九、雑貨店
矢神姫子の経営する雑貨店は、『ウィズ・ハート』という店舗名で展開している。経営会社が『ハロー・クリスタル』となっており、ハローストアグループの一角を担っている。そのウィズ・ハート銀座店は、四階建てのビルの一階にあった。後々調べてわかったことであるが、そのビル自体がハローエステートという不動産関係を管理する関連会社の所有物であり、簡単に言えば矢神豊一が、娘のために貸し与えてやったようなものであった。
銀座と一口に言っても、狭いようで広い。姫子の店は、六丁目にある。山手線の有楽町駅と新橋駅のちょうど中間点近くになる。夕立が止み、幾らか過ごしやすい気温になった銀座は、帰宅時間と重なってどの路地にも人がいるような有様であった。
その賑わっている銀座に一人の女が歩いていた。言うまでもなく増井なのであるが、少しばかり様子が違う。肩に触れるか触れないか程の長さの髪が、肩甲骨にまで伸びており、さらにウネウネとパーマが掛けられていた。ウィッグである。また、化粧もやや濃く施されており、バッタやトンボの如く大きなサングラスを掛けていた。彼女の趣味ではないが、姫子に接触する可能性もあるため、顔を見知られないようにしていた。
メインストリートから外れた通りだが、人の通りは、多い。まず、遠目から店の様子を伺う。ただでさえ、こうした人混みや女子向けの店に入ることが苦手な彼女にとっては、慎重にならざるを得ない。木目を基調としたカフェと見間違うような店構えとガラス張りで解放感を演出している。店内は、バンガローの一室を思わせるような半円の丸太を敷き詰めた壁をバックグラウンドに、服や雑貨を飾り立てていた。店内には五、六人の女性が見て取れる。
増井は、開け放たれた扉から静かに入店すると、壁際にディスプレイされた小物を見るふりをした。店内は、何かしらの音楽と、談笑する声がBGMになっていた。商品を物色するフェイクをしつつ、店内にいる人物たちの様子を伺う。皆、二十代から三十代の女性ばかりであった。どうやら店員は、一人で切り盛りをしているようであり、首からネームカードをぶら下げた女性がいた。手入れされた金髪のショートカットに、わざとらしいほど赤いルージュをひいている。スタイルが露わになるような服を着こなしているところに、この女の自信のほどが伺える。
女性店員は、常連客と思わしい女性と小物を手に取りながら色々と楽しそうに話している。同じ店舗にいながら、違う空間のような雰囲気を放っている。他の客は、それぞれの思いの中で商品を見て回っている。増井も適当な商品を手に取ってみるが、はっきり言って興味がない。他の客がどういう思いで手に取って見ているのか、想像もつかない。
「いらっしゃいませぇ」
甘ったるい口調の挨拶が、背後で聞こえた。
思わず振り返ると、サングラス越しに見覚えのある顔があった。矢神姫子であった。どうやら、店の奥から店内に入ってきた様である。増井は、本能的に顔を隠すように背を向けた。一呼吸置いてから、再びゆっくりと姫子の方に視線をやった。
姫子は、相変わらずフリフリとした恰好をしている。手に持つなどがないところを見ると、外出ではなく店に顔を出しに来た様である。客に声を掛けつつも店内を回り、商品陳列を整えて行く。当然、増井のそばにも寄ってきた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
声を掛けられた。
「い、いえ。前々からお店が気になってて…」
「そうなんですね。このあたりの小物は、今もうここにある限りですから、よろしかったらお早めにどうぞ」
姫子は、そう言うと増井の近くを離れた。甘ったるい香水の香りを残して行った。店員と常連客の談笑の輪の中に入っていた。二、三言葉を交わすと、常連客にお辞儀をしてバックヤードへ姿を消した。
増井は、一通り店内をぐるりと見終わると、スッと店を後にして、ビルの裏口を探しそうとした。しかし、ビルは通りに面している他の面が隣り合うビルと密接しているため、他の出入り口はなさそうである。仕方なく、車道を挟んで遠目から店の出入り口を監視することにした。車に待たせている長峰に一報を入れた。
三十分ほど監視していると、記憶に新しいフリフリ姿の姫子が店から出て来た。銀座は、すっかり夜の街と化した十九時前であった。さすがに暗くなり、増井は、サングラスを外して人ごみに紛れ込みながら、姫子の後を追った。すると、思わぬ邪魔が入った。
「あ、ちょっといいですか?」
見知らぬ若い男性である。もしかすると大学生くらいであろうか。
「もし、この後何もなければ一緒に飲みませんか?」
増井は、人生で初めてナンパされた。人生で初めてなので断り方を知らない。姫子の背中がどんどん小さくなって行く。比例して焦りが増して行く。
「ごめんごめん。待たしちゃって」
背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、相馬がいた。
「誰?」
相馬の問いかけに、増井は首をかしげるしか出来なかった。
「なぁんだ。待ち合わせかよ」
ナンパ男は、捨て台詞を吐いて立ち去った。
「さ、追いましょう」
相馬は、増井の手を引っ張って姫子の後を追った。
「なんで、あそこにいたの?」
姫子の後ろ姿から視線を逸らさずに、相馬に問いかけた。
「いや、あの近くに車停めてまして。たまたま、コンビニにトイレを借りに行った帰りに見かけたんです」
「そ。助かったわ」
相馬は、素直じゃない増井が何となく可愛く思い、フッと笑った。
姫子の足取りは、JRの有楽町駅へ向かっていた。山手線の内回りと京浜東北線の北行の共用ホームへと上がる階段を昇り始めた。降りる人も乗る人もごった返している。電車の往来も絶え間ない人混みの中で、二人は、姫子を見失わないように気を張った。電車を待つ数分の間に、相馬は、長峰に連絡を入れた。
「すいません。訳あって、増井さんと女を追ってます。これから山手線内回りに乗ります。また、連絡いれます」
電話の途中で電車がホームに入線してきたため、とりあえず言いたいことだけ伝えて電話を切った。姫子から二ドア分離れた同じ車両に二人も乗り込んだ。この時間の山手線は、込み合うことが必至である。自分の立ち位置を確保するだけで精一杯なのである。一八二センチメートルある相馬は、何とか姫子を確認できている状態であった。一五三センチメートルの増井には、三六〇度壁に囲まれているような圧迫感しかなかった。駅に着く度に人の乗り降りが行われる為、姫子を見失わないようにするのも一苦労であった。
東京、神田、秋葉原、御徒町、上野と続き、鶯谷で姫子が降りる気配を見せた。相馬は、増井の腕を掴むと、降車する人の流れに引きずり込んだ。しかし、降りる人の流れと乗る人の流れの乱れに巻き込まれ、ホームに降りた時には、姫子を見失ってしまった。
「たぶん、北口よ」
増井が言った。相馬は、増井の手を握ったまま、北口へと向かう。地下通路へと降りる階段の途中で、姫子らしき後頭部を見つけた。地下通路を行き当たると、登り階段があり、それを登ると改札口に出る。改札を出ると、人の流れは方々に散るため、少し開放された気分になる。
「あれじゃない?」
増井が小声で呟いた。改札の目の前にあるコンビニエンスストアに見慣れたシルエットがあった。二人は、サッと暗がりに身を潜めて様子を伺った。
そのシルエットは、一人の男性と楽しそうに喋っていた。しかし、その男性は、秀尊ではなかった。細身の体に黒と白のストライプシャツとピタリとした革のパンツを纏わせていた。暗がりの中であまりよく見えないが、アクセサリーもそこかしこにつけている。俗にいうホスト系の男であった。数分の談笑を重ねると、男が姫子の肩に手をやり、ホテル街の方へ歩き始めた。増井は、自然と相馬の手を取ると、引っ張るようにその後を追い始めた。ホスト系の男と姫子は、予想を裏切ることなくホテルに消えて行った。そのまま、張り込んでいても調査対象ではないので、長峰の携帯電話に連絡を入れた。ワンコール、ツーコール、スリーコールと呼び出すが、一向にでる気配がなかった。一度、切ってもう一度掛けるが、やはり出ない。相馬のスマートフォンからも掛けてみるが、やはり出ない。
二人は、胸騒ぎがした。
「営業所に掛けてみる」
増井は、そう言うと多摩営業所に連絡を取った。
「あ、もしもし。増井ですけど。長峰さん…。え?あ、はい。わかりました。はい。はい。わかりました。失礼します」
相馬は、言葉にせず表情で増井に問い合わせた。
「相馬。飲みに行くぞ」
増井はまた、新しい顔を見せた。
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