第9話 内務省・時空間保安局・第二課
夜はまだまだ明けそうにないが、内務省・時空間保安局がある新浦安の高層ビルからは、東京湾を行きかう船舶の明かりが幾つも見えた。
魚住は不機嫌というより、不安だった。
同じ空間操作士を名乗る者として、朝香瞬の名はかねて知っていた。本人のよほど強い意思でもない限り、内務省に入る物好きは数えるほどだ。有能なクロノスはたいてい救世軍に入り、将校になった。
最終的に朝香瞬が入省の誘いに応じた時は、ずいぶんな拾い物をしたと魚住も喜んだものだ。一騎当千の空間操作士がチームに加われば、内務省の公安活動は格段にレベルアップする。喉から手が出るほど欲しかった人材だった。
本人の意思はともかく、軍はなぜ手放したのか。抜群の戦功をあげた若手将校とはいえ、勝手に軍を離れた身だ。軍が正規の除隊扱いをしてくれ、内務省への入省を認めてくれた理由は何か。有能な空間操作士の社会的活用といった高邁な理想が背景にあるとは、どうも思えない。
何かが、ある。そうでなければ、おかしい。
ノックの音がした。
応じると、グレーの制服の小柄な若者が入って来た。長髪茶髪、無精ひげのピアス男は一見ちゃらんぽらんに見えるが、仕事はできる。
「猿橋君。朝早くから、済まないわね」
空間保安課員は皆、ムードメーカーの猿橋を、親しみを込めて「サル」と呼んだ 。未だ「サル」と呼ばない課員は、課長の魚住だけのはずだ。
魚住のかつての上司 は、魚住を「幸恵」と呼んでくれたものだが、あくまで例外だった。
本人から自己紹介で「サル」と呼ばないでくれと言われたせいもある。だが実際は、しばしば冷酷な判断を求められる上司が、いつ殉職するか知れぬ部下に対し、無用の感情を持たないための自己防衛の一種だろうと、魚住は自分で納得していた。
特に、どうやら自分に恋しているらしい部下の場合には。
「俺の『朝』の定義は、『お天道様がのぼってから』なんですけどね」
いつもは揃えられたサルの茶色の長髪が、少し乱れている。サルのせめてもの抗議の意思表示かも知れなかった。
「夜間手当はちゃんと出るから、安心して。移動中に無線で聞いてくれたと思うけど、念のためにね」
「でも課長、また俺ですか? 俺、便利屋ちゃいますよ、ホンマに」
一番頼みやすいのは事実だった。
「なんで当直のクロノス、使わへんのですか? 俺、課長好きやけど、たまにはキレますよ」
部下の猿橋の冗談めかした求愛は、最初、冗談だと思っていたが、ある程度は本気なのだと、近ごろ気付いた。
クロノスの仕事は命を張る仕事だが、恐らく猿橋は魚住を守るためなら、本気で命を捨てるに違いないと、あるミッションの実行中に悟った 。
「軍機扱いの要請があってね。その点、あなたなら安心だから」
「大事なミッションの時、課長は色じかけで来はるけど、俺のこと、何とも思てへんでしょ?」
サルは魚住のデスクに腰を掛けると、長い髪をかき上げながら、口を尖らせた。自分のあだ名にせめて抵抗しているのか、本物の猿には相応しくない長髪がサルの特徴だった。
「カワイイ子だと思っているわよ」
「ほな、俺と結婚してもらえませんか?」
魚住も猿橋の求愛が、半ば以上本気だと気づいてから、笑ってごまかしたりしないようになった。
「わたし、子持ちだけど?」
「知ってます。お嬢さんもまとめて、俺が面倒見させてもらいます」
「頼もしいわねえ」
「部下と上司の関係やから、難しい面もあるやろし、すぐにとは言いませんわ。オリオンの掃討が終わったら、丸一日、俺とデートしてから、返事ください 。お願いします」
サルは健気に、魚住に向かってペコリと頭を下げた。
「わかったわ。じゃ、そうしましょ」
「よっしゃ、契約成立や。ガゼンやる気、出てきたでェ。せやけど、課長が結局、断らはるかも知れませんし、一応、俺も他いっぱい、女の子当たっときますからね。『終末』も近いみたいやさかい」
「お好きになさいな。あと少しの人生なんだから、悔いのないように」
だが、魚住は薄々気付いていた。
たとえ何度、魚住が恋愛してみても、あの人以外の誰かを、愛することなど、もう自分に出来はしないことを。
もしかしたら、あの朝香瞬も同じなのかも知れない。あの若者が独りで世界を放浪をしていたのは、「終末」を待たずに恋人のいない人生を終えようとしていたのではないか。生きている理由はただ、死にきれなかったからか。
「で、今回のミッションは研究所の尻拭いですか?」
「ウチとしても、研究所に貸しを作っておくのは悪い話じゃないからね」
「でも研究所って、預言者を抱とんにゃし、悪い事が起こったら、チャッチャと逆行して、過去を変えたらエエんやないですか?」
「結局は予知に失敗したわけだし、メンツもあるんじゃないの?」
「なるほどね」
猿橋にはできる限り、ミッションについて知らせないほうがいい。知らなくていい秘密を知れば、猿橋の身が危なくなる。
魚住は、ミッション実行に必要最小限の範囲で、猿橋に内容を伝えた。むろん、「天川真子」の名前も出していない。
「でも、今度ウチに来るその朝香って、軍にいた物凄い飛ばし屋なんでしょ? 課長がいはんのに、バックアップなんか必要ですかね?」
「ちょうど月末でしょ? オリオンの件で、私の持ちガロアもやたらオーバーしてるしね。これ以上法律を無視したら、私だって始末書だけで済まないから」
空間操作士には、その心身を保護するため、法律によりサイの累積発動量の上限が定められている。昨年から続く「オリオン」なるテロ組織への対応で、魚住の累積発動量(Gh:ガロアアワー)は、五か月連続で上限を大きく超えていた。このまま続ければ、制限年間発動量も守れない。
だが、半分は言いわけだった。
誰かが朝香瞬の命を狙っているなら、魚住は命に代えても彼を守らねばならない。
瞬こそは恐らく人類に残された「最後のメサイア」ではないか。魚住の言うことを聞いてくれる猿橋がいれば、緊急事態に対処しやすい。
それに、空間操作士は男が多い上に、風変わりな連中が多い。魚住は、ここ二〇年でも最高の逸材の一人とされる「朝香瞬」という天賦の才を持つ若者、それも戦争で深い傷を心に負った元軍人に、どう接したらよいか分からなかった。
手始めに気のいい同年代のサルをぶつけてやろうとの魂胆も、実はあった。
「それに彼、今、酔っ払ってるみたいだからさ」
「マジすか? 前に俺も、酔っ払って翔んだことが一回ありますけど。二度と御免ですわ」
「その時は、どうなったの?」
「ビルの十五階の外壁に挟まってしもて。にっちもさっちも行かへんで、優しい時計屋さん に、内緒で助けてもらいましたわ」
翔ぶ前に時間移動し、空間移動自体を止めさせたわけだ。原始的だが確実な方法だ。
「それにしても、初出勤の前日に帰って来るなんて、ええ度胸してますよね。朝香はなんでロンドンに?」
「聞いてるでしょ、第五次遠征の話?」
「……一方的にやられて、ひたすら悲惨やったらしいですね」
掃討戦とは聞こえがいいが、今回は様相が違っていた。「体制」に挑む反政府組織「昴」を討滅するため、軍は、満を持して大規模な作戦行動を実行した。
軍は公式に認めていないが、大掛かりな虹色の戦場から生還した兵士は当初たったの一人、若い女の時間記録士だけだとされていた。が、後に朝香瞬の生存が確認されたため、二人となった。
時空戦は敵味方いずれもが結界を作りながら、過去に逆行して行われる。詳細に公表される類の情報でもないから、魚住も真実は知らないが。
「その時間記録士が、ロンドンの第二研究所に隔離されているそうなのよ」
時間記録士はクロノス三士には入らないが、改変前後の事象を認識し、史実を記録できる能力者である。どうやら瞬とは、親しい戦友だったらしい。
「でもなんか、話が作られてませんか?」
「え? どういう意味かしら?」
「研究所のVIPと朝香が偶然に乗り合わせる可能性は、あるにしてもですよ。たまたま時流解釈士の具合が悪うなって、たまたま乗り合わせた空間操作士に助けを求めるなんて。ほな、朝香が乗ってへんかったら、諦めてたんですか? んな、アホな」
国立時空間研究所の組織は公にしていないが、幾人もの時流解釈士を擁している。未来を予知して行動する完璧主義の組織が、なぜ今回の事態を回避できなかったのか。
「下々の俺らに、目的は分かりませんけど、仕組まれてるんとちゃいますか?」
「ま、あまり深く考えるのはやめておきましょ」
猿橋をできる限り組織間の抗争に巻き込まないほうがいい。朝香瞬はもちろん、気づいているだろうが。
魚住が椅子に深くもたれると、猿橋は肩をすくめただけで、それ以上追及しなかった。
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■用語説明No.9:昴
「体制」と同様に、「終末」回避を標榜しながら、「体制」打倒を目指す反政府組織。単に「レジスタンス」と呼ぶ場合は、昴を指す。「ペガサス」と呼ばれる謎の人物がリーダーとされ、世界各国に支部「プレアデス」を持つ。本拠地は異時空の結界内にあり、特定されていない。日本の専制打破を望む非日本人の時間操作士も所属している。自前の時空間操作士の養成機関を持つとされる。
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