1-3
(気が、重い……)
天井にちらちらとたまる、小さな羽虫の影が気になって、授業に集中できなかった。休み時間も、廊下では、男子学生がむやみにふざけてぶつかりあって騒いでいるし、室内はざわめきばかりで、その中にアレがいるかもしれないと思うと気が休まらない。いっそ静かであってくれれば、アレが出てもすぐに分かるから、楽かもしれなかった。
昼休み、弁当箱を開く勇気が出ない。
どうにか蓋をずらし、こもった湿気をかいで吐き気をこらえる。むせそうになりながら、おにぎりだけ頬張った。喉の辺りで米がつかえるので、お茶で飲み下す。
(早く、アレが来ればいいのに)
苦い顔で、弁当箱をしまいこむ。由良は廊下に出て、付近を散策する。
理科室、図書室、部活動で使っている部屋、職員室、手当たり次第に見た。一番人が多いのは教室と校庭で、つまりそれ以外のどこへ行っても、随分と気が楽になった。
見知らぬ他人ばかりが詰め込まれていて、息苦しくて仕方ない。
もしも、入りたくて必死で受験した高校に、そのまま行けていたら、と、つい繰り言をしてしまう。合格したのにそれを蹴らされて、こんなところに自分はいる。
教室に戻り、授業を受けて、掃除を手伝う。作業が終わると、鞄に物を詰めて、外へ出ていく。部活、何にする? と、明るく飛び交う声に、部活もあるのかと思いながら、少し踏み折ってしまった靴を直していると、明るい子たちが歩き進みながら急に静かになる付近があることに気がついた。
「梓」
鋭くて、透明な眼差し、それでいて険のある顔つきをするから、梓は基本的に人に恐れられている。由良だって、「この梓」にはあまりなじみがない。けれど、よく知っているはずの者だから、いつも、半分疑いながらも、声をかけてしまうのだ。
「梓」
一度では聞こえなかったようで、近づいて呼ぶと顔をあげた。少しだけ、眉間や額や頬のあたりが安らぐような、表情の変化を感じる。
「出たか」
(アレのことかな)
歩きだすや否や、落とすように呟かれ、由良は喉に嫌な力を入れてしまって咳込んだ。
「出てない……梓、昼間はどこにいたの」
「庭」
ため息まじりに言われて、家の庭か、それとも、と由良は考える。学校の、裏庭にいたのだろう。人目につかないところに立っていたのか寝転がっていたのか、そうして暇をつぶしたはずだ。
「ごめん」
「何が」
「出なかった。私が見ていた範囲には、何も。むしろ、出ていたら、梓の方が先に気づくかも……」
「同じ穴の狢だから、か?」
「……ごめん」
「いちいち謝るな」
一瞬で由良なんて置いてきぼりにできるくせに、梓は少し前に行きすぎては歩をゆるめて、それを繰り返している。
春の夕暮れは柔らかい。鮮烈な赤ではなくて、今し方散りかけの、桜みたいだ。穏やかな暮れなずみ方をしている。
それでも、それなりに影が長く延びる。
「あーずさ」
何とはなしに呟いて、由良は、前を行きすぎた梓の、影を踏んだ。何とも嫌そうな顔をして振り返り、梓が、用もないのに呼ぶなと言いたげにため息をついた。
何だか昔に戻ったみたいで、由良は胸底が温かくて、肩の力も抜けてしまう。
少しだけ、泣きたくなった。
役立たず。アレを見つけられないと、家人からそんなふうに見られている気がしてくる。――一人前に食事はとるくせに。それも、ともすれば多いと言って、食べ残す。贅沢な小娘だ。もちろん……それは、由良の、妄想なのだろう。
台所の近くを通ると、囁き声で、また残してると言われているのは、聞いたことがあって、だから、直接言われてはいないのだけれど。言われていない、から、妄想、では、あるのだけれど。
母屋で食事をとるかと聞かれ、由良は家人に、うつむきがちに首を振る。
「お味噌汁、熱いですから気をつけて」
「いつも、すみません」
お盆に載せてもらい、離れに持っていく。
「いいのよ。気にさせてごめんなさいねぇ。赤の他人がぞろぞろいたんじゃ、落ち着かなくて当然よ」
ふっくらとした、いつもの料理当番の家人が、由良に優しく話しかける。悪意のない声と態度だというのに、由良は申し訳なくてかえって穴を掘って隠れたくなる。
きえちゃいたい、と、昔、由良が小学生の頃に言ったのを、三船は今も覚えていて、いつだって消えられるんだからはやまらない方がいいと、見当違いな微笑みをくれたものだ。
離れで食事するときは、大分残さず食べられる。肉も野菜も少しずつしか食べないので、随分家人には心配される。梓は母屋で貰ってくるのか、離れに来ても、勝手に由良のお菓子を横からとって食べるくらいだ。
食事の器を片づけ、少し宿題もして、普段通りに布団を敷いて横たわる。
夜半、外でごとごとと重たい物音がした。
梓は室内にいないようで、由良は一人で縮こまった。
(アレだったら……)
どうしよう。手を握りこみ、息を繰り返す。細々と。懐中電灯や祭りで見かけるような松明の明かりが、カーテンに何度も映り込んだ。
はらーい、はらーい……。
昔の、火の用心の掛け声のようだ。数人が声をあげている。男衆の勇ましい歌声は、やがてかすれて小さくなった。
危険は去ったようだ。緊張がとけて、由良はふわりと眠りに落ちた。
翌日の昼食は、菓子パンにした。二つ持ってきたけれど、これなら一つしか食べられなくても、持ち帰ることができる。弁当だと、そうはいかない。残った中身は、その日中に捨てられてしまう。
さて、どこで食べようか。
見知らぬグループに囲まれ、由良は視線をさまよわせる。何人か、はぐれたように、あるいは泰然と、一人で昼食をとる者もいるが。
学校にいると、いつ、アレが出るか耐えず緊張してしまうため、どうしても、落ち着かない。
アレに出くわすなら、人目につくのもまずいことなので、由良一人の方が都合はよい。無論、由良は、一人でアレに出会いたくなんて絶対にないのだが。教室を出る。
体育館近くの自販機で、紙パックの牛乳を買った。立ったままパンを食べようと、袋を開けていると、聞きなれた足音が近づいてくる。
「梓?」
呼ばれる前に呼ぶと、果たして、不機嫌に眉間に皺を寄せた梓が、立っている。自販機に近づきながら、何かを言おうとするので、何となく先に言った。
「梓、パン食べる?」
「……何で」
せっかく聞いたのに。盛大にため息混じりに言われてしまう。由良は袋の口を開けたまま、パンを梓に差し向ける。
「お腹、すいてるんじゃないかと思って」
「減ってねぇよ」
「嘘。お腹が鳴ってるもの」
「お前こんなとこに一人でいて、いいのか」
「何が?」
自販機目当てで来たほかの学生が、何気なく視線を振った梓に、睨まれたと感じて、びくびくしながら逃げていく。
「あいつが出たらどうすんだ」
「人が多くても少なくても、アレは出るよ」
言いながら、じわり、と胃の底が自己主張する。
「いいよ別に、私なんて」
「私なんてとか言うな、鬱陶しい」
「梓冷たい」
冷えた風が吹く。なのに、見知った人が近くにいるのは、どことなく心強くもある。
「梓、ごめんね」
「何が」
「ごめんね……私のせいで」
「どれのことだ」
そんなにたくさん、あっただろうか。ぎしり、と由良は全身を硬直させる。
(箱を開けたこと? アレを出したこと? 梓を見つけたこと? 犬を可愛がったこと? あのまま箱に、戻さなかったこと?)
梓がため息をついた。
「どれのことだって、お前のせいじゃねえよ。俺がバカやって、こうなってるだけだ。あの箱は、お前がやったんじゃないだろ」
「そう、なんだけど」
箱を作ったのは由良ではない。だけど。箱を開けたのは、由良なのだ。うつむいた視界に、梓の手が入ってくる。由良の拳を、引っ張って開かせる。知らないうちに、由良はパンを握りつぶしていた。
「ごめん、梓にあげるつもりだったのに」
クリームパンの中身は、内臓破裂みたいに盛大にはみ出している。
「どうでもいい」
「どうでもいい、って」
「パンなんか食わない。ガキじゃあるまいし」
「だって、昔は梓だって、パン食べてたじゃない」
「お前が持って帰ってくる残飯をな」
「ひどっ……事実だけど」
小学校の頃、由良は給食をたまに残していた。犬をこっそりと飼うようになってからは、パンを半分、鞄の底に隠し持って、帰宅後は家人に見つからないように、裏山に持っていったものだ。
ふと目を細めて、梓が何か言いかけた。
それを待たず、由良は大きく声をあげた。
「アレがいる……!」
どっちだ、とは聞かず、梓が天を振り仰いだ。校舎の屋上から、黒くてぬるついたモノが、こちらを見下ろしている。
とん、と地面を蹴り、雨樋を片手で掴んで、梓が一気に壁を登る。
「梓っ!」
危ない、と言いたいのと、人が見てる、と注意する言葉が入り交じってうまく話せない。由良は動けずに見上げていた。梓が追いつく前に、黒いモノは退いて見えなくなった。梓の背が、アレを追って、見えなくなる。由良は唇を噛み、深呼吸した。
(落ち着け。私はどうしたらいい?)
梓がどうなったのかも、分からない。
アレがどうなったのかも、分からない。
「よし」
一人で気合いを入れて、由良は校舎に駆け戻る。
どの階段を使ったら屋上まで行けるのだろう。とりあえず一番近い階段にしてみたが、屋上の入り口には鍵がかかっていた。
「屋上、危ないから立ち入り禁止だよ」
学生が何人か、屋上へ通じる階段扉の前で教えてくれた。
「何で屋上に行きたいの?」
「あっ、あの、……気になるものがあって、見えるかなって思ったので……」
「何?」
「えっと、たいしたものじゃ、ないんですけど」
「先生が鍵持ってるけど、だめじゃね? 生徒が落ちたら困るもん」
「教えてくれて、ありがとうございます」
襟の学年章は同級生のものだったけれど、上級生相手のように頭をさげて、由良は廊下を引き返した。
(鍵くらい、頑張ったら開けられるかもしれにけど)
閉めてあるものを開けるのは、白河の流儀に反する気がする。
(閉めるならいいんだけど)
「っ」
向こうの階段から黒い塊が雪崩落ちてくる。どしゃりと端が水滴状に広がった。
「由良!」
梓が、近くのロッカーからはみ出していた箒を掴んで、放り投げた。一般車両ほどもある黒い塊は、箒を頭に突き立てたまま走ってくる。
「こっ」
来ないでと叫びそうになったが、人目を思うと息が出ない。
身じろぎすると、腿に何かが当たる。
スカートのポケットの中で、手鏡がごつごつとした違和感を出していた。
「は……っ」
緊張で唇が動かない。唇をこじあけて、鏡を構えて由良は無理矢理息を吸う。
吸いきれば、吐くしかない。
「散華、揺ぅる、振りぃ、」
習い覚えたものではなく、母が、歌っていたものを。子ども達が歌う童歌、遊び歌のように、節回しをつけて、声を、長く繋いで歌う。
揺る、振り、振らば。
黒い塊に、鏡面が向かっている。姿を映され、きしりと、塊が動かなくなる。
流れ、とどまりて、なむ、
天井の蛍光灯から、わずかな光を反射して、塊に当たるように角度を保つ。
こぞよこぞ、明かりはあるか。ないか。日々の世を是として。
梓が塊を殴りつける。粘液状だったはずの塊は、硬直していて、表面が薄くもろい。ぱりぱりと、雲母のように、上面がはがれていく。
全体にも細かな罅が入り、思い切った蹴りの一撃で、ばらばらになった。
拳ほどの大きめの塊は、転がっていって、壁にぶつかって割れてしまった。動く気配はしない。
(学校に入り込んだアレは、私にも何とかできた……よかった)
由良は幼い頃、術を習い覚えず、普通の暮らしをしてきた。母親の、願いだったのかもしれない。けれど、あの家にいる以上は、アレに遭遇する。祓い歌は習っていて、今回は付け焼き刃の術ではあるけれど、どうにか使うことができた。
これまで術を使うことは免除されてきた。けれど、どうせ高校へ行くのならば、アレの出つつある地域へ、家人の行きづらいところへ行くようにと指示されて、由良は今、ここにいる。
「これ、吸い込んでも大丈夫なのかな」
元がかなり大きなものだったのだが。
「産業廃棄物っていうか。大気汚染みたいな」
何を言っているのかと、うろんげに梓がこちらを見る。
埃まみれの廊下で、由良はため息をつく。階下の公衆電話を使い、自宅に電話した。
「これ、そのままでいいんですか」
「気になるようでしたら、向かわせます」
あの場所に、学生があまり立ち入らないことを祈って、由良は教室へ戻る。
夕方、保護者のふりをした家の者達が、数人、校舎にあがって、箒とちりとりでごみを拾った。
「封縛」
厳かな一言で、細かな塵に紛れていたモノのかけらは、彼らの掌に乗るキャラメルのような小箱に吸い込まれていった。
「由良様。もう少しですね」
「……本当?」
一塊を捕まえたくらいで、高校での作業は終わりが近いものだろうか。だったら、転校してもよいのだろうか。
家人はにこっと笑い、由良の甘い考えにとどめを刺した。
「何もしないより、前進しておられる。いずれ、このお役目も終わりますよ。何年かかるかは存じませんが」
家に帰るのに、気が重い。
数人の家人は、離れてついてくる。
梓も、ふてくされたような、肩で風を切るような、妙な感じだ。
(あの黒いモノが、まだ、どれくらい、逃げ出しているのか)
どこにいるのかも感知できないのに、どうやって、全部集めるんだろう。
屋敷の建物が、田畑の向こうにぽつりとある。
あぜ道を羽虫が飛び交う。
電灯に明かりがともり、空は蓋をされたように暗くなる。
屋敷を見ていると、倉に目が止まった。
(私が、ばかだったんだ)
由良にとっては、蔵のせい。
――けれど。
「はぁーらいー、祓いー、」
遠めに離れていた家人達が、歌い始める。男衆はいつも唐突だ。
この歌自体に、悪い意味はないのだろう。けれど、歌われるのは、いつも、あぁしたものが出たときだ。
「由良様、さぞかし、お恨みでございましょうなぁ」
長じた者が、後ろから声を投げてくる。
「はは、子どもというものは。失礼、いや、高校生など、まだまだ子ども。それが、屋内様の因果を背負わねばならんのは、辛いことでしょう」
そう、とても嫌だ。答えることは簡単なはずなのに、舌が重たくて回らない。
結局、由良の視線はうつむいてしまう。
梓が、きっとそっぽを向いている。
蔵で見つける箱と、封じられたものたちは、この家の生んだ宿命。
――巡る因果は、屋敷の中に。
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