十一、二人の朝

 増井は、体中に気だるさを感じながらも本能的に重たい瞼を開いた。見慣れない景色が広がる。自分の部屋でないことは間違えない。思わず上半身を起こした。ベッドの上で寝ていた様である。タオルケットが掛けられていた。自分の置かれている状況が飲み込めず、記憶の糸を辿る。

 矢神姫子の尾行・観察を終えて、長峰に連絡を取ろうとするも、繋がらなかった。そして、営業所に掛け直すと長峰の妻が産気づいたために病院へ向かったと聞き、怒りが込み上げた。今、思い出しても腸が煮えくり返る。それから、元同僚であった高橋が開いている新宿の居酒屋に相馬を連れて行ったところまでは、確信的に覚えている。

 その後、日頃の長峰に対する愚痴を吐き出し、姫子と共にホテルへ消えた男の話をした様な記憶は、曖昧ながらにある。そこから店を出た記憶がないが、タクシーに乗せられた記憶は断片的にある。そこから思い出そうとすると、錆び付いたエンジンを無理矢理に動かそうとするが如く、頭痛に襲われる。

 改めて自分のいる部屋を見回す。一通りの生活必需品が揃っているが、部屋の隅に数個の段ボールが乱雑に置かれていた。部屋自体も生活感がやや薄い。恐らく引っ越したばかりなのであろう。カーテンで朝日を遮られているため、暗がりの中ではそれくらいを推察するのがやっとである。

 増井は、起き上がろうとベッドから足を投げ出すと、床に自分の足を置いた。しかし、そこには床とは違う柔らかい感触と共に悲鳴が聞こえた。

「うげっ」

「ごめんなさい」

増井は、咄嗟に謝ると、足をベッドの上に戻した。大きなカーテンがベッドの上でも開けられそうであった。四つん這いになって手を伸ばして、カーテンを開けた。部屋の中に明かりが差し込まれた。自分が踏んでしまった何かしらの正体がそこにあった。差し込む光が余程眩しいのであろう。片腕をアイマスク代わりに目の上に置く、相馬が寝ていた。相馬の部屋であった。増井は、相馬を踏まないようにしてそっと床に降りた。

「おはようございます」

相馬は、微動だにしないまま、少し枯れた声で挨拶をした。増井は、挨拶を返すことよりももっと聞きたいことが一瞬で増えてしまい、ただ何から聞いてよいかも分からず言葉を詰まらせた。

「ここは?」

相馬の部屋だとわかっているが、思考が複雑に飛び交う中で、押し出されたように言葉が出て来た。

「僕の部屋です」

当然の返事が返ってきた。相馬は、その言葉で意を決したようにして上半身を起こすと、近くのテーブルに置いてあった眼鏡を手に取り掛けた。普段、ワイシャツにスラックス姿ばかり見ていたせいか、Tシャツにハーフパンツというラフな姿が新鮮に見えた。相馬は、テレビを付けると碌に見もせずに立ち上がった。

「私、どうしたの?」

自分でも何を聞いているのかわからないが、相馬の部屋にいる理由が知りたかった。

「タクシーに乗ったのは、覚えてます?」

「なんとなく」

「先輩、車内でやっちゃって…」

明確には言わず、手のジェスチャーで嘔吐したことを伝えた。

「で、タクシー降ろされちゃって、桜上水近くだったんで、仕方なく背負ってお連れしたんですよ。高橋さんも先輩が八王子に住んでいるってとこしか知らなかったんで」

「ごめん…なさい…」

「ま、とりあえず出勤準備しましょう。遅刻しますよ。シャワー浴びるなら、新品のタオルありますから」

「ありがとう。その前にちょっとコンビニ行きたいんだけど」

増井は、最寄りのコンビニエンスストアを教えてもらうと、バッグから財布だけを取り出して出かけた。相馬に何か欲しい物があるのか問われたが、有耶無耶に濁した。頭が働いていれば上手く誤魔化せたのであろうが、それを明確に言えない乙女の羞恥心だけが働いた。

 増井が、コンビニエンスストアで替えの下着と朝食の当てに総菜パンや菓子パン、缶コーヒーを適当に買って戻ると、既に相馬は、ワイシャツにスラックス姿に着替えていた。段ボールを開けて何やら探している。

「何を探してるの?」

買った物が詰め込まれたビニール袋の中から下着だけを取り出すと、隠すようにズボンの後ろボケットに捻じ込みながら尋ねた。

「あ、おかえりなさい。あ、あった」

相馬は、段ボールの中から一枚のTシャツを取り出して目の前に広げた。黒地にヒヨコのキャラクターが左胸に小さく描かれたものであった。

「これで良ければ、差し上げますよ」

幸い薄手のカーディガンを持ち合わせているので、それを上から羽織ればヒヨコのマークは隠すことが出来る。増井は、買ってきたパン類を差し入れると、シャワーを借りた。

 増井が、シャワーを終えて脱衣所から出ると、相馬は、増井の買ってきた菓子パンを食べながらテレビニュースを見ていた。

「あ、戴いてます」

増井も傍に腰を落ち着けると、ビニール袋の中から缶コーヒーだけを取り出した。

「あれ、食べないんですか?」

「ちょっと食欲なくて…」

増井は、前日の酒が体に残っているようで、食事する気になれなかった。

「先輩、今日はちょっと例のホスト野郎について調べてみませんか?」

「えっと、確か…。コウキだったっけ?でも、元々の業務から外れてる気もするんだけど」

「今日一日だけで良いので。お願いします」

「まぁ、長峰さんに聞いてみましょ」

「あ、長峰主任になら許可取ってあるんで大丈夫です。というか、主任は、しばらくお休みだそうです…」

「はぁ?」

増井は、多少薄れかけていた長峰に対する怒りを再熱させた。

「まぁまぁまぁまぁ。それよりもこれを見てください」

相馬は、増井の怒りを早期鎮火させるべく、新たな情報を提示した。増井にスマートフォンの画面を見せた。

「これ、情報調査部に頼んでいた矢神姫子の会社の経営状況についてです」

増井は、そのスマートフォンを手に取って見入った。

「七年前に一度赤字を出しながらも、五年前からは、黒字に転換してるんですよ」

「ふーん。まぁ黒字に戻したのは立派なもんねぇ」

「ええ。赤字店舗を粘らずに閉めてしまって、ネット通販に切り替えて立て直したみたいですよ」

「でも、そんなに長くは続きそうにないね」

増井の言う通り、年度別の売り上げを見ていると、近年の売り上げは、赤字でこそないが、落ち込んできている。

「もしかすると、立て直しできたのも、親父さんの力かもしれませんね」

そう考えると二人には妙に納得できるものがあった。矢神姫子にそこまでの経営能力があるとは、到底思えなかった。だが、混沌とする小売業界で生き抜いている矢神豊一の助言や経済力などがあったとすれば、どうであろう。或は、豊一のほうから業務命令として姫子に行わせた可能性もある。

 相馬と増井は、多摩営業所に一度出勤すると、社用車で新宿方面を目指した。歌舞伎町という街は、本当に眠らない。夜とはまた違った顔で澄ましている。

「で、そのコウキって人が働いてる店の名前とか場所はわかるの?」

パーキングに車を停めた増井が尋ねた。

「それは、大丈夫です。ただ、開店前なので人がいるかどうかが…」

増井は、腕時計をチラリと見た。午前十一時にもまだなっていない。ホストクラブに詳しくない人間でも、今の時間が営業時間外であることくらいは容易に想像がつく。

「ま、とりあえず動きましょう」

二人は、車を降りた。相馬がスマートフォンを片手にナビゲーションをしながら歩を進めて行く。

 『CLUB STREAM』と書かれたネオンが疲れたように消えている建物の前に辿り着いた。シャッターが閉ざされているため、一目して、人が居ないであろうことがわかる。

「出直しましょうか」

「そうね」

二人が、その店の前を後にして、少しばかり歩き始めた時であった。相馬の肩に手が置かれて、振り返った。増井も相馬の異変に気が付いて振り返る。

「ちょっと、すいません」

スーツ姿の二人の男が立っていた。

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