1-4

 戸棚を整理していると、底の方に懐かしいものを見つけた。

 埃っぽい板の上、赤い首輪が転がっている。

(これ……)

 梓のものだ。子犬のうちには首輪をつけなかった。梓は、首輪がなくても由良の後をついてぱたぱたと走り回った。

 大きくなってからは、大人達が眉間に皺を寄せて、許さなかったのだ。

 そもそも飼うことを許さなかった。

 由良は呆然と見下ろした。

 古びた首輪。

 今はいない犬。

 晩ご飯ができたと、母屋の方から呼ぶ声が聞こえる。

 由良は戸棚を開けたまま、離れを出た。


 母屋の雨戸は、夜だというのに開け放たれていた。煌々と明かりがついている。辺りは薄青く染まり、完全な闇まで後もう少しだ。

 由良は、玄関よりも、人が立ち働いている縁側に行った。

 法被姿の男衆は、それぞれ握り飯や魚をむさぼり食っている。いつもより人数が多い。

 もしかしたら、またアレが出たのかもしれない。

 いちいち胃が痛み、手足の先が冷たくなる。

 建物内の人々も、縮こまっていた由良に、気づいたようだ。

「お嬢さんも、学校のほうで、出たんでしょう、大変でしたねえ!」

 やたらと大きい声の男が、にこにこと由良を振り返った。

「どうです、ちゃんと怪我せず、退治できましたか」

 退治というのとは違う、と由良は思うが、言い返せない。

「大丈夫ですよお、俺達が後片づけに行ったら、きれいさっぱり、壊れてました」

 細面の男が由良の代わりに答えてくれる。

「お嬢さんなら、大丈夫でしょうねえ」

 男衆は明るい口調だ。けれど不意に顔を前に出し、潜めた声で言ってくる。

「分かってはいると、思いますがね。お嬢さん、アレに気を許しちゃあいけませんよ」

「……分かってる、けど」

 たぶん「あのこと」を言っているのだ。

 唇が、意志に反してわなないた。

「お嬢さんは子どもの頃、でっかいアレと、並んで座っていたことがあったぐらいですから。結局、俺達がちゃんと捕まえましたけどね、アレは危なかった」

「あれは」

 目の前が暗くなる。

 あれは、……何も、悪いことをしなかった。由良が小学校から帰るときに、ふらふらと散歩しているアレに出くわし、一緒に歩いて、川縁に腰掛けた、それだけだった。――男衆が駆けつけて、攻撃したとき、初めてのように暴れたけれど。

 首を振って、暗い気持ちを追い払う。その拍子に、視界に違和を感じた。

「あれっ? 瑠璃部がいる」

 賑々しい座敷に、ぽつりと、薄青い髪の、細い目の男が座っている。その周囲だけ人が寄りつかず、どこか明かりもほの暗い。

 眼鏡のレンズ越しに、その目が由良の方を向いた。

「いてはいけませんか」

「別に、そうは言ってないんだけど」

 厳しく、固い口調に、由良は内心肩をすくめる。

「何かあったのかなって思って」

「ありますよ。ばかばかしいことに。何匹か、逃げ出したくせに戻ってきたので、回収しておきました」

「回収」

 オウム返ししてしまう。

 さらに冷たさを増した視線に、由良は息を詰める。

 罵りの言葉は、それ以上瑠璃部の口からは出てこなかった。

 梓が、ことさらに下駄の歯を鳴らして、母屋の明かりの範囲に入ってくる。

「梓も、出てたの?」

 梓の眉間に皺は寄っていないが、表情は険しい。

 庭に落ちた明かりに、直接足下を照らされながら、梓は大げさにため息をついた。

「そこの大バカ野郎がとちったんで、迷惑した」

「バカとは短絡的な表現方法ですね」

 瑠璃部の目が、灰色みを帯びて、きらりと輝く。

「バカ犬がまともに走らないから、アレが外の領域から戻ってこないんですよ」

「バカを非難したくせにお前も使うわけか。それと、お前が屋敷からあいつを逃がしたくせに。追い立てる側をバカにされるいわれはないな!」

 瑠璃部が、座したまま、一瞬足に力を入れる。立ち上がる気配、けれど動かない。

 ぎしりと、空気が重たくなる。

 いっこうにかまわず、男衆は飯を食っている。

 かなり遅れて、味噌汁が配膳された。台所番も皆、アレを捕まえに出かけていて、なかなか手が回らないようだ。

「っつーか、お前、そんなに言うなら表に出ろよ。自分で捕まえてこいよ」

「そうできるものなら、そうしていますよ……」

 けれど、と、瑠璃部は暗い眼差しになる。口元が歪む。憤りとも、恨みともつかない。

「あのっ、瑠璃部……」

 由良は思いつく言葉もないまま、二人の間に割って入った。

 瑠璃部は、その中で、急に、笑う。

「あの人が望むから、ここからは動きません」

「望むっていうか、呪われて動けねえだけだろ」

「君は、縛られる怒りと喜びを知らない」

「腹が立つけど動けないから、わざと崇拝するフリしてるだけだろ」

 座敷が、少しだけ首をすくめる空気に変わる。

 あの人、の内容を知っているから、由良も落ち着かない。

「お母さんのことだったら、私が言うのもなんだけど、あの……」

「貴方が謝らなくてもいいんですよ、同じ血をひいて、どうせ同じことをする。ほら、見てください。今もまだ、あの方がいる。貴方を守ろうとでもしているんですかね」

 瑠璃部が浮かせた掌の周りに、金粉のようなものがきらめいた。意志あるもののように、すうっと移動して、消える。

 梓が、再びため息をついた。

「まぁそんなのはどうだっていい」

「どうでもいいわけがない」

「今日も、学校ってやつにアレが出たが、どうせ箱係が来るんなら、最初っからそいつらにやらせりゃいいじゃねぇか」

 由良の身が震える。

「こいつだと、壊すぐらいしかすることがない。みっともない真似するより、どうにかならないのか」

 梓が、顎で由良を示す。

 暗がりに沈黙が落ちた。

「由良様は」

 座敷にいる誰ともなく、人々は口を開きかけ、黙り込む。

 代わりに、

「由良様はお優しい」

 皮肉に口を歪めて、瑠璃部が告げる。

「決して断れない。ここの連中はそういう者です」

 私が断らないように、君も由良様にも、逆らえない事情というものがある。それを捕まえて、離さない。

 その言外の声に、由良は息ができなくなる。

 うつむいて、自分の体の横で拳を握って自分を支えるのが精一杯だ。

「箱の中身は箱の中に。この家の常識です。世界の常識ではありませんが」

 瑠璃部の、笑みには見えない、ぎしぎしとした笑い方に、梓が短く舌打ちした。

 瑠璃部は悠然としており、由良は逃げるように母屋を出ていった。

(何だっけ。瑠璃部も、昔は可愛かったんだっけ)

 由良は母屋を離れて、お盆を持って庭を歩く。

(梓だって、可愛い子犬だったのに)

 それで思い出した。由良は慎重にお盆の上のご飯を運びながら、声を後ろに向けて、放った。

「梓、ついてこなくてもいいよ……」

 梓は座敷で食べてくればいい。由良はそう思った。由良にはハードルの高いことだったが、梓はそういうことはほとんど気にしないからだ。

 さっきからついてきていた足音は、少し後ろで止まる。

 何か言いたそうな気配を感じ、由良は味噌汁がこぼれないように水面を見ながら、ゆっくりと歩行を停止した。

 何、どうしたの、と首で振り向けば、梓の視線とかち合った。

 梓はいつも、無意識かもしれないが、人を睨む。悪気はないと分かっているのに、その視線の鋭さに由良は驚く。

 今はそれに加えて、眉間に皺、頬は歪み、何だか吠える前の犬のようだ。

 結局、梓はため息をついて、由良の横を通り過ぎ、敷地内の闇に消えていった。

 散歩だろうか。

 由良はしばらく闇を見ていたが、梓も見えず、闇に目が慣れて他のものが見えるということもなかった。

(そうだ)

 先程の続きを、どこか牧歌的に思い出した。

(……瑠璃部は、前からあんなだった)

 考えるまでもないことを、由良は考え、ため息をつく。


 さっきの男衆の言い分は、由良の頭をぐらつかせた。

 ――学校へは、害虫駆除業者や校舎の建築状態の検査業者といった者になりすまして入ることはできる。けれど、一過性のものだ。数日しか、建物には入れない。学生や教師の目もある。とてもではないが、アレを、一日やそこらで集めきれると思えない。だから、学生の姿で、学生に混じっていられる由良様が必要なんですよ。いざとなれば、由良様であれば、学校にいてもおかしくないんですから。

(教師にでも何でも、なりすましちゃえばいいのに)

 以前にも同じ会話をしたことも、覚えている。彼らの言い分はとてもではないが、飲めるものではない。それでも言うことを聞いているのは、瑠璃部の言った通り、弱みのようなものがあるからだ。

(アレを逃がしたのは、ほとんど、私のせいみたいなものだから)

 一人で味気ない食事を終えて、お盆を返し、由良は宿題のノートを広げる。

(でも変といえば変だよね。私一人が開けたくらいで、あんなのが出てくるなんて)

 そもそもアレはいったい、何だったんだろう。

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