四、調査対象
俄かに上がっていた雨は、再び傘が必要なほどに振り始めていた。相馬、長峰、増井の三名は、車で移動を始めた。ハンドルは、相変わらず相馬が握った。
「カーナビに住所入れたから、この通りに走ってね」
助手席の長峰が言った。相馬の記憶では、秀尊の職場は、港区西新橋であった。所要時間は、約一時間である。
「あれ。これ、下道案内ですね」
「そうね。到着予定が十六時半から十七時くらいとして、調査対象の職場の提示が、十八時だからね。そんなに急ぐこともないでしょう。経費節減」
相馬の疑問に長峰は、そう答えた。
帝都探偵社では、クライアントから電話やメールで接触があると、まず営業がクライアントと面会する。これは、飽くまで本社や支社など人数が足りている営業拠点の話であり、小さな営業所では、その役目を調査員が担うことも少なくない。初めの打合せで、詳細を聞き、その上で一度見積もりを作成する。この見積もりは、色々な費用を考査した上で、実際の見積金額よりも多少高めに算出する。実際の請求金額が見積もりよりも高くならないようにするためである。一方で、高く見積もりすぎると、クライアントは依頼を取り消してしまうこともあるので、この兼ね合いは、経験の中で会得できるものだという。
十六時四十二分。多少の渋滞もあったが、長峰の予想した頃合いに、秀尊の職場があるビルの前に到着した。雨は、未だ降り続いている。
「どうしますか。どこかパーキングにいれますか」
「いや、ちょっとこちらから仕掛けよう。調査対象がいるかいないかだけでも確かめておかないと、無駄に時間を費やすだけだからね。
増井君」
長峰が後部座席に呼びかけた。しかし、返事がない。相馬は、バックミラーを覗き込んだが、運転席の後ろにいるのか、死角に入り込んでおり、見えなかった。思い返せば、途中から全く会話をした覚えがない。相馬よりも先に、長峰が体を捻じって直接後部座席を見た。相馬が声を発するのを察知したのか、顔の前に手を出してきた。静かにせよという合図かと思い、言葉を飲み込んだ。その手をそのままポケットに入れると、携帯電話を取り出した。
「カシャ」
シャッター音がした。
「喜べ相馬君。よほど君の運転が心地よかったらしいぞ」
長峰は、目尻に皺を寄せて、うれしそうに笑っている。さらに、携帯電話の画面を見せて来た。そこには、ややピンボケながら、増井の寝顔が映っていた。
「すいません。私、いつの間にか寝ていました」
相馬は、クールで仏頂面ばかりの増井が見せた無防備さに多少の親近感が湧いた。
「いいの、いいの。ちょっと僕と相馬君で、様子見してくるから、車にいてもらえる?」
長峰は、そう言うと、答えも聞かずに車を降りた。相馬も続いて降りた。車のバッグドアを開けると、ビジネスバッグを二つ取り出し、その一つを相馬に渡した。受け取ってみると、驚くほど軽い。相馬は不思議に思い、中身を見ると、丸めた新聞紙で一杯になっていた。
「とりあえず、今から僕と君は、営業マンの先輩後輩ね。付いて来て」
長峰は、車内にいる増井に手を振り、さっさとビルの方へ向かった。相馬は、わけもわからないまま、その後を追った。
ビルの中は、広いエントランスになっており、守衛が鋭い目を光らせながら立っていた。そんな事はお構いなく、長峰は、エレベーターの方へと歩いて行った。エレベーターロビーに着くと、ステンレス製の案内板が掲げられていた。それを指さしながら、目で追っている。
「八階だね」
長峰の言葉に八階の案内を見ると、ウィルホープシステム株式会社と書かれていた。資料に書いてあった社名である。
エレベーターに乗り、八階で降りると、目の前にすぐ、擦りガラスの扉と、脇に固定電話が一台置かれていた。照明や壁紙で華やかさを装っているが、無機質さを隠しきれていない。そんな空間である。
長峰は、電話の前に徐に立つと、右手で顎を撫でながら、考え始めた。すると、時機悪く、擦りガラスの向こうに人影が見えた。だが、時機が悪いと思ったのは、相馬だけであった。ドアが開くと、二十代後半から三十代前半と思しき男性が現れた。
「あ、こちらの方でしょうか」
「え、あ、はい」
長峰の問いかけに、男性は、多少戸惑いながらも答えてくれた。
「私、京浜プランニングの安達という者でして。本日、手賀沼社長とお約束させていただいたのですが」
「はぁ、社長なら外出してますが、十八時には戻ると聞いていますよ」
「あれ。私の勘違いかな」
安達と名乗った長峰は、手帳を取り出してパラパラと捲った。
「あ、すいません。明日と勘違いしてました。また、出直します」
長峰は、わざとらしく申し訳なさそうな笑顔を浮かべて、エレベーターへと向かった。相馬も男性に一礼して、長峰の後に続いた。エレベーターが閉まると、二人は、大きく息を吐いた。
「京浜プランニングなんて咄嗟によくでたなぁ。さすが俺」
長峰は、自画持参した。
「ちなみに、安達ってのは、カミさんの旧姓ね」
二人は、目を見合わせて、疲れたように笑った。
ビルから出ると、増井が運転席に座りなおしていたのが確認できた。増井もまた、二人が出て来たことをいち早く察知して、後部座席に移動した。
「あ、預かります」
相馬は、長峰の分のビジネスバッグを預かると、車のバッグドアへ回り、片付けてから、車に乗り込んだ。増井は、気を聞かせて二人に贈答でもらったようなフェイスタオルを渡した。たった数十メートルとは言え、かなり雨を浴びた。
「どうでしたか?」
「うん。今は外出中だけど、十八時までには戻ってくるみたい」
長峰は、フェイスタオルに顔を埋めながら答えた。
「増井先輩。パソコンに調査対象の顔がわかる様な写真ってあります?」
「あ、ある。待ってて」
相馬は、秀尊の顔を知らない。二人は、恐らく何度も確認していることであろう。
「どうぞ」
増井は、ノートパソコンを相馬に渡した。初めて見る秀尊の顔は、印象的かと問われたら、答えに困るところである。丸顔で優しそうな雰囲気は見受けられる。思っていたより若々しく感じた。
「あ、それは、ちょっと昔の写真みたい。三枚くらいクライアントから預かっているからカーソルキーで送ってみれるよ」
増井の助言に納得して、カーソルキーを押した。ゴルフコンペの写真であろうか。十人ほどの男性が、グリーンの上でにこやかに笑っている。
「これだね」
長峰が、画面に映る一人の男性を指さした。
指摘されて、納得した。先ほど見た男性が、そのまま加齢した男が笑っていた。サンバイザーをしているため、少し分かりづらいが、白髪交じりで丸顔にも少し皺がある。
次の写真は、酒の席での一枚と思しきものであった。若い男性と肩を組んで楽しそうに笑っている。すっかり良い気分になっているのであろう。顔も真っ赤に色づいている。
カーソルキーを押すと、再び最初に見た写真に戻った。
「あ、あれ。そうだ」
長峰の言葉で、相馬も増井も反射的にビルの方へと目をやった。そこには、確かに今、パソコン画面で見た男がいる。傘についた雨をバタバタと落としていた。すぐに連れと思しき男性とビルの中へと消えていった。
「どうします?」
「通勤は、電車だったっけ?」
「クライアントによると、基本は、車通勤だそうですが、会食などがある場合は、車を会社に置いてタクシーで帰ってくることもあるみたいですね」
「じゃあ、二手に分かれようか。僕は、適当なところからこのビルの駐車場入り口を見張るから、増井君たちは、ここでビルの出入り口を見張ってて」
長峰は、そう言うと相馬の持っていたパソコンを取り上げて、何やら操作を二、三行うと、手帳に秀尊の車の車種や特徴、ナンバーをメモした。
「じゃあ、対象が現れたら、お互い連絡ね」
それだけ言い残すと、長峰は、雨のオフィス街へと消えていった。
雲に覆われて日は見えないが、恐らく大分傾いているのであろう。十八時三十七分。秀尊は、相馬と増井が見張っているビルの正面玄関から一人で出て来た。
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