十三、武下と小峰

 喫茶店を出た二人に、前島から連絡が入り、相馬の依頼の交換条件として、CLUB・STREAMへの接触を禁止された。クライアントの情報により、調査対象である秀尊も現在は台湾に出張している。そうなると調査は、足止めを食らった状態になる。

「今日は、撤退しましょうか」

増井の判断で営業所に戻るため、バーキングに停めた車へ向かっている途中であった。相馬のスマートフォンが着信した。着信画面には、『武下たけした』と表示されていた。相馬と同期入社した情報調査課の人間である。

「あ、すいません。すぐに追いますから、先に行ってて下さい」

着信中のスマートフォンを揺らせて見せながら、電話が来たことを知らせた。

「了解」

増井は、そう一言だけ返事して、歩いて行った。その背中を目で追いながら、電話に出た。

「もしもし」

「おー。お疲れ。すまん。今、大丈夫か?」

「おお。長話はできないけど。どした?」

「ちょっと前に、うちにハロークリスタルの財務状況を調べさせたろ?」

「おお。正式には、主任が依頼したんだけどな。確かにお願いしたわ」

「実は、ちょっとその事で話したいことがあるんだが、今日、明日あたり。時間作れないか?」

武下の口調から察するに、是が非でも相馬に話したい内容だと伺えた。

「今日なら大丈夫だと思う」

「じゃあ、久々にキュリアスでどうだ?」

「わかった。じゃあ、後程」

電話を切ると、相馬は駆け足で増井の後を追いかけた。

 一度、多摩営業所に戻った二人は、定時まで溜め込んでいたデスクワークをできる限り片づけた。武下と会う約束をしたのは、下高井戸にあるキュリアスというバーであった。二人は、入社してから受けた研修で一緒になった。最初の一か月は、調査課と情報調査課の合同で行われる。その時に知り合った一人が武下であった。情報調査課は、その一か月の研修を終えると、現場に放り出される。

 店の扉を開けると、武下らしき背中がカウンターにあった。ただ、一人では無いようで隣に連れがいた。それも女性である。その背中に近づいていくと、向こうも気配に気が付いた様で、相馬の方に向き直った。

「お疲れ」

そう声を掛けて、武下の横にいる女性も顔を見せたので、誰か分かった。ただ、その人物がどういう人物かがわかるだけで、名前まで見知っていたわけではなかった。

「あ、えっと。確か研修でいましたよね?」

同期の情報調査課ということだけは、わかる程度であった。

「武下君と同じ課の小峰です」

「あ、相馬です。よろしくお願いします」

相馬は、武下と二人で会うものだと思っていたため、不意なゲストに戸惑いを隠せなかった。席に着くと、ビールを注文した。手を拭きながら言った。

「何?もしかして、俺に言いたいことって彼女できたってこと?」

少し冷やかしてみた。

「違うわ。そんなことになってみろ。俺ぁもう他の連中に恨まれて、この世にはいねぇよ」

武下の言う通り、小峰こみねというその女性は、小柄で可愛らしい女性だという印象がある。殊に情報調査課では、女性が少ないと聞いた記憶もあり、課の中でも皆から寵愛されているのだろうと容易に想像がついた。

 相馬の注文したビールが運ばれると、三人は乾杯をした。二人は既に一杯目を飲み干したのか、それぞれカクテルを揺らしている。この店は、静かなジャズを流すような大人のバーとはまた違い、様々な洋楽が流れる中を老若男女が楽しそうにグラスやジョッキを傾けている。だからこそ、相馬達も気負いせずに入れるのである。

 乾杯で相馬が喉を落ち着けると、武下が切り出した。

「実は、伝えたい事ってのは、俺じゃなくて小峰ちゃんが調べたことなんだ」

相馬は、少し辺りを見回してから周囲の気配を伺った。昼間の喫茶店では、その事をすっかり失念していた。小峰の話は、実に興味深かった。

 長峰からの依頼を受けて、小峰は手始めに様々な図書等から得た自社のデータベースにて過去十年の財務状況を検索した。財務状況だけをということで、多くを報告していなかったことを前置きして言った。

「経営状況が上向いたのが、今の社長になってからみたいなんですよ」

相馬は、後頭部を強く殴られたような衝撃を受けた。このハロークリスタルという会社自体が、矢神豊一が娘に対して親バカ的に与えた会社だと思い込んでいたが、十年前と言うと姫子は、まだ大学生である。大学生が起業するのも吝かではないが、少し考えにくい。

「それで、そもそもハロークリスタルの生い立ちから探ってみたんです」

小峰は、続けた。

 矢神豊一には、仙堂美代子という愛人がいた。愛人という二文字で簡単に片づけてしまっては、説明が足らないであろう。元々、矢神豊一が起業してから支え続けてくれたのは、この仙堂美代子であった。元々矢神の家は、千葉にある総合病院を営む医療家系であったが、豊一は医療よりも経営に興味があり、勘当に近い形で家を出た。大学を出ると、流通業界に身を置きながら、経営を体で学びながら資金を稼いだ。その頃に、仙堂と出会っていた。三十手前になって練馬区の石神井にハローストア第一号店を開業させて、チェーン展開していくことになる。

 一方で、矢神の実家が営む病院では、豊一の弟がそれを継いだが、元来の優しすぎる性格が災いしたのであろう。経営が著しく傾いた。その時には既に両親も他界しており、弟は、豊一に相談を持ち掛けた。豊一が小売業に身を置けたのも、実家の病院は自分が継ぐからと背中を押してくれたこの弟の優しさもあったため、なんとか助けてやりたいという気持ちがあった。豊一自身は、自分の会社で手いっぱいであったため、自分の経営学を一番よく知る人物。つまり、仙堂を実家の病院へと派遣した。

 病院は、二年の歳月で持ち直したが、同時に豊一にとっては不幸なことが起きた。弟と仙堂が、相思相愛となってしまい、その間に子供まで授かってしまった。豊一は、嘆き、そして、怒り狂った。だが、やがて諦めをつけて、一切の縁を切る形で自分の事業に専念した。そのうちに取引のある社長の娘と見合いの末に結婚した。

 さて、ハロークリスタルの生い立ちであるが、仙堂を病院へ派遣する際に立ち上げた会社がその生い立ちであった。当初は、経営コンサルタント会社として起業し、絶縁後は他の人間にそれを引き継がせた。その人間がやがて貿易事業へ参入し、そこから雑貨類の小売りも始めた。そして、赤字に転落したことを機に娘である姫子をグループ会長の命で社長に据えた。

 因みに矢神の実家の病院は、弟と美代子が相次いで早世してしまい、結局違う医療法人の手に亘り、病院としての箱自体は残っているが、名前も経営権なくなってしまった。

「よく、そこまで調べましたねぇ」

相馬は、小峰の話に思わず引き込まれてしまった。

「実は、豊一氏が出版した本や、関連する書籍を探せる限り探し出して読み漁ったんです」

小峰は、元からなのか酒のせいか、楽しそうに語ってくれた。恐らくこうした情報収集力を見越したうえで会社も適材適所に配置しているのかと思うと、少しだけ世の中の理を見た気がした。

 しばらく、他愛もない談笑をしていると、小峰が手洗いに席を外した。すると、相馬も席を立ちあがると、財布を取り出して五千円をテーブルに置いた。

「おいおい。もう帰るのかよ」

程よく出来上がった武下は、驚いた表情を浮かべて言った。

「人の恋路を邪魔するほど野暮じゃねーよ」

どうにも武下が小峰に気があると、相馬は察知して気を利かせた。

「じゃ、今度は楽しい報告を待ってるわ」

そう言い残して店を先に出た。

 店を出ると、すっかり夜の街に変貌を遂げていた。ただ、酒で火照った体に風が心地よく靡いた。下高井戸の駅へ歩く道すがら、スマートフォンの画面を何となく付けてみた。

一件のメッセージを受信していた。差出人は、増井であった。題名には、『仕事の件について』と堅っ苦しく銘打ってあった。そして、本文も長々と書かれていたが、酒のせいか読む気になれず、直ぐに閉じた。

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