三、 クライアント

手賀沼佐与子との面会は、彼女が職場としている小平市内のマンションの一室で約束されていた。相馬、長峰、増井の三人は、車で目的地を目指した。運転は、相馬がした。相馬の運転が意外と慣れたものであり、二人を驚かせた。

 目的地付近のコインパーキングに車を止めて、歩いて五分ほどでメトロレジデンス小平というマンションにたどり着いた。多摩営業所の入っているビルと違い、建物の入り口にインターホンがある。長峰は、部屋番号を押すと、しばらくして反応があった。

「お約束させていただいていた長峰ですが」

インターホンのやり取りでもマニュアルがある。アポイントを取る際に、名前をはっきりと相手に伝え、インターホンではなるべく社名を名乗らないようにする。クライアントの近所付き合いなどもあるので、探偵を依頼したということを悟られたくない人もいるためである。相手が気付かない場合は、カメラのあるインターホンでは、名刺か社員証を見せる。カメラがない場合は、「帝都の…」など、気が付かせる努力をする。佐与子は、すぐに気が付いてくれたため、すんなりと部屋へと導かれた。

 佐与子は、目を見張るほどまでとは言わないが、自然体の美人である。少しやつれてしまったのか、手の甲などに年齢を感じさせる部分はあるものの、メイクや着る物によってはもっと若くみせることもできるであろう。

紅茶でもてなしてくれた佐与子に、三人はそれぞれ名刺を渡した。

「さて、早速本題名のですが、今回のご依頼内容は、こちらでお間違えないですか?」

増井は、そう言うと一枚の紙きれを佐与子の前に提示した。依頼契約確認書と呼ばれる立派な書類である。佐与子は一通り目を通すと、小さく頷いた。

「では、こちらに日付とご署名をお願いいたします」

増井は、ボールペンを差し出した。それを受け取り慣れたようにサインをする。その横で増井はノートパソコンを開き、黙々と準備を進めている。長峰は、静かに紅茶を口に運んでいた。相馬は、辺りを見回して落ち着きを隠せないでいた。

 2LDKという一室は、普通のマンションをオフィスにしているせいか、仕事場という雰囲気はあまり感じられない。

「ウェブデザイナーと言いますと、企業のホームページなどを作られているんですか?」

相馬は、何となく重たい空気を嫌い、話を切り出した。

「ええ。と言っても、皆さんがご存じのような大手企業さんというよりは、個人商店などをメインにやらせてもらっています」

「営業の人がいくつかプリントアウトした物を見せてもらったけれど、フェミニンなデザインとお見受けしました」

長峰が続けた。この男の口からフェミニンという言葉が出てくると、違和感を覚える。

「そうなんですか。僕も昔自分でホームページを作ってみようとしたんですが、なかなか上手にできなくて」

「あの。仕事の話をさせていただいてもよろしいでしょうか」

増井は、相変わらずの仏頂面で割り込んだ。

「あ、すいません。どうぞ」

その後、増井は淡々と確認事項を消化するように問答をしていった。

「ここ数日は、ご主人は帰宅されてますか?」

「それが、依頼してから遅くなることはあっても、帰ってこないということがなくて。もしかして、私の考えすぎだったのかと…」

「そうですか。まぁ、でも二週間きちっと調査して、白黒はっきりさせましょう。そのほうが思い悩んでいるよりも楽になりますよ」

「はい…」

佐与子は、務めて明るく振る舞うでもなく、泣き崩れるわけでもなく、暗い表情を浮かべているものの、フラットな感情を保ち続けていた。

「資料によりますと、ご主人がもしも浮気されているという結果の場合、どうなさるか、迷われているとのことですが…」

「そうですね。今でも決められないでいますけれど、多分…。続けていくのは…」

やはり、夫婦生活を続けることは、困難なのであろう。一つの夫婦の終わりを左右するのかと思うと、相馬は背筋が凍る思いがした。

「もしもの時は、弊社で懇意にさせていただいているその手の案件を得意とする弁護士もいますので、お声がけください」

「実は、私と主人も最初は不倫からの始まりだったんです…」

思いがけぬ佐与子の告白に、三人は目を丸くした。なるほど、確かに案件の都合上、クライアントと調査対処の馴れ初めは、聞く必要性があまりない。それ故、ここに来て佐与子がこのような話を始めたのは、まさに青天の霹靂であった。

 佐与子の話を要約すると、二人の出会いは、佐与子が二十五の時のことであったという。計算すると、調査対象である夫・秀尊は当時、三十三であったということになる。二人は、先述の通り大手家電メーカーにいた。二人は、部署は違うが、同じ拠点で働いていた。お互いに見かけたことはあったが、会釈する程度の間柄でしかなかった。二人が接近した機械は、社運を賭けた一大プロジェクトを部署の枠組みを超えてチームを組んだ際に、佐与子は、広報部代表として、秀尊はシステム開発部代表として参加した時のことであった。

 秀尊は、システム開発部の人間ということもあって、パソコンにはとても明るい人間であった。そうした部分で、佐与子は、秀尊に助言を求めることも増えた。どちらともなくと、言えば聞こえは良いが、実際のところは、佐与子からかなりアピールを仕掛けた模様である。当然、秀尊は、妻帯者であることを隠してはいなかった。佐与子もそれは知っていた。それでも良いからという程、佐与子は秀尊に入れあげていた。

 この不倫関係が成り立った背景には、二つの要因があったと、佐与子は言う。一つは、秀尊と当時の妻の関係が、大分冷え切っていたということ。二つ目は、秀尊が押しに弱い人間だという事。当然、最初は拒否をするが、やはり、何度も声を掛けられると、男として悪い気もしないもので、食事、お酒、デート、肉体関係と、なし崩し的に関係を深めていってしまった。

 さらに、この不倫関係が、婚姻関係へと発展したのも、時機が良かったと言える。秀尊の妻から離婚を提案されたのである。そう言われた秀尊は、背筋を凍らせたことであろう。自分の不倫がばれたのではないかという疑念が、最初に脳裏を過ったためである。実際には、過剰な心配であった。二人の間には、子供もいなかったため、財産分与を等分に行い、離婚をした。

 離婚を機に、秀尊は退職をして、今の会社を立ち上げた。二か月ほど遅れて、佐与子も依願退職をして、独立した。その後、生活が落ち着いた一カ月後頃に二人は籍を入れた。秀尊は、佐与子が初婚ということもあり、式をあげようと提案したが、拒否した。これ以上、何かを望んでは罰があたりそうで怖いと思ったらしい。その代り、互いの身内や気心の知れた人間を二十人ほど集めて、レストランを貸し切り、パーティーを開いて祝った。

 二人の馴れ初めは、まさに時機の良さが運び込んだ、棚から牡丹餅と言えるようなものであった。それから十年余りの月日が流れて、今まさに夫婦は、危機を迎えていた。

「ちなみに、今回とは別に、以前にも疑わしいということは、ありましたか?」

長峰は、広げた脚の両膝に、両肘を乗せるようにして、上半身を前に乗り出した。

「いえ。私が気付いていないだけかもしれませんが、知る限りではなかったと思います」

恐らく、それは間違えがないであろう。女の勘というものは、総じて鋭い傾向にある。殊に不倫を経験した佐与子のそれは、人一倍鋭いものと考えられる。長峰の直観であった。

「相馬君は、何か聞いておきたいことあるかい?」

長峰のこの台詞を引き金に、しばらくの沈黙が続いた。長峰は、相馬の方に視線を向けている。相馬も、何か聞き漏らしがないか、資料に目をやる。増井は、これまでの問答や、佐与子の話をパソコンで記録している。

 その沈黙を切り裂いたのは、佐与子のスマートフォンであった。

「すいません。ちょっと失礼します」

「ああ、どうぞ」

佐与子は、席を外し、恐らく仕事部屋にしていると思われる隣の部屋へ消えていった。

「そんな無理にひねり出そうとしなくても良いよ。聞きたいことがあれば、また電話とかで聞けばいいんだから」

長峰は、笑顔を浮かべて慰めた。

「すいません」

「増井君も特にない?」

「はい。大丈夫です」

「それじゃ、奥さんが戻ったらお暇しましょうか」

長峰が言った。隣の部屋で電話している佐与子の声は、内容まではわからないが、僅かに聞こえる。二分ほどで、そろそろ電話が終わりそうな雰囲気を読み取った三人は、手早く身支度を整えた。

「すいません。お待たせしまして」

「いえいえ。とりあえずお仕事もありますでしょうから、今日のところは失礼させていただきます」

「わかりました」

「また、お尋ねしたいことがありましたら、お邪魔するかもしれません」

「わかりました」

三人は、佐与子のオフィスを後にした。

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