十、ヤケ酒
姫子を尾行していた時間に比べると、幾らか空いた山手線に、増井と相馬は揺られていた。連絡がつかなかった長峰の安否について尋ねるも、増井は、口さえ聞こうとしない。機嫌を損ねているのは、一目でわかる。車内では、一言も交わさなかった。新宿に到着するというアナウンスが流れると、
「降りるよ」
ただ、それだけであった。怒りに任せて早足で歩く増井の後ろを恐る恐るついて歩く。その足取りに迷いはない。地下迷路から東口に抜けると、あの有名な巨大モニターのある方に出る。増井の歩くままに付いて行くと、靖国通りを横切って、歌舞伎町へと進んで行った。ネオンのトンネルをしばらく歩いていると、一軒の居酒屋に入店した。
その居酒屋は、大衆居酒屋というジャンルになるのであろう。暖簾を潜り、引き戸を開けると、カウンター席しかない。
「いらっしゃい」
カウンターの中から無愛想な男の声がした。大皿に盛られた惣菜や日本酒、焼酎の瓶が並ぶ向こう側に、顔を覆い隠すように新聞を広げている。新聞の向こうからは、白い煙がゆらゆらと昇っては消え行く。
「お好きなとこどうぞ」
男は、新聞を雑に折り畳み、その顔を覗かせた。鼻の下に黒々とした髭を蓄え、若い頃にやんちゃを重ねていた様な風貌をしていた。
「あれ。美樹ちゃん。久しぶりじゃん」
男は、威嚇するように細めていた目を、丸くして笑顔を見せた。美樹というのは、増井の事である。笑顔の男に相反して、増井は、先ほどからの仏頂面をピクリとも変えないまま、カウンター席に座った。相馬も釣られるようにして、腰を落ち着けた。二人の他に客はいなかった。
「ちょっと待ってて」
男は、そう言うと気持ちだけ駆け足で、カウンターを出て、店の外へと消えた。
「お知合いの店ですか?」
「知り合いっていうか、元同僚よ」
男は、すぐに店内へと戻ってきた。楽しそうにカウンターの中へと戻る。
「あれ、こちらさんは、美樹ちゃんのこれ?」
男は、嬉しそうに親指を立てた。
「うちの新人でーす。多満自慢ロックで」
「なぁんだ。つまらん。新人さんは、何呑むかい?」
男は、増井の注文した日本酒を用意しながらも、本当につまらなそうな顔をした。
「じゃ、ビールで」
世間話をしながらも、テキパキと体を動かしていた。
男は、相馬に生ビールを出すと、自分も元帝都探偵社の調査員であったという。高橋浩太と名乗るこの男は、多摩営業所で調査員をしていたが、腰痛を悪化させてしまった為、早期退職して、常連だった飲み屋の跡目を継いだという。いつの間にか、彼の手にはビールの注がれたコップがあった。程よく酔いのまわった高橋は、嬉しそうに昔話を相馬に聞かせた。とある大手製薬会社幹部の娘が連れて来た婚約者の素行調査をした話や、大物演歌歌手の浮気調査をした話など、様々であった。増井は、黙って酒を口に運んでいる。相変わらず仏頂面をしている。
「そう言えば、美樹ちゃん。なんで今日はまた顔出してくれたの?人まで連れてきて」
「…みねの野郎…」
高橋の言葉に、増井は仏頂面を鬼の形相へと変えた。
「まぁた、長峰さんと喧嘩したの?」
高橋は、苦笑いの様な、呆れた様な表情を浮かべた。
「新人君、この子はねぇ、よぉ~く長峰さんと喧嘩するんだわ」
「喧嘩じゃない。あのおっさんが勝手気まま過ぎるんだ」
「そういえば…。結局、長峰さんはどうしたんですか?」
「なになにどうしたの?」
「いや、僕と増井さんで行動していて、一段落したから長峰さんに連絡入れたら繋がらなかったんです。それで、増井さんが営業所に連絡してからずっと機嫌悪いんですよ」
相馬は、簡単に事の顛末を説明した。
「あの野郎、カミさんの陣痛が始まったんだとよ」
増井は、ついに不機嫌の原因を漏らした。しかし、相馬にはその理由がピンと来なかった。
「そりゃ、怒るなぁ~」
高橋には合点が行く様である。両腕で台所の縁に体重を掛けて項垂れた。
「だってよぉ、昔、親父が倒れて危篤ってときによぉ?休めないか頼んだら、『この稼業を選んだからには、親の死に目には立ち会えないと思え』っつったんだよ?」
「それが、自分はカミさんが腹痛めたらしれっと帰りやがって…」
増井の目は、飲む毎に座って行く。その時、テーブルに置いていた相馬のスマートフォンが、小刻みに震えた。画面を見ると、長峰からの着信であった。何故だか、この着信を増井に知られてはならないという心理が働いた。
「ちょっと、すいません」
そう言いながら、店の外へ出てから電話を取った。
「いやぁ、御免。カミさんが急に陣痛始まっちゃって。悪いんだけどしばらく休みをもらうから。例の件は、増井君と二人で頼むわ。よろしくね」
相馬の返事を待たずに通話が切られた。少しだけ、増井の気持ちが理解できる気がした。
通話画面が閉じられて、電車の中で調べていたネットサイトの画面が表示された。それを見て思い出した様に店内に戻った。
「おい、相馬。しらけさせるじゃないか。女かぁ?」
増井は、出来上がっていた。
「違いますよ。それよりこれ、見てください」
そう言って、スマートフォンの画面を見せた。
そこには、先ほど姫子と共にホテルに入って行った男の顔写真があった。
「ん?さっきのホスト野郎に似てる。どしたの?」
「いや、山手線で暇だったから、色々調べてみたら、あの女社長、ホストクラブの常連だっていう噂があって、さらに調べてたら、この画面に行きついたんです」
「ふーん」
増井は、全く興味が無さそうな返事をした。
「どれどれ?」
その代わりに高橋が興味深そうに聞いてきたため、高橋にもその画面を見せた。
「ほうほう。あれ、これコウキ…だな」
相馬の発見したページは、店のオフィシャルサイトにあるホストの紹介ページであり、確かに『紅貴』と書いてあった。
「知ってるんですか?」
「おお。俺もテキトーな性格だから、朝八時まで営業しちゃうことがあって、たまに来てたよ。こんな大衆居酒屋に一人でホストが来るなんて珍しいからさ。間違えないよ」
「ですって」
相馬が増井の方を向くと、増井はカウンターに俯せる様にして寝てしまっていた。仕方なく、増井をしばらく放っておいて、高橋から紅貴についての知り得る限りを聞き出した。
彼の本名までは分からないが、月に二、三回ほど店に顔を出すらしい。福井の出身で、自分で起業するという夢があるとのことで、ホストの仕事は、その資金稼ぎだという。来るときは、いつもフラフラに酔っており、酒は頼まずに一、二品の一品料理と茶漬けを平らげて帰るのが常であった。高橋の曖昧な記憶ではあるが、赤羽に住んでいると聞いた覚えがあるらしい。
二十二時になり、相馬は、そろそろ帰りたくなった。増井は、心地よく夢の中にいる。
「増井先輩ってどこに住んでるか知ってますか?」
「さぁ。八王子市って聞いた気がするけど、住所まではしらないなぁ」
高橋のこの言葉に絶望を感じ、必死に増井を起こそうとするが、なかなか起きる気配かない。
「だめだよ。その子は、酔って寝たらお手上げだ」
高橋は、我関せずと言わんばかりに、食器などの片づけをしながら言い放った。
仕方なく、相馬は会計を済ませると、増井を無理矢理に立たせて腕を自分の首に掛けさせた。店を出ようとすると高橋が呼び止めた。
「これ、もってきな」
そう言って、何も入っていないスーパーのビニール袋を握らされた。
「これは?」
「きっと必要になる。また来てくれよな」
そう言われて体よく店を追い出された。増井の肩を組んだまま、靖国通りへと出た。運よく客待ちのタクシーをすぐに捕まえられたため、それに乗せると、相馬自身も乗った。
「すいません。八王子のほうにお願いします」
「八王子?高速乗っちゃっていいの?」
相馬は、そう言われて財布の中身を確かめた。「下道で行ってもらってもいいですか?」
申し訳なさそうに伝えると、運転手は、舌打ちをして走り出した。
「先輩、先輩。どこ住んでるんですか?」
相馬が尋ねても、増井の答えは、言葉になっておらず全く話にならなかった。運転手もバックミラー越しに怪訝そうな表情を浮かべて、ハンドルを握っていた。そして、あるいは相馬が肩を揺らし過ぎたことも原因であろう。
増井は、見る見るうちに眉間の皺を深くしたかと思うと、飛ださんばかりに目を見開いて、両手で口を抑えた。相馬もそれが何を意味するか、天才的速さで察知した。そして、握っていたスーパーのビニール袋を広げて、増井の口元に当てた。
「ちょっとちょっと。お客さん」
運転手が慌てながらも冷静に路肩に止めた瞬間である。持っているビニール袋が重たくなってゆく感覚が手に伝わった。そして、三十秒後には、増井の肩を組んで支えながら、乗っていたタクシーが遠ざかるのを、寂しく見届ける相馬の背中があった。
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