二、 多摩営業所
相馬は、もう一度渡された地図を見直した。立川ゴールデンビルという名称が一致するため、どうやら間違えてはいなさそうである。オフィスビルのようなものを想像していた相馬にとっては、不安しか過らない。空を見上げれば、五、六階くらいはありそうな細長い雑居ビルである。入口には、ドアなどの概念はなく、エントランスと呼ぶには実に物足りない空間がある。真正面には、エレベーターがあり、横に非常階段も兼ねていそうな階段がある。脇に目をやると、集合ポストがあった。どうやらこのビルは五階建てのようである。そして、三階のポストに色あせたシールで帝都探偵社・多摩営業所と貼られていた。ふと、五階のポストに目をやると、ひし形をモチーフにした人が両手を目の前に広げるようなマークがあり、中央に十八が算用数字で書かれている。それが何を意味するかくらいは、相馬でもわかる。いよいよ持って怪しげなビルであることを物語っている。
(同じ会社でも、所変わればこんなにも違う物なのか)
相馬は、エレベーターに乗り込み、三階に上がった。
エレベーターが開くと、目の前にはベージュ色をした重たそうな鉄の扉があり、ここにも帝都探偵社・多摩営業所と書かれたラミネートシールが貼られていた。それも端がめくれかかっている。薄暗い廊下には、陽が差し込むこともなく、不気味さがある。ドアの横にあるインターホンを押すと、少しタイムラグを置いて、返事がきた。若そうな女性の声である。周りの雰囲気に似つかわしくなく、カメラ付きのインターホンだけが新しく後から取り付けたようであった。そのカメラに顔と首からぶら下げた社員証を手に持って近づけた。
「はい」
インターホンのマイクから若そうな女性の声がした。しばらくして、ギィーという音共に重たい扉が開かれた。ドアを開けてくれたのは、やはり女性であった。少し疑うような視線が最初に印象として残った。黒縁眼鏡に肩程に伸びた髪は、お世辞にもお洒落に気を使っているとは思えない。黒いチノパンもそうであるが、この梅雨時期にグレーの長袖シャツを着ている。当の本人は、涼しげな顔で澄ましているが、見ているこちらは暑くて仕方がない。
「どうぞ。中へお入りください」
女性は、そう言うと、ついて来いと言わんばかりに背中をくるりと向けて、真っすぐ伸びた廊下を歩いて行った。相馬も慌ててついていく。とある木製の扉の前で立ち止まると、扉を開けて中へと入って行った。中は、シンプルなデスクとオフィスチェアが四つ置かれた応接室のようになっている。
「どうぞ、お掛けになってお待ちください。今、長峰主任をお呼びいたします」
同じ会社の人間とは言え、初対面のせいかどこかよそよそしい態度である。そういえば、社員証も掛けていなかったため、名前さえ知らない。先輩女性社員は、そっと部屋から立ち去ってしまった。
相馬は、部屋に一人残された。孤独というのか、手持ち無沙汰というのか、こうした時間は苦手である。幸いなことに、五分と経たずにドアがノックされた。相馬は、慌てて立ち上がった。開かれたドアの向こうには、にこやかに笑顔を浮かべた初老の男性と、先程応対してくれた女性が立っていた。
「やあ、どうも。わざわざご足労いただきまして」
初老の男性は、明るい口調でそう言うと、すたすたと部屋に入り、相馬の目の前に腰を掛けた。女性も軽く会釈をすると、男性の隣に続いた。
「本社の相馬昌悟です。ご指導のほどよろしくお願いします」
緊張した相馬は、そう言って、深々とお辞儀をしようとしたが、男性は手のひらを下に向けて上下に揺らし、挨拶の終わりを促した。それに従って、相馬は、腰を掛けた。
「私は、主任調査員の長峰です。こちらは、
簡単に二人は自己紹介をすると、話は本題へと入っていった。長峰が、簡単に概要を話した。その内容はと言えば、相馬にとっても増井にとっても別段目新しいことはなく、ただの確認作業であった。
「で、この案件につきましては、元々私と増井君の二人で行う予定だったので、相馬君には加わってもらって勉強してもらえたらと思います」
長峰は、老眼鏡を少し下げると目尻に皺を作って笑顔を相馬に向けた。
「このあと、十三時からクライアントと打ち合わせをする予定になっていますから、先に昼を取りましょうか」
長峰にそう言われて腕時計に目をやると、十一時少し前であった。朝食も碌に食べていない若者には、空腹を感じる時間である。恐らく、緊張が程よく解けて来たということもあるのであろう。
三人は、営業所近くの食堂へ出向いた。長峰の行きつけの店とのことで、こぢんまりとした佇まいながら、五百円の日替わり定食が好評ということで、すんなり入店は出来たが、店内は、昼前だというのに満席に近いほど盛況していた。四人掛けのテーブル席が一つ、丁度空いていたため、そこへ案内された。
「今日の日替わりはなにかな?」
「今日はね、マグロカツですね」
「じゃあ、それ三つね」
長峰は、常連らしく流れるような注文で腰を落ち着けた。相馬は、気を聞かせてセルフサービスの水を三名分用意した。翌々見回してみると、スーツ姿のサラリーマンやギャンブル帰りと思しき中高年男性ばかりである。女性客は、増井くらいと言っても過言ではないほどに男性が圧倒的に多かった。
「この後、一時からクライアントと打ち合わせの後は、そのまま調査に入るんですか?」
増井は、水を一口飲むと長峰に訪ねた。
「うん。そのつもりだよ。まぁ動向が少しでもつかめたらいいね」
落ち着いた口調ながら、長峰は、少し動揺している様子がうかがえた。
「それはそうと、相馬君は、どちらの出身だい?」
話の流れを慌てたように変えた。相馬は、不思議に思いながらも、答えた。
「長野県の中野市ってところです」
「あー。渋温泉とか湯田中の近くのだよね」
長峰は、わざと明るく振る舞うように、話して見せた。その横で増井は、少し怪訝そうな表情を浮かべていた。恐らく、仕事の話をしたかったのであろうが、長峰に遮られた。長峰は、以前に旅行で湯田中に言ったことがあるらしく、とりとめのないローカルトークを相馬とした。そんな場繋的な話をしていると、日替わり定食が三つ、テーブルに運ばれてきた。小さめの茶碗に山盛りに盛られた白米、味噌汁、白菜の漬物と沢庵、小鉢にはひじきの煮物、それらを脇役にしているのが、千切りキャベツの上に堂々と寝かされたマグロカツであった。
長峰は、さっとウスターソースを掛けると食べ始めた。食事中は、先ほどまで取り繕うように喋っていた長峰も黙って食べ続けていた。相馬は、居心地が悪かった。座っている位置からテレビ放映が見えたので、そこに視線をやりながら、黙々と食べていた。
三十分もすると、増井が箸を置いて全員が食べ終わった。
「すいません。お待たせしました」
増井はまだ口の中に物が入っているが、手で隠すようにして、そう詫びた。二人を待たせている後ろめたさと本人も早く仕事に戻りたいのであろう。
「よし。じゃあ、行こうか」
長峰は、テーブルの会計伝票をサッと手にすると、腰を上げた。
「皆、一緒でね」
長峰のその言葉に、相馬は、慌てて財布を取り出した。
「ああ。いいよ、いいよ。ここは」
「え。あ、すいません。ごちそうさまです」
スマートな奢り方だと、相馬は思った。これまで学生であったというのもあり、奢られるということもそんなにはなかったが、彼の人生の中で、一番スマートであった。例えば、大学の先輩に奢って貰った時は、その後数日間、恩着せがましくされた。彼の中の比較対象が乏しいのかもしれない。
三人は、定食屋を出ると、営業所へと一度戻った。その道中で長峰は言った。
「増井さん。ああいう公衆の場では、仕事の話はしないほうが良いよ。相馬君も気を付けてね」
長峰にそう言われて、増井はハッとした。相馬は、研修で教わったばかりだったので、それが何故かしてはならないことなのか、わかっていた。
「すいませんでした」
「うんうん」
探偵という仕事は、個人情報で飯を食っているようなものである。敏感になりすぎだと言えば、それまでだが、どこで誰が聞き耳を立てているかわからない。漏れた情報は、インターネットを伝って全世界にあっという間に拡散するご時世である。増井は、いくらか初心を忘れてしまっていた。
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