第一章
1-1
*
ぶつぶつと、口の中で繰り返す。気味悪がられても構うものか、どうせ誰も来やしないのだ。白い玉砂利の上にしゃがみ込んで、由良は膝の上に両手の肘を置き、うつむいて頭を抱え込んで呟き続ける。
愚痴を言っても呪詛を吐いても仕方がない。それは分かっている。でも、何か言わないとやっていられない。
不揃いに途切れた髪が、肩口で揺れている。あるいは、長い部分の髪は、背中の中程でわだかまる。
せっかくのばしたのにな。
今日の由良は、着たくもなかった制服を着て、始業式前の、教科書購入などのイベントをやりに行くところだ。
行きたくない。
「由良様」
家人が呼んでいる。由良は頭を抱えたまま、動かない。
既に家にいない両親の代わりに、環叔父が一緒に行ってくれることになっていたが、入学願書の手続き時も何もかも家人を伴って由良が自分で行ったので、たぶん今回も来ないだろう。
別にそれでもいい。やけくそのように、荒んだ気持ちではき捨てる。
入りたかった学校の制服は、ほんの一度袖を通しただけで使用終了してしまった。
(あぁ、いやだ)
「おい」
少し引きずるように、下駄がこちらに歩いてくる。むろん、下駄は誰かに履かれているわけで、履いている者が誰なのか知っているから、余計に由良は顔をあげたくなくなった。
「何やってんだ」
少し丈の足りていない服が、目の端に見える。この人はいつからこんな格好をするようになったのだろう。最初からか。
「おい、いつまでそんなことやってんだ」
瞼が腫れぼったくて、もう誰にも顔を見られたくない。そもそも、由良はお腹が痛くてたまらなくてしゃがんでいたのだった。プレッシャーや些細なストレスでうなり声をあげる胃腸を、胃薬以外ではなかなかなだめることができない。受験の時は大丈夫だったのに。最近、特にひどいのだ。
嫌で嫌でたまらなくて。
いつかは笑って話せるようになるとか、そのうち新しい学校でもいいことがあるとか、大人は無責任に慰め励まそうとするけれど、逃げ場のない現在において、この苦しみは永遠に続くみたいに厳然としてここにあって、由良は、逃れられないまま、逃れられないところへ追いつめて逃がす気のない家人と家の風習を恨めしく思った。
励ますよりも、解き放ってほしい。
若い、男の声が言う。
「鼻水垂れてようが顔がむくんで腫れ上がってようが、それでお前の造作がどうにかなるもんでもないだろ」
「全く誉めてないよね?」
「由良。中で待たれてるぞ」
そんなことを言われても困る。
「……行きたくない」
ぎしぎしと、食いしばった歯の隙間からそう言うと、バカにしたふうに鼻息が降ってきた。
「何がそんなに嫌なんだ」
「何もかも」
どうしようもねぇじゃねーか。つまらなさそうに言い切られる。それもそうなのだが、気持ちがついてこないのだ。
「梓は優しくない」
「うるせえ」
息を吐いて、由良は勢いをつけて立ち上がる。嫌だけれど、やらなくては。これはお役目。昔、白河家が行った所行の尻拭い。
(私の家には、蔵がある)
表にある、農機具や味噌などをおさめた場所ではなくて、家の奥にも、内造りの蔵がある。納屋みたいに物が突っ込んであるわけではない。厳重な、分厚い扉に守られた先には、綺麗な畳と、座敷がある。
まるで宴会でも開けそうな、普通の、お屋敷。
――その奥に、ふすまで隔てられた先に、冷たく、暗い部屋が、ある。本当に覗いた人は、たぶん、もういない。
(お母さん)
ぎゅっと、シャツの前を一瞬だけ握って、由良は玄関を何食わぬ顔であがる。
腫れた顔を見た家人が、蒸しタオルをくれたりするのを、仏頂面で押し退ける。
広縁には数名が座っていた。
隣の座敷に、さらに数人。
近所の、手伝いの人や、家人達。
この中には、由良と血の繋がりのある人は、現時点でたぶんいない。元が小さな村なので、遠いご先祖様は、繋がっているのかもしれないけれど。
きゅっとくびられるような痛みを覚えて、思わず由良の膝が砕けそうになる。
まだ腹が痛いのかと不審げにこちらを見る、梓の視線を背後に感じる。
座敷には、人には珍しい、不思議な灰みの目の男も座っている。少し振り向くと、ついてきている梓の、険のある目とぶつかった。こちらも、茶ではあるが、どこか底知れない、灰色みが混ざっている。冬の火花を見るような。
(あの子があのときの姿のままで、いてくれたらな)
そうしたら、ふわふわしたお腹を撫でて、きゅうんと鳴く喉を撫でて、鼻にキスして、この不安感も吹き飛ばせるだろうに。
(でも、あの子は)
幼い頃に見た子犬のことを懐かしんだ後は、冷たい現実が待っている。
「由良様。それでは、お役目よろしくお願いいたしますね」
家人から、揃えたようにぴしりと言われて、鳥肌が立つ。諦めて、座卓の上にあったものをポーチに突っ込んだ。家人がしごく丁寧に言う。
「由良様、それはいつも身につけておかれますよう」
「分かってる」
かさばるけれど、由良はポーチごと、スカートのポケットに入れた。家人の説明を聞き流し、真新しい鞄を持ち上げる。まだぬいぐるみやその他ストラップ類で飾りたてる余裕がなくて殺風景だ。持ち手を掴んで肩に掛ける。
「……いってきます」
気持ちがよろけて畳の縁まで踏んでしまう。一同は我関せず、女性陣もいるというのに何だか野太い声で、一斉にいってらっしゃいませと言い放った。
「梓。梓も来る?」
「何だ急に」
弱音を吐いたら、狭い廊下ですれ違いざまに怪訝に眉をひそめられた。
「……別に」
唇が歪む。
玄関で靴を履き、全く晴れがましくない気分で、開けっ放しだった引き戸の向こうを睨みつけた。
「白河由良、いってきまあす!」
気合いをいれようとして叫ぶ。由良は振り返らないで、広々した田圃の真ん中の、広いあぜ道を突き進んだ。
*
ひら、と桜が舞う。新入生にあわせて、どうにか咲いてくれた。頬を染め、高い声でさえずりあう子ども達は、やっぱりまだ中学生みたいな顔をしている。
「やぁ、間に合った」
「叔父さん」
遅い、と睨みたいところだが、由良はほっとしたあまり鞄を肩からずり落とした。叔父が鞄を軽く支えてくれる。
「あ、ごめんなさい」
「こういうときはお礼を言うもんだ。まぁそれもよそよそしいけど」
「茜さんは?」
「旅行中」
いつも真っ白いワンピースを着ていた叔母は、今も由良のイメージの中で、少女みたいな微笑みを浮かべている。日傘をさして、穏やかで。たおやかなくせ、どんな辺境の山奥にもあの細腕で行ってしまう。特に岩山が好きで、登山というのでもなく、山野草の分布を見て回るのが趣味である。いったいどこで、叔父と出会ったのだろう。家にきてもぐうたら寝てばかりいる叔父のことを思うと、由良は怪訝な気持ちになる。
「何。どうしたの。不穏だよ」
眼鏡を傾かせてこちらを見やった叔父に、由良は言ってやる。
「叔父さんがどうやって茜さんをたぶらかしたのかなーって、考えてる」
「何それ。由良ちゃんは余裕だな」
逆だ。余裕がないから、落ち着かなさを会話で隠そうとしている。大人は何にも分かってくれない。でも、叔父は分かっていてやっているのだ。からかうような目を向けて、ざわめく校舎内の空気を吸う。
「懐かしいな。僕が通ったのはここじゃないけど、学校っていうのは安穏として殺伐としてる。どこだって一緒だ」
「叔父さん、詩人のなり損ねみたい」
「落ち着かないんだ。柄でもなく、まともな社会人の真似をしているから」
昇降口で、クラス割りを見る。見知らぬ名前ばかりが並んでいた。徒歩通学には少し遠い程度の、微妙な距離の学校だから、もっと知っている子がいるのではないかと思ったが。
(本当なら、ここじゃなかった)
あれほど受験勉強をしたのに、せっかく希望校に受かったのに、どうしてここにいるんだろう。どうして、の、理由を、由良は既に知っているのだけれど。
きりきりと痛む胃に脂汗がにじむ。
「大丈夫?」
心配したそぶりを見せてくれるが、だからと言って叔父が何かしてくれたことはない。保健室に行って休むか、と聞いてくれることもない。愚痴ると、じゃあ言ってあげようか、と言い返されてしまうのが分かっているから、業腹なので由良は黙る。
甘やかしてくれない。
早いうちにあの家を出てしまった叔父は、もしかしたら、自分の見知った兄弟ではなくその娘であるという由良を、今一つ人間として認識していないのかもしれない。
由良がごく幼い頃から、彼はそうだった。まだ、由良が幼稚園に行く前だったと思う。庭で転んだ由良が、泣き出す寸前、砂利を踏んで目の前に立った若い男が、スーツの足首で、由良を横凪に払い、踏みつけた。
意味が分からなくて――痛くはなかったけれど、そんなことをされるなんて今までになくて、驚いて動けなかった。
実際意味がなかったようで、事情は説明されなかった。けれど、由良にはこの叔父がろくでもないことだけは理解できたし、できれば近づきたくもなかった。
血縁だと分かっている唯一の人間だから、ときおり、情みたいなものを期待してしまうのだけれど。
由良は我に返る。
若ぶった、実際若い叔父が、女子高生になりたての少女達の視線をいくつか集めている。顔かたちはよく愛想もいいので、一瞬皆だまされそうになる。だが、叔父は底のところが笑っておらず、得体が知れない。
息をついて靴を上履きに変える。土があがっていない廊下は、真新しくはないけれど清潔そうだった。割り当てられたクラスの戸口で、他の生徒と一緒に、席順を見比べる。教室の後ろに、保護者が並んでいく。由良は他の生徒と同じように席に着こうとした。それを、一瞬、叔父が腕を引いて、止める。
「気をつけて」
丁寧な口振りで、念を押す。
「叔父さん」
ことさらに力を込めて、でも何でもないことのように、由良は言い返した。
「大丈夫。だって、ここは、学校だよ」
「――だといいけど」
自分の用は済んだとばかりに、叔父は由良の腕を押し返した。
いっそう胃がキリキリする。
席について、一瞬目を閉じた。ふわふわした毛並みを思い出す。小学生の頃に出会ってからずっと、側にあった、きゅうんと鳴く、子犬の気配。受験勉強の頃からは、あの子は遠のいてしまったけれど。今でも、由良の胸に、小さな火をともしてくれる。
たとえ吹けば飛ぶようなものであっても。
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