1-7

 休日ののち、学校へ行くと、その前よりよけいに空気が重たかった。それぞれ級友たちはグループを組んで、それなりに穏やかで、グループ外のことにはあまり関わりたがらない。これは好都合ではあったけれど。

「白河さん」

 急に呼び止められ、菓子パンを机に置いて振り返る。

「先生?」

 上はスーツ、下はジャージを着用した教師が、意外と近くに立っていた。

「大した用じゃないんだが。一人で食べてるのか?」

(まずいな……)

 一人でいることをよしとしない人も、この辺りには多い。緊張していると、

「パン、たくさん食べるんだな。購買に行くならメロンパンがおすすめだ」

「はぁ……ありがとうございます」

 由良は瞬きして、自分の手元を見る。

(もしかして、一人で全部食べるって思われたのかな)

 梓の分もあったのだが。

 立ち去る教師の後ろで、ぎぎっと、妙な音がしたけれど、何の音かは分からなかった。

 中庭に出て梓を呼ぶ。緑が多くて、物陰にはアレが潜んでいそうで、少し怖い。

 人目を気にせず、梓が水筒を持って現れた。

「それどうしたの」

「持たされた。昼飯も持たされそうになった。でもお前はパンの方がいいんだろ」

「そうだけど、梓は他のものを食べてもいいんだよ?」

「いい」

 水筒のお茶で喉を潤す。遠足に来たようなのどかさで、由良は思わず伸びをした。

「お前、胃は?」

「胃? 今は痛くないよ、大丈夫」

 痛くないと答えた途端、校舎の外壁に黒いものが走った。梓も気づいて、素早く追う。小さいものだったせいか、由良が行くまでもなく、梓が破壊する。

「学校以外のところは、家人が手分けして探してるっていうけど」

 いったいどれほど残っているのか。果てしない気がして辛かった。

 次の日は雨。その次の日は曇り。

 恬淡と過ごす中、たまに、先日の教師に話しかけられた。

 体育、生物、古典、現代文、日本史、数学、英語、様々な授業があった。胃の痛さは相変わらず、断続的に続いている。ここにいるべきではないのは、アレも、自分も同じだった。別棟の実習室からの帰り、うつむいて歩いていると、あの教師に呼び止められた。

「大丈夫か、ずいぶん辛そうだが」

「胃痛はいつものことなので、大丈夫です」

「そんなこと言うな」

 ぐえぇこ、と、大きな声が、教師の言葉尻に被さった。

 食用蛙みたいに、大きくて太い声。

「ぐけけっ」

「先生? 今、後ろで蛙みたいな声が」

(違う!)

 由良は体を退く。

 教師の口から、黒いものがちらちらと出入りする。舌に似ていて、でも、不透明に真っ黒い。ごぼごぼと、排水口から水があがってくるような音が響いた。

 スーツとジャージ混じりの教師は、口を開いたままこちらを見ていた。

 抜かりなく梓が由良と教師の間に割って入る。

 ごとりと、こぼれ落ちた、拳大のアレが、転がって一目散に逃げていく。

「嘘っ、」

 人の中に入っていたのか。

「梓!」

 叫んで、由良はアレを追いかける。だが、追いつく寸前で塊が分かれる。片方を踏みつぶしてぐちゃぐちゃにし、梓は次を追いかけて走る。

 由良も慌てて鏡を使うが、目の前に取り残された教師が腕を伸ばしてきてそれを阻んだ。

「先生、まだ中に!」

 動きがおかしい。アレがいるのだろうか。

 祓い歌を歌おうとしたけれど、由良の喉を教師が押さえる。

「あ」

(梓!)

 呼びたいけれど声が出ない。由良が命じて行かせてしまったから梓は戻ってこない。

 困ったことになった――暗転しかかる視界に、由良は抵抗する。

 心の内で祓い歌を口ずさむ。

 少しだけ教師の指の力がゆるんだ。まるでその歌が聞こえたかのように。

 突然、がつんと衝撃が来た。暴力的に意識が引き戻される。自分の視界が横倒しになっている、と思ったら、教師が吹き飛んだ余波で由良も転がっていたのだった。

「てっめ、何一人でやってんだよ」

 舌打ちと、吐き捨てる声。荒々しいため息。

「梓」

「まだアレが残ってんなら、言えよ」

「ごめ、気づかなかった」

「謝るな」

 ぴしゃりと、梓がはねつける。

「謝るな。お前のせいじゃない」

「うん、でも。私が、怪我を、しそうになったのは、私のせいだから」

「……何で、それが謝ることになるんだ」

「だって、梓に、心配かけたし……」

 心配なんかしてない、と反射で答えそうになった梓が、一拍を置いて黙る。

 げくげくと教師が変な痙攣と呼吸を繰り返しているが、走ってきた家人らに担がれて、どこかへ連れていかれてしまった。

「あいつら、ここまで来られるんなら、最初から自分でやりゃいいのに」

 梓は家人の後ろ姿を睨んでいる。心底不愉快そうだった。

(冷たく見えても、梓は、助けに来てくれた)

 犬の梓は、由良に懐いていたけれど、人の姿の梓は、いつもずっと不機嫌で、由良にとっては怖かった。

「でも梓」

「あ?」

「もし、この仕事がなかったら、私、」

 私たちは、話すことができただろうか。

 重苦しい空気が、梓の一つため息で覆される。

「なくても、お前は大丈夫だろ。むしろ、行きたがってた学校に行けたんじゃねーの。俺は俺で、庭でも山でも、ぶらぶら歩くし」

 暇じゃないとアピールするが、ぶらぶらするしかないのか。他にないのだろうか。

「テレビ見たりしてる?」

「してない」

「嘘。お昼ご飯のときとか、見てる」

「あれは食べるときについてるからだろ」

「やだ、本当に普通の話、してる」

 高校入試の前、梓とはほとんど口を利かなかった。いつも、怖くて。遠慮があって。

 梓はこの家にいて、アレを倒すのを手伝ってくれるけれど、由良のものではないから。どう扱っていいか、分からない。

 でも今は、お昼を一緒に食べるせいだろうか、家の外だからだろうか、アレを退治することを忘れてしまえば、何となく話ができる。由良にとっては発見だった。

 箱は、中に何かを入れるもの。閉じこめるもの。何でも入ってしまうし、入っているモノが危ないからと、幼い頃の由良は大人たちに言い含められていた。

(この家自体が、箱みたいなものだ)

 奥の間の手は、あの夢の少女なのだろうか。だとしたら、元は、そう悪いものではない気がする。

(何が、最初なんだろう)

 アレが出てきて、箱を作ったのか。それとも。箱が、アレを生み出したのか。

 聞けそうな人を、思いつかない。

 母屋の、薄暗い廊下に出て、固定電話の受話器を取る。

 携帯端末を持たされていないから、家人に内緒で電話をすることは難しい。だが、やむを得ない。

 数コールの後、面倒そうに相手が出る。

「叔父さん、私、由良ですけど」

「けど、何? どうしたの。手足でも取られたの?」

 何でいちいち物騒なことを言うのだ。

「あのね、聞きたいことが」

「二日後にしてくれる? 仕事が忙しいんだ。君に割くゆとりがなくてね」

 忙しいのはともかく、もう少し言い方を考えてほしかった。由良はいちいち傷ついて、そんな自分のことも、辛く思える。

「叔父さんは、どうして帰ってこないの」

「それこそ、分かってるだろう? 残っている白河は、君と僕。二人だけだ。同時に箱かあの女にでも捕らえられれば、それでおしまい。他の、普通の人みたいに転んで怪我をしたり、風邪を引くことだってある。あまり近くにいない方がいいよ」

 どちらか一人でも、生き残らなくてはならない。

「……だったら、私も家を出たっていいのに」

「あははは、先に出たもの勝ちだな」

「ひどい」

「そうだよ、由良」

 くすくすと、楽しそうに叔父が笑う。

「遠方から祈っているよ。君がその家に食われるか、それとも子どもでも生んで、早くひとりぼっちから解放されるか。一人は怖いよ」

「怖い?」

 由良は、ずっと、一人にされてきたのに、そんなことを言われるのは心外というか、気分が悪かった。

「そうだよ由良。……あれは孤独につけ込む。閉じこめたモノが、閉じこめられたモノに呼ばれて、箱を開けたくなりやすい」

「叔父さんは、そうなったの? だから家を出たの?」

 叔父は答えなかった。ただ、静かに微笑む気配だけがしている。

「そんなことを聞くために、電話したのか?」

「あっ忙しいんだよね? ごめんなさい。箱と、家のことで、私、ちゃんと聞きたいことがあって」

「何。二分で済ませて」

「アレを閉じこめるために箱を作ったの? それとも、箱があるから、アレが生まれたの?」

「どうして今頃、そんなことを言い出すのかな」

「だって、夢で……あの女の人が、普通の、女の子だったような夢を見たから。あの人のせいで、アレが生まれたんだってずっと思っていた。アレが生まれて、箱に閉じこめて……だったら、あの人は、どこであんなふうになっちゃったの?」

「由良、それは、危険な考えだ。理解しようとすると、さっき言ったとおりになる。閉じこめられたモノに心を寄せると、食われるよ」

「でも、理解しないなら、ずっとこのままなんじゃないかな」

「それが不満なら」

 言いかけて、叔父はため息をついた。

「タイムアップ。次はもう少し、言いたいことを整理してからにして」

 電話が切れる。

 アレのことは、いつも、胃痛の種だった。

 白い手、黒いアレ、母親が消えてしまった母屋。

 由良の責任だと、いろんな人が言っていて。

(あ、痛い)

 由良は腹を押さえて、這うようにして母屋を出る。

 外は夕暮れが赤くて、山が黒い。泣きたくなった。

(誰か、助けて)


 翌日はアレが出なかった。翌々日、由良は前日の倍は走り回った。学校じゃなくて、家で。

「そっちへ行ったぞ!」

 家人たちが叫んでいる。日差しの明るい早朝、黒いアレが外へ飛び出す。

 棒きれを掴んで、梓が振りおろす。棒は、黒い塊にぶつかって、盛大な音を立てて折れた。

 舌打ちし、蹴りに変える。

 体重も体積も大きいアレは、梓の一撃で地面からべろりとはがされ、どさりと庭の端に落ちた。

「くそ、結局素手か」

「今のは蹴りだったけどね」

 由良は鏡を取り出した。縁側に出てきた瑠璃部が、

「箱から出たものは箱から出たものにしか、覆せないのですかね」

 眼鏡の弦を押し上げて呟いた。口の端が上がって、自分も戦いたくてうずうずしているようだ。だが、彼は縁側から先に出られない。以前、母屋の影が落ちているところも母屋だと、言い訳をつけておりようとしたら、じゅっと体が溶けたことがあった。由良はそのとき、屋内にいた。綿飴みたいな匂いがするので、外を見てみると、瑠璃部が人間の形を失って伸びていた。

 あれが、母と瑠璃部との、母屋を出るなという約束を破ろうとした結果なのだろうか。あるいは、母屋を出るとああなるからやめろという、母の警告であったのか。

 決して家人を傷つけるな、という、母の言葉がなかったなら(それを聞いて、従っているのは瑠璃部であって、由良は本当にそんなやりとりがあったのかどうか知らない)、瑠璃部は、由良や家人達を平気でくびるようなところがある。由良が拾ってきた雀の雛も、弱っていて死んだ直後にぐしゃりとやられたし。生きているうちではなかったのは幸いか――まぁ、アレらと同じ、箱から出たものに、人間の情緒は、分からないものかもしれないが。

「たまには道具でも使ってやろうと思ったのに」

 梓がぼやきながら、アレを徹底的に蹴り倒す。由良は遠巻きにして、呟いた。

「履き物はわりと無事なのに」

「長時間身につけていれば、多少は汚染されるのではないですか」

「汚染、って」

 箱から出た化け物のくせに、人の姿を取り、視力を保持するために分厚い眼鏡まで調達してもらっている、不便な男が由良を見下ろす。

「箱に入る前は、皆すべて、個体の、別個のモノのはず。人間、羽虫、這う昆虫、ネズミ、猫、犬、牛、馬、小鳥、その他、種々多様な生き物でした。それらが箱に食われて、封じられ、どろどろの液体にされた。そのまま出てこないはずだったのに、ふとした弾みに蓋が開く。再び個体となって、けれど、誰とも何ともつかない部位が固まったモノです。今ある別の個体に触れていて、自分の個体から染み出したものが他を汚染しても、おかしくはない」

 意味が分からない。由良は最後の言葉を拾い上げて、身近な比喩を考え出した。

「お漬け物をお弁当に入れたら、ごはんが染まってたみたいな……」

 あまりに卑近なたとえだったらしく、瑠璃部が言葉を返さない。鈍色に光る目が、由良を無言で見下ろしている。

 いたたまれなくて、由良は別のことへ逃げる。梓に、もういいよと叫んだ。

「いいわけないだろ。お前、箱使えないじゃねーか」

 由良は家人らのようには、箱に封じる術を使ったことがない。代わりに手鏡を渡されている。手鏡をアレに向けて、いいの、と梓に言い返した。

「散華。光、いやまして。黒きもの、やわらいで。続く間に。帰らして」

 黒いアレは動かない。梓に殴られていたときと違い、だらっとしていなく、全身が硬直している。

(あれ? 今日はなかなか砕けないな)

「由良様あ」

 家人たちが飛び込んでくる。さっきまで、家の他のところで出たアレに対処していたが、それが終わったようだった。

「はらぁーい」

 しゃんしゃんと、鈴に紐を結わえて手首などに結びつけている。その歌で、アレが、ずぞぞ、と地面を引きずられた。

「わ」

 鏡の反射を浴びていたアレが動くと、なぜか由良も引きずられた。今一つ、道理が分からない。何が起こるかは、そのとき次第だ。

(理不尽)

 理不尽で、絶対こうなる、ということが、ない。

 この、気ままで、不気味な力と、化け物とを。

 いつまで、飼い慣らしていくのだろう。

「あっ」

 鏡の反射が逸れたらしい。アレが流体に戻って、ぶよん、と身を振った。

 庭に入ってきた家人の一人に、アレの伸ばした腕らしきものが当たる。

 ぽーん、と、景気よく、家人の首が飛んだ。

 由良の息が詰まる。

 梓も瑠璃部も、何も言わなかった。

 男衆も、初めは無言だった。

「くそっ、やりやがった!」

 怒りの声をあげると、祓い歌を再開した。アレの周りを回って、最後には箱に詰め込んでいく。

 庭には、首のない胴体が転がっていた。胴体が引きずられて箱に吸われそうになるのを、男衆の後ろにいた者が、手で押さえる。

「戻れ」

「戻せ戻せ」

 しゅ、と、やかんを火にかけたように、蒸気のような音がした。見れば死体はどこにもなく、ちぎれた紙切れを、家人が拾い上げるところだった。

「え?」

 頭であった方の端切れを、もう一人の家人が拾ってくる。

 呆然とした由良に、平然とした瑠璃部が、何を驚いているんですか、と声を投げた。

「だって」

 瑠璃部は、たとえ人間の首が飛んでも驚かないだろう。人間が紙切れになったところでも驚かない。そういうもののように思えるから、驚かなくてもおかしくないが。

 梓も、こんなことだろうなとは思ったけどなと、苦い顔だ。

「あれ、何? 人が紙になったの? それとも」

 紙が人になっていたの?

 ぞわぞわする風が、裏口へ回っていく男衆の間を通り抜けた。


「叔父さん、家にいるのが紙切れだったって、知ってた?」

 電話の向こうで、叔父はしばらく沈黙した。絶句ではなくて、笑いを噛み殺していたようだ。息が震えている。

 由良は、腹が立つより先に、呆れた。

「知ってたんだ。アレを退治するのが、危ないことだから? 替えのきく紙切れに、従事させてたの? 私や梓には代わりがいないのに、従業員はいいんだ?」

「由良。本当に気づかなかったんだ? あいつらは、触れれば温かいし名前も持つかもしれない。だが、絶対に母屋に泊まらない。うちの敷地は広大だから、確かに田畑の端に家はいくつかあって、そこに寝泊まりしていることになっているし、何人かは本物の人間だ。けれど――分かるだろう? あいつらは擬態しているだけだ。箱入れの術は、集団で歌う方が効率がいい。だから、頭数を稼ぐために置いてある」

 非科学的な話をするわりに、効率を取りざたするところが、叔父のよく分からないところだった。

 叔父が含み笑いで言う。

「由良。本当に、知らなかった?」

「……多分どこかで知ってたかもしれないけど、知りたくなかった」

 直接見たわけでもないし、聞いたわけでもない。ただ、人がたくさんいても不安だったし、寂しかった――その原因は、あれが人ではなかったからなのだ。納得する思いがあった。

「でも、家人が紙切れだと分かったところで、何になるんだい?」

「気持ちの上で、違うでしょ?」

「ふうん。アレのことを、名前までつけて、犬だの人だのと扱うような由良は、紙切れが傷ついても哀れに思うんだろうね?」

 ぐっと胃がせり上がってくる。由良は必死で腹に力を入れた。そんな言い方、されたくなかった。聞きたくないのに、叔父が続ける。

「箱に落ちて、他のアレに溶けて、アレが増える」

 箱の容量とは関係ない。どんどん、中に取り込まれていく。再び外へ出ることは、ほとんどない。何年かに一回、誰かが吸い寄せられて箱の蓋を開け、箱に取り込まれるか、外へ出たアレに食われる。

「たまにアレが外へ出る。由良、お前が小学生のときに拾ったアレは、お前のせいで犬になった。その上、今は人間に擬態している。この状態の不気味さが分かっているのかい? アレは、意志があるように振る舞っているが、フリかもしれないのに」

「梓のことを! 悪く言わないで」

「姉さんも姉さんだ。自分は人の形を失って、ただの祓い歌の幽霊みたいになったくせに、由良のためと言ってアレを飼うことを許している。その上、自身もアレを従えて、何気取りなんだか」

(やめてって、言ってるのに)

 頭も痛くなる。

 これ以上聞かなくて済むように、由良は静かに受話器を置いた。

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