆっくりと立ち上がった。瞬との間に信頼関係を築くには、まだ時間が掛かりそうだった。


「朝香君。あなたをウチにスカウトする前にね、あなたの研修所時代の教官に会ったの。朝香瞬ほど、誠実、真面目で、優秀な、信頼できる教え子はいない、と言っていたわ」


 瞬は面倒臭そうな顔をして、美眉をひそめた。


「……昔の話ですよ。今は、違う。人は変わります。まして、人を何千、何万と殺せていれば、ね」

「そうかも知れない。確かに人は変わるわ。でもだからこそ、あなたはここに来た。これから、あなたはまた、変わる」


 魚住は自分の願望を込めて、強く言い切った。


「……俺は、命令された任務を果たします。それ以上でも、それ以下でもない」


 若者はすでに、海へ視線を移しながら、応じた。


 ドアへ向かう途中で、魚住は振り返った。


「朝香君、あなたがいっしょにいた美少女の件だけど 、部外秘だから、口外しないで。いいわね。あなたの身のためにも」

「課長、ひとつ、教えてくださいませんか?」

「天川真子の所在なら、私も知らされていないわ」


 もしも瞬が、あの時流解釈士に心を奪われているとすれば、事態は容易でない。魚住の認識では、あの少女は恐らく人類の敵、「最後の預言者」だ。


 もともと昨日、瞬のエンハンサーに誤作動データを紛れ込ませて、テレポートを失敗させたのは魚住だ。救出を遅らせ、未適応症の少女だけを消すつもりだった。あわよくば天川真子の命を奪えればと願ったが、瞬が体温を守ったせいか、あの様子では一命を取り止めただろう。


 いや、軍の時流解釈士は、魚住の作為も「込み」で、未来を読んでいたのかも知れない 。


「じゃあ、鴨志田さんには、どこで――」


 魚住は、瞬の質問を遮りながら、問い返した。


「朝香君。あの時のあなたたちの姿を見れば、誰でも当然に抱く疑問だけれど、あなたは研究所が存在を秘匿している時流解釈士に、特別の感情を抱いているのかしら?」


 瞬は頬を赤らめて、うつむいた。

 魚住に言わせれば、まだまだ子供だ。だが、これが恋ならば、人類にとって由々しき事態だ。ただの恋では、済まない。


「……違いますよ。ただ、俺と同じで孤独だったから、可哀想だと思っているだけです」


 幸い、研究所の奥御殿に囚われた天上の預言者に、一介のクロノスが面会できるはずもない。


「常識に属する話だけれど、預言者はクロノスの中で、最も大きな力を持つ。優秀な預言者を一人使えば、国の一つくらい、簡単に滅ぼせるわ。だから、限られた人間にしか、預言者への接触は認められていない。ちょっとした夢だったのよ。あの子のことは、忘れなさい」


「……友達になるって、俺は約束したんだ」

「いい年をして、あなたはまだ青春ごっこでも、やるつもりかしら? もうすぐ『終末』が迫ってくる戦場で?」


 世が終わるからこそ、恋をしていたい気持ちもわかるのだが。


「分かりましたよ、課長。もういいです」


 瞬は、身をベッドに沈めた。

 いや恐らく、分かってはいないだろう。


 恋人を奪われた復讐のため、「昴」相手に、たった一人で戦おうとした男だ。その気になれば何を仕出かすか、知れたものではない。だが、魚住は、軍からこの若者を守りながら、天翔のクロノスとして目覚めさせなければならない。そのために、内務省という組織を利用する。


「朝香君。あなた、もし昴への復讐なんて、まだ考えているようなら、あきらめなさいよ。ここは軍じゃないんだから」


 瞬は不機嫌そうに、魚住の言葉をさえぎった。


「俺のプライベートにまで、口を出さないでくださいよ」


 すでに日は、高く昇っていた。



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■用語説明No.11:内務省二課事件

当時、内務省時空局・空間保安課長であった織畑宙哉により、二〇五二年に起こされ、未遂に終わったとされるクーデター事件。

宙哉の実兄である時間保安課長織畑刻司こくじにより鎮圧されたとされるが、情報操作により詳細は不明。

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