月給探偵の初仕事

土村昌郎

一、 新人探偵

 東京を隠すように雨雲が広がっている。梅雨明けの待ち遠しい七月中旬。例年に比べて梅雨が長引いている。世田谷区南烏山にも例外なくその雨が降り続いている。さほど雨脚は強くないが、平日の朝ということもあり、通勤者たちの溜息がさらに空気を重たくしているかのようである。

 新宿からも近いこの地に男は住んでいる。三階建てのグレーのタイル張りを纏ったワンルームマンションは、取り立てて特徴があるわけでもないが、築五年という若さからか、新しさはまだ褪せていない。

 男の部屋は、二階の角部屋である。八畳のフローリングを主な生活スペースとするこの部屋には、クリーニングをしたばかりの独特な匂いが残っている。さらに片付途中の段ボールや家具類が、越してきたばかりであると推測できる。その反面で家具や家電の類は、使い古された物が多く、部屋とのギャップを感じさせる。それもその筈で、彼は数日前まで同じく東京の府中市にあるアパートで暮らしていた。

 さて、住人の男はというと、未だベッドで夢の中にいる。寝付くときは掛けていたと思われるタオルケットは、無残にも床に落ちていた。それほどに寝苦しい気候だということである。

 男の名前は、相馬昌悟そうましょうごという。まだ二十二歳と若造である。長野県中野市にある果樹園の家に生まれ、地元近くの公立高校を出て、大学進学を機に東京に出てきた。就活のシーズンになり、どのような職種に就くか特に希望を見いだせなかった際に、大きなホールで行われていた企業説明会で人の集まりが悪いブースがあり、どういうわけかここで企業の人間と意気投合し、熱心に誘われたため、試験を受けて合格した。聞けば、全国に八十以上の営業拠点を持っており、出張は多いが転勤は少ないという。出来れば地元である長野で就職したいと思っていた相馬にとっては願ってもいないことであった。しかし、彼が東京にいると言うことは、その願いは叶わなかったということになる。

 時計の針、とは言えデジタル時代のこの部屋にはアナログ式の時計は、普段つけている腕時計くらいしかないのだが、時刻が七時を回ると、部屋中に猛々しくアラーム音が鳴りだした。相馬は、体をピクリと動かしたかと思うと、ゆっくりと上半身を起こした。枕元に置いた細い鼈甲縁の大きな眼鏡を掛けて、鳴り止まないスマートフォンを手にして、アラーム音を止めた。一つ大きく息を吐くと、テレビを付けた。しかし、その画面には目もくれることなく、玄関の方にある洗面所で身嗜みを整え始めた。排泄、洗顔、整髪、髭剃り。三十分後には、スーツ姿の相馬がいた。

 マンションから最寄りの京王線千歳烏山駅までは、徒歩五分である。そこから区間急行本八幡行に二十分も揺られれば、初台に到着する。地下ホームからさらに十分も歩みを進めれば、そのビルに到着する。

 地上十五階、地下二階を擁する建物は、周りの高層オフィスビル群に比べれば見劣りしてしまうが、全国の営業拠点を束ねる本社ビルとして機能している。登記上のビル名は、テイタン東京ビルディングとなっている。この時間はまだ重々しいシャッターで閉ざされているが、二時間後にはガラス張りの壁がむき出しになり、一般客の来社スペースが開かれる。社員はと言うと、脇にある通路から社員通用口にて出入りする。

 その鉄製のドア横にある読み取り装置に社員証をかざすと、オートロックが解除され、中に入ることができる。因みに宅配業者などが来社した場合は、この社員通用口と対角線上の位置に守衛がおり、手続きをしてビル内に入ることができる。

 通用口からビルに入ると、三機のエレベーターがあり、相馬が押した階数ボタンは八階であった。エレベーター内には、フロア案内が掲示されている。一階は、お客様窓口。二階は、営業課など明記されており、彼の向かう八階には調査課第一調査係とある。調査課というあまり他の企業では聞きなれない部署が、この会社では主力となっている。その証拠に九階には同第二調査係。十階には同じく第三調査係と調査課だけで三フロアを使用している。

 彼の務める会社は、帝都探偵社という大手探偵会社である。その中でも探偵として実際に業務にあたるのは、調査課に所属する人間たちがそれである。彼の名刺には、帝都探偵社のロゴと共に中央統括本部東京本社調査課第一調査課係調査員と書かれている。つまり、相馬も新米とは言え、探偵ということになる。

そして、第一日目がこの日であった。入社は四月からしていたが、七月から初仕事となったのは、三か月間の研修期間があったためである。同社では、調査課に配属された新入社員には、この研修が課せられる。ここで基本的な知識などを叩きこまれて、それぞれの現場に送り出される。

 さて、八階のフロアに到着すると、まだ始業時間前ではあるが、賑やかな声や雑音に包まれている。相馬は、ある人物を訪ねるように予てから支持を得ていたが、情報としては、名前と役職しか得ていないため、適当な人物に訪ねてみた。

「すみません。沖瀬おきせ係長は、どちらにいらっしゃいますか?」

相馬の声掛けに、デスクワークに打ち込んでいた男性は、見慣れない顔に不思議そうな表情を浮かべながら、指さして答えてくれた。簡単に礼を述べて、その方向へ行くと、三十代半ばと思われる体格の良い男性へと行きついた。各デスクには、名札が掲示されており、探していた名前が書かれていた。

「おはようございます。沖瀬係長でいらっしゃいますか?」

「おお。おはようさん。えっと、相馬君だったかな?」

「はい。今日からよろしくお願いいたします」

沖瀬は、待ち焦がれていたかの様に、明るく応対してくれた。

「で、早速で悪いんだが、多摩営業所の長峰ながみねさんとこを訪ねてもらえるかな。そっちで丁度今日から取り掛かる案件があるから。はい、これね」

沖瀬は、数枚の紙を渡した。どうやら取り掛かる案件の資料の様である。

「これ、行きがけの電車の中で読んどいてね。でも、個人情報だらけだから。周りに気を付けながらね」

無茶な注文をつけると、会議があるからと立ち去ってしまった。

 新宿駅から中央線に揺られる中、手渡された資料に目を通す。依頼主の名前は、手賀沼佐与子てがぬまさよこ、三十八歳。個人でウェブデザイナーをしている既婚者とある。依頼内容は、夫・秀尊ひでたかに対する浮気調査である。秀尊は、アプリケーション開発会社の社長をしている。年齢は、佐与子より八つ上の四十六である。二人は、元々大手電器メーカーにいた。それが、出会いのきっかけでもあった。当時、別の女性と婚姻関係にあった秀尊であったが、佐与子とは二年以上の不倫関係にあった。独立を機に、離婚をして、佐与子と一緒になったのは、十年前のことである。少しタイミングをずらして佐与子も退職し、個人事務所を立ち上げた。二人の間には子供はいない。

 佐与子が、浮気調査を依頼するに至ったのは、秀尊の行動に変化があったからだという。社長という立場上、付き合いで酒の席など帰りが遅くなるということは、多々あった。それでも日付が変わってから帰ってくるということは少なかったという。しかし、一年ほど前から日付が変わってから帰ることが多くなり、半年ほど前からついには、帰ってこないまま仕事へ向かうということも増えたという。

それにより、口論となったことも一度や二度ではない。ついには居た堪れなくなり、会計士からの紹介を経て、帝都探偵社に相談したというのが経緯であった。

 二人の間には、子供がいない。佐与子は、できればやり直しを望んでいるが、一方で離婚もやむなしという思いもあるという。相馬は、研修で聞かされていた。依頼内容の七割近くは、浮気調査であるという。残りは、人物捜索、身辺調査、ストーカー対策などであるという。

「まもなく、立川。立川です。青梅線、南武線はお乗り換えです」

車内の自動放送ではっと我に返った。降りる駅である。

 時刻は、もうすぐ十時になる頃である。新宿ほどではないが、この立川もまた人の往来が絶えることのない繁華したターミナルである。資料と一緒に渡された多摩営業所の地図を片手に東改札を出て、左に折れる。南口に出るとダブルデッキが目の前に広がり、バスロータリー上空を横切るように歩くと、大きな商業施設ビルがあり、その目の前にエスカレーターが見えてくる。地上階へと降りると、小路が入り組んだように大小のビルが立ち並ぶ繁華街が広がる。地図が示す通りに、歩みを進めると、一つの古びた雑居ビルの前に立った。

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