1-2

 体育館に集められ、つつがなく挨拶が終わり、また教室に戻される。授業はなくて、早々に解散だ。

「どうするお姫様」

 からかう叔父が、腕を差し出す。ドレスでも着ていれば様になるが、あいにく制服だし由良はそんなことしたこともないので、鞄も自分で握りしめて、昇降口を出た。

「友達はできそうかい?」

 緊張でそれどころではなかったので、叔父を睨みつけた。

「繊細な子だなぁ」

 面白そうに笑われると、ため息が出る。

「教室にも体育館にも、何にもいなかった」

「あぁ、そうなんだ」

「他人事みたいに」

「昼ご飯、どこかで食べて帰る?」

「いい」

 望んでいた学校に行けるのなら、帰りの寄り道も嬉しいものだったろう。望まない学校、望まない生活。ため息ばかり出る。

「いつ、アレが出るのかも、分からないのに、のんびりできない」

「あんまり根を詰めると倒れるよ」

「誰のせい」

「うーん、君のせい?」

 肩が重い。そのとき、叔父が足を止めた。

「そろそろ帰ろうかな、お迎えがいるし」

「え?」

「あそこにいて、さっきからすんごい睨んでるの、君の番犬でしょ」

 番犬、の言葉が、どこか駄犬に聞こえたのは気のせいじゃないのかもしれない。

 叔父は鼻を鳴らして、お役ごめんで嬉しいとばかりに去ってしまった。――一応、お礼を、ちゃんと言っておくべきだった、と思ったが、気づいたときには叔父は見あたらない。

 由良は再びため息をつく。息をつけばつくほど、体に入った力は抜ける。同時に、気力も抜けていくようだが、張りつめた気持ちが胃に穴を開けそうなのよりは、遙かにいい。息を吸い込んで、人混みを一瞬だけ忘れ去って、清く呼んだ。

「梓」

 ふてくされた顔で、学生みたいな白いシャツをだらしなく羽織って袖を通した格好の、青年がこちらを振り返った。時代に合わない下駄の歯が、アスファルトの上の小石を軽く引きずる。

「あいつは?」

「帰った。石も置いていかなかった。何のために学校にまでついてきたのかな」

「学校の入学式ってやつには、保護者の代わりがいるんだろ? そのために呼ばれたって聞いたが」

 梓と距離が近い。並んで歩く。鞄を持っているせいで、相手にぶつけてしまう。

 怒られるだろうか、と由良は胃を縮めてしまう。おそるおそる見上げてみる。真正面から見る勇気がなくて、少しだけ。目の端に、心底面倒そうな顔が見えた。鼻息が前髪にかかる。

「バカかお前は」

「何が」

「いちいち縮まってんじゃねえよ」

 後はもう、梓は空に近いような、どこか遠くを見ている。薄茶色の、まっすぐな短い髪が、風に巻かれて翻る。

 外見上は年の近い梓の、肩と背を追うように、由良はとぼとぼと家路を急いだ。

 帰宅するなり、由良は靴を脱ぎ、靴下も脱いだ。制服も脱ごうとして力がうまく入らないことに気づく。広々とした中の間に倒れ伏した。

 帰宅途中、梓はずっと隣を歩いていた。だが、眉間には不穏な緊張が走っていたし、人と目が合うと因縁をつける感じで睨むので人が恐れて遠巻きにするしで、終始落ち着かない。

(あ、しまった)

 畳に頬をすりつけて、由良は思う。

 教科書のない、プリントしか貰っていない空っぽに近い鞄が、廊下に転がされたままだ。あのまま置いておくと、蹴られたり、捨てられたりしそうだ。梓に。

「あ?」

 鈍い物音がした上、梓がものすごく嫌そうな声をあげた。うっかり蹴ったようだ。

「やめて、置いといた私がいけないんだけど、蹴らないで……」

「は?」

 真新しい鞄のすがしさを思うと、いくら行きたくない学校の指定鞄とはいえ、蹴られたりするのは、悲しいものだ。かといって、鞄を助けてやりたいものの、由良はもう立ち上がりたくない。

 梓のため息が聞こえた。しばらくすると、家人がぱたぱたと軽い足音を立てて、廊下を通り過ぎた。家人は玄関先まで行き、引き返すと、由良の近くにやってくる。

 何だろうと、由良は片目を開ける。低いテーブルの上にお盆と水、それにお茶が載せられており、その上、頭の向こうには鞄が置かれていた。

「寝ているところを、ばたばたして申し訳ありません」

 家人は微笑む。さらに座布団とタオルケットを置いてから、台所へと戻っていった。

 家人は、由良に具合が悪いかどうか、聞かなかった。朝から、胃が悪くて頭も痛い、と由良が言っていた、その症状が改善していないことは明らかだったのだろう。

 登校初日で緊張しているからだとも、思われているかもしれない。

 由良は息を吐き、上体を起こして水を飲む。梓はどこへ行ったのだろう。

(あ)

 視界が傾ぐ。後ろから目隠しをされたみたいに、すとんと前が暗くなり、意識も大根みたいに、軽く分断された。煮物の煮える匂いがしていて、食事はもうすぐだったのだが。

(梓、おいで梓)

 庭には、母の植えた桃や梓などの木々がある。裏山には杉や檜、松もある。笹は茂りすぎていて、たびたび家人が刈りに出かけた。それらの木々の間を、小さな由良は駆けていた。

 あ、だめ。少しだけ大人になった声で、由良は呟く。自分のことのはずなのに、小さな由良はちっとも思い通りに動いてくれない。勝手に、楽しそうに声を立てて笑い、庭を駆ける。

 やめて。

 頭を抱えてうずくまりたい。最近、すっかり顔なじみになった胃痛が、由良の気持ちをさらに焦らす。

 そっちに行ってはだめ。

 小さな由良の後ろ頭が、蔵の方へ行ってしまう。蔵は夏でも静かで、涼しい。いろんな古道具があるので、ちょっと面白いかくれんぼスポットだ。

 小さな由良を見送って、それ以上進めず、立ち尽くす。

 ややあって、物音がした。家人達が精魂込めて、真冬に支度した味噌樽を倒し、小さな由良が切れ切れに悲鳴をあげる。彼女がまろび出るのを待たず、黒い触手が足をすくった。

 だめ。両手で目を覆おうとしたが、できなかった。逃げることは許されていなかった。

 逆に――もしかしたら、今の自分にならあの子を救えるだろうか。それで、足が動かないのだろうか。震える指を、真後ろから誰かが押し退けた。押し退けられた、と思ったのは、風圧を感じて思わずよろめいたせいなのか。

 勇ましく吠えた、茶色の背中が、弾丸みたいに、地面に近いところを走っていく。

 黒い、全く太陽を反射しないぬるっとした物体に噛みつき、細かな繊維に引きちぎりながら、犬は果敢に戦った。

 騒ぎに気づいて、母屋から人が出てくる。それは初め、女達だったが、すぐさま、鉢巻をしめた男衆が飛び出してきた。

 口々に何かを歌い、プレゼントでも入りそうな白い箱を掲げて、蔵へ入った。恐れるでもなく。かといって、陽気さもない。

 しばらくして、すべての物音がやんだ。

 やめて、とすすり泣く、小さな子どもの声だけが、沈黙の中からよみがえる。

 あの子を、救えるのではないかと、思った、その手を、由良は一人で握りしめた。

(嫌な夢、見た)

 横倒しの視界を、瞼で歪めて、由良は思う。電灯が眩しくて、一瞬、時間の観念が分からない。

 今はいつ? 何時だろう?

 制服が皺になりますよと、家人が近くを通りがてら言ってくれる。入学式があった。思い出して、起きあがる。真新しいセーラー服も、スカートもしわくちゃだ。

「アイロンかけておきますから、出して置いてくださいね」

 立ち上がるや否や、家人に言われる。謝りながら、由良は玄関を出て、サンダルをひっかけて離れに向かった。

「ただいまー」

 引き戸を開ける。新しく建てられた、まだ若い、簡単な作りの建物に入った。この離れは由良が勉強するために造られた。母屋は広くて暗く、またしょっちゅう家人が歩き回るので落ち着かないからだ。

 ここの敷地は、昔の農家らしく、広々としている。蔵がいくつか建っているものの、まだそこかしこに空きがある。離れを作り足すのは、簡単だった。ただし、本格的に一軒作ることはなかった。勉強できるだけのこぢんまりとした二階屋である。

 一階の、二間ある部屋はどちらも和室。畳の匂いをかいで、由良は再び眠くなる。

「昔は、どうしてたっけ」

 明かりをつけないまま、室内を見渡し、薄暗がりの中で呟く。制服を脱ぎ、タンスから着替えを取り出して着用していった。

 犬を、飼うまでは、由良は母屋で暮らしていた。……違う。それよりも以前から。小学校に入る頃から、この、壁の薄い、小さな部屋をあてがわれていた。

 家人といっても、近所の見知らぬ人であったり、敷地内の、もっと遠くから通う使用人であったりする。彼らのとり回す母屋のことは、由良にはよく分からなくて。

 祖父母もおらず、兄弟もなく、両親もいない。それなのに、まだここに自分がいて。

 母屋は他人の匂いがする。

 お母さんが「いなくなった」のは、母屋の中なのに、母の気配はあまりしない。もっと、奥へ踏み込めば、「いる」のだろうけれど。確かめる勇気は、なかなか出ない。

 食事のために母屋へ向かう。外へ出るとき、玄関先に人影が見えた。

「梓?」

 呼びながら、サンダルの底を少し引きずって歩いて出る。

 誰もいない。日暮れが近づき、少し肌寒かった。庭の向こう、広々とした田畑があって、ぽつりぽつりと、あぜ道に街灯がともっている。少し先の、お地蔵さんがある分かれ道のところまでは、よく散歩する人がいる。何とはなしに遠くを見てから、黒々とした山に飲まれる気分を振り払い、由良は母屋に戻っていった。

 翌朝、物音がしなさすぎて目が覚めた。いつもなら、由良を呼ぶ家人の声であるとか、庭先を箒で掃き清める物音がするのだ。

(変な時間に目が覚めたのかな)

 首を動かす。異様に肩がこわばっている。掛け布団をかけず、とりあえずベッドに倒れ込んだまま意識を失っていたようだ。眠気も戻ってこないので起きあがる。着替えて、外へ顔を出した。

 明け方の、紅に染まる空。冷え、冴えきった空気。春だと言うのに、朝は寒い。

 上着がないと辛かった。

「由良」

「あ」

 呼ばれ、梓、と呼び返そうとして、間違えたことに気づいた。

 梓の、すり減った下駄の、軽やかな音とは違って――しゅっと、衣擦れをするような、そんな淡い足音がする。

「おじさん」

「おじさんと呼ばれると、心中複雑だなぁ」

 昨日入学式についてきた叔父は、既に電車で帰ってしまっている。この家で、他に、「おじさん」と呼び慣わされる人はいない。

 基本的には。

 その男の印象は、白。季節はずれに降る雪のような淡さ、けれど白は白だ。男の人とは思えない、地面につきそうなほどの、長い白髪。死に装束みたいな白い着物をまとっている。大時代な格好だが、彼が微笑むと、由良は何だかほっとする。

「今日はどうしたの? みんな、寝てるの? おじさんがいるから?」

「そうじゃない。昨日夜更けにアレが出た」

 明るい気持ちが、一瞬でしぼむ。由良は、そう、とこわばった顔で答えた。

「みんな、無事?」

「かすり傷程度だろう。君の犬も、いくらか力を貸したようだし」

「梓が?」

 そういえば、梓は昨夜、離れに戻ってこなかった。

「大丈夫かな……」

「それほど、多く逃げ出したんだろう」

 由良は梓のことを心配したのだが、男は、アレの被害のこと、その原因について、言っている。由良は顔をしかめたまま、小さく息を吐きこぼした。

「君だけのせいじゃない」

「優しそうに言わないで。確かに、最近立て続けに、家人が箱を蹴り倒して転んだり、ミスが多いけど――私が蓋を開けるまでは、ほとんどない事故だったんだから」

「そうだね」

 そうかな、ではなくて。肯定されてしまって、由良は朝からよけいに気が重い。

 視線を振ると、薄桃色に染まった庭の先に蔵が見える。何の気なしについていっていたが、蔵に向かっているのだろう。足が鈍る。察した男が、余裕めかして微笑んだ。

「行きたくない?」

「……別に」

「行きたくないだろうねえ。近づかないように、ずっと言い含めてあったから」

 幼い頃から、近づいてはいけないと言われていた。でも、意味がきちんと分かっていなかった頃は近づいていたのだ。たとえば由良が小学生の時。蔵にある長持ちの蓋が、少し開いていて、そこにいた子犬を拾って帰った。犬なんて、飼っていいのか分からなくて、離れの裏で、こっそりと飼った。

「梓は、どうしてあのとき……」

「うん? 君が呼ぶから、出てきたよ」

 白い面をあげて、男が言った。

「梓?」

 由良も、男の視線を追いかける。

 梓が、家の敷地の、塀のこちらに立っていた。無舗装の、広々とした道は、塀の間を通り抜けて庭とつながる。門扉など、あってないようなもの。開けているのだ。

 田んぼのあぜと隣り合わせの、景色。

 梓は、朝焼けの、涼しい風の中で、下駄を鳴らして、季節に沿わないような薄い襟付きのシャツに、番頭みたいな羽織を羽織って、こちらを、冷たく睨んでいた。

「白河三船」

 心底嫌そうに、梓が吐いた。

 白く、息がこぼれていく。その白色すらも憎むように。梓は、鼻上に皺を寄せた。

「何やってんだ、こんなところで」

「別に何も? 由良のよき親族として、早起きして一人歩きをしようとする子を、見守ろうとしているだけのことだよ」

 胡散臭い、と疑いを顔に書いて、梓が、男から視線を離さず、由良に言う。

「おい。散歩に行くんだろ」

 行くつもりはなかったが――。

「行っておいで」

「そいつはどうせ、屋敷から出られない。お前の親まで食いつくした屋敷に、そいつと二人でいたくないだろ」

「え……梓、親切」

 心底嫌そうに見られたけれど、由良は梓の側に行った。


 田んぼのあぜ道は広々としている。無舗装だが、軽トラックがたびたび走るので、十分草はなぎ倒され、土は踏みかためられており、歩くのには困らない。

 由良は、大きく息を吐き出した。早朝の冷たい空気で、体の芯が冷えていく。何か言わなくてはいけない気がして、何度も梓の横顔を見上げた。が、不機嫌そうに目を細めた梓に何も言えない。黙って歩く。

 手持ちぶさたすぎるので、小川を覗き込む。川面は、まだ日が射し込まず、薄暗く夜の底の気配を漂わせている。

 結局何も喋らないまま、家に戻った。

 既に家人達は起きて、立ち働いている。あれほど静かだったのが嘘のようだ。

 朝食後、家を出ようとして鞄を掴むと、家人に呼び止められてしまった。

「由良様。お弁当、作っておきましたから」

 ステンレスの清潔な器に、おにぎりと鮭と卵焼きが入っている。サラダもだ。

 昨日の煮物も詰めてあるため、ぎっしりとして、箱を持つと持ちおもりがする。

「うん……ありがとうございます」

「慣れない教室で、心細いこともあるでしょうが、気を楽に持って」

 ね、と満面の笑みで言われる。それがかえって、由良の胃に石を詰めた。

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