1-8

(梓、梓)

 思い返すとき、梓はかわいい子犬だった。

 箱の中から出たアレを、幼い由良は子犬だと思いこんだ。それに呼応するかのように、アレは子犬の姿を取った。秘密で飼っていたのに、やがて子犬は見つかってしまった。大人たちは、子犬に見えるアレを、一度ならず由良から取り上げ、傍系の病院などに放り込んで検査した。ただの子犬。数値上も、レントゲン検査も、何もかも、ただの子犬という結果を叩き出した。飼うことを許されないはずだったのに、由良は梓を飼い続けた。

 その後、瑠璃部も現れたけれど、今のところ、この二人だけだ。アレが意思表示をして、人や犬の形で留まっているのは。

 由良にそうしたことを促す力があるのかどうかも調べられた。けれど、何もなかった。ただ、これ以上事例を増やされてはたまらないとばかりに、家人たちから術も教えられず、箱にもアレにも近づかないようにきつく言い含められ、遠ざけられた。

(私のせいだって、いろんな人に、言われる)

 だけど、由良じゃなくて、白い手の、あの人のせいじゃないか。


「おいで」

 誰かが呼んでいる。寂しくて辛い気持ちを、やんわりと抱きしめるような声。

(アレが優しい? そんなこと、ないのに)

「そう。いい子」

 その声は、由良よりも幼く舌足らずのようでありながら、由良の祖父母よりも重たく暗い。

 祖父母の姿を、由良はこれまで、見たことがないのだが。

(みんな、早くになくしてしまったから)

 薄暗い室内で、ぼんやりと由良は思う。

 畳の縁を踏んでしまって、あぁいけない、と思考が逃げた。何を、考えていたっけ。

 法事の手伝い手などが、ふらりと、憑かれたようにあの部屋を開けようとするから、人を母屋にあげなくなった。

 ここには人がいないのだ。

 由良が寂しくないように、必要なときにだけ現れる。あるいは、アレを祓うときにだけ来る。由良の気持ちなどお構いなしに。

 人か、紙切れか、今の由良には、家人を見ても判別できないだろうけれど、全部紙切れかもしれないと思うと、寂しさには底がなかった。

「おいで」

 声が、だんだんと近づいてくる。

(違う)

 急に頭が警鐘を鳴らした。

(違う、違う、声が近づいているんじゃない、私が、)

 由良が、奥の間に近づいているのだ。

(どうして、いつの間に)

 アレを庇うようなことを考えたせいか?

 辛いと強く思ってしまって、白い手に同調してしまったのか?

(嫌だ)

 由良は、ひきつる喉を、必死で動かす。

「梓っ」

 由良が高校入試の頃、梓は犬から人になった。何がきっかけだったのか分からない。犬のままではアレと戦いにくかったのかもしれない。突然、そうなった。

 何度も検査が行われ、やがて梓は戻ってきたけれど。

 そのときから、梓と由良はぎこちないままだ。

 由良は思う。梓は、怒っているんじゃないだろうか。こんなことに巻き込んでしまって。その証拠に、梓が人間になってからというもの、笑顔を見たことがない。犬のときは、犬らしい開け広げの笑みを見せてくれたのに。

「由良!」

 叫び声で、由良は瞬きする。辺りは暗くて、何も見えない。ただ、誰かが両腕で由良の体を押さえている。

「こんの、ばかっ!」

「梓?」

 ぽかんとして呟けば、何やってんだお前、しっかりしろと叱られる。

「梓、私、」

 由良は立ち上がろうとしたが、うまくいかない。膝が震える。

「梓、ごめんね」

「何が」

「何度もごめん。アレを箱から出してしまってごめん、梓を犬にして、ごめん。家の人が人間じゃないって、知らなくてごめん。お母さんのこと助けられなかった。私、箱がどういうものなのか、あんまり分かってない気がする、ごめん」

「それは」

 はぁ、と重たいため息が返ってくる。

「お前が俺に言うことじゃない」

 おいでおいで、と、か細い女の声がする。

 梓が「出るぞ」と呟いて、由良を担ぐようにして引っ張りあげた。小さな子どもみたいに運ばれる。濃密な暗闇が遠ざかり、不安や恐怖が薄くなっていく。

 由良は、白い手の主に、飲み込まれかけていたのかもしれない。

 母屋の奥から、庭の光が入るところまで出て、梓が由良を床におろした。

「大丈夫か?」

 涙でぐちゃぐちゃの顔を、梓が服の袖で乱暴に拭ってくれる。

「梓、ごめんね」

「お前はそればっかりだな。お前のせいじゃないだろ」

 お前は勘違いしてる、と、梓がしかつめらしく言う。

「お前が後悔したって、箱を開けたことに変わりはない」

「うん」

「俺が、箱から出てきたってことにも、変わりがない」

「うん」

 鼻声で、由良は頷く。

「だったら。俺はこれから、問答無用で箱ん中につっこまれて戻されるより、今の方がましだろ」

「まし?」

「俺がこうして外にいて、面倒くさいこともあるが……聞いてみるが、業腹だけど犬だったときに、ずっと楽しくなさそうだったか?」

 由良は思い返す。梓は、今でこそ、喜び回っていることはないが、子犬だったときには、由良を見て嬉しそうに短い尾を振ったものだ。弾むように吠え、転がってきては野の花の咲いたことや雪解け水で川のかさが増えたことを教えてくれた。

 空を、たくさんの大きな雲が通り過ぎて、その落ちた影を不思議そうに追いかけて、田んぼにつっこんでびっくりしていたこともあった。

 さんざめく紅葉の下で枯れ葉を踏むのを楽しみにしていたし、由良だって、そんな梓と雪の中をちっちゃな砕氷船みたいに駆け回るのがおかしかった。

(そっか)

 梓は、生まれてきて嬉しいのだ。

 何者とも分からぬ、溶かしに溶かされて人格も何もかもを失った、恨みや苦しみだけのダレカではなくて。

 ダレカを犠牲にして現れた、化け物であっても。

 きらめく日差しは、嬉しいのだ。静かな夜更けは、人と寄り添って眠りたいのだ。

 この子は、由良の拾った梓だった。

 そのことを知っていて、信じていればよかったのだ。

 箱から出さない方が――生まれなかった方がよかったのかどうかなんて、聞いてはいけない。

「ごめん、梓。梓は、生まれて嬉しかったんだね、私、梓が、もう私のこともうちのことも、大嫌いになっちゃったと、思ってた」

「最初からそうだ」

 ふてくされた声は、冷たいけれど。

 由良はふと、笑う。

 梓はいつもそう。

 態度は冷たい。けれど。

 手を伸ばしたら、そこにいる。

 シャツの裾をつかんで、由良は息を吐いた。

 まだ、生きられる。大丈夫。

 蝶は、幼虫から蛹になるとき、一度中身がぐちゃぐちゃになる。

 幼虫の頃の姿は失われる。

 蛹の薄い一枚皮の中、体のすべてが溶け崩れる。

 やがて、成虫の形ができあがる。

 薄柔らかい蝶は、蛹のからを割って、早朝に現れる。細い手足を、蛹にしっかりとしがみつかせて。

 震えながら。

 ――蛹を、途中で割り開いたらどうだろう?

 庭で、しゃがみ、植え込みを見つめながら、由良は短く息を吐く。

 考えなかったことは、全くないとはいえない。途中で中身を食われ、うつろになった蛹を見たこともある。

 なんだい、と叔父は気安げに言ったものだ。瑠璃部にも似て見える、眼鏡越しの目を笑みに細めて。

 蛹が気になるの?

 中身が。

 由良はぽつりと呟いた。

 叔父は、これは蛾の蛹だからと言って、蛹を枝から取り上げた。

 由良の口は、あ、と開く。

 叔父の指が、蛹を裂いた。

 中身は見えない。

 叔父は地面に蛹を落とす。

 ゴムでできた草履の底で、べしゃりと踏んだ。

「由良、気をつけて」

 どういう意味?

 こうならないようにってこと?

 しゃがみ込んだ膝小僧に、由良はじっとしがみついた。

 大人になるまでに、由良もぐちゃぐちゃになって、途中で踏みつぶされてしまうのだろうか。

(そうは、ならない)

 なりたくない。

 由良の願いは、そうじゃなくて――。

 広々とした川は、途中でうねりを見せる。川には橋がかかっていて、電車が駆け抜けていく。

「あれっ?」

 河原で、白い小石を踏みつけていた少女が、目を丸くしてそれを見た。

 暮れなずむ空の下、眼鏡の少女がもう一人、ブレザーの裾をはためかせて河原を歩いている。

「網代。危ないよ」

 眼鏡の、同じ制服をきちんと着こなした少女に、目を細めてそう言われ、シャツを半ばはだけてだらしなく着ていた網代は、肩をすくめた。

「分かってるけどさぁ」

 茶に染めた髪はばさばさで、かなり痛んでいる。眼鏡の少女が、三つ編みの先を揺らして、大きめの小石を避けて網代に近づく。

「これ、見て」

 網代は、今しがた掴んだばかりのモノを掲げて見せた。

「見えていた」

 と、眼鏡の少女は簡潔に答える。

「これ、何」

「さぁ」

 ゆらゆらした小川の水面に、夕暮れが最後の一光を投げかける。

 黒い、ゴム手袋がゴミ袋くらいの大きさになったそれを、水から引き上げて、網代は連れに声をかける。

「どうすんの、これ」

「網代。帰るよ」

「えっ、どうするのかって聞いてんだけど」

 つり上げたそれには、意志はなさそうだ。クラゲの死体みたいに、ぶよぶよとはねる物体を掴んだまま、網代は川縁に立ち往生する。

 眼鏡の少女は、びゅっと、気流の流れに三つ編みを吹き飛ばされ、顔をしかめた。

 片手を振りおろすと、無造作に、血のついた掌を宙にそよがす。

「うわ、また何かいた?」

「いた」

 夕暮れの、羽虫達の柱立つ中を、蝙蝠や大型の昆虫が飛び回っている。

 その中にいた、足がいくつもある軟体のモノをつぶして、何食わぬ顔で少女は答えた。

「でも、こんなものでは、足りない」

「そりゃそうだ。誰かに頼まれたわけでもないしさ。こんなの潰したって、腹の足しにもならん」

 斜面をのぼり、ゴムみたいな物体を放って、網代はポケットからマッチを取り出す。小さなブックマッチから引き抜いたのは、軸に細かな文字の書かれたそれ。

 手慣れた様子で素早く擦ったマッチを、ゴムに向かって放り投げた。

「南無三」

「網代。お年寄りみたい」

「いいじゃん。決め台詞っぽい」

 マッチ一つの炎だと言うのに、あっと言う間にゴムの全身に引火した。ぎちぎちとゴムが鳴る。

 少女はため息をついて、その浅瀬に背を向けた。

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