1-6

 離れに戻ると、戸口に梓がしゃがんでいた。

「梓」

 何してるの、と聞きかけて、手元に工具があるのに気がついた。

「何か、作ってるの?」

「違う」

「あっ、直してるんだ」

 外にある水道のホースが、蛇口から外れているらしい。さっさとつなぎ直して、梓は水まきを再開した。

 細かな水滴が降っていく。

 ぼんやりと、梓の後ろからそれを見ていた。

「おい」

「何?」

 視線で示されるまま、由良は立つ場所を変える。

 足下近くまで、水たまりが近寄ってきている。

「梓、水、まきすぎじゃない?」

「うるさい」

 水が降る、その音が、心を静かにさせていく。細かな塵が、ぱたぱたと落ちて静まる。

「あ」

「何だよ」

「梓はえらいね」

「は?」

「気持ちが落ち着いた。ありがとう」

「……何言ってんだお前」

「あのね。母屋に行ってきたの」

「そうみたいだな」

 由良の視線は、地面付近をさまよったままだ。梓が少し顔をあげて、母屋を見やった気配は感じた。

 唐突に聞いてしまう。

「どうして、あんなものがあるの?」

「知らねえよ」

 さっきまで、どこか穏やかだったくせに。梓は何だか不機嫌だ。梓が犬だったときなら、由良はあの茶色みを帯びた頭を撫でて、抱きしめて、匂いをかいで、あぁ生きてるなと、嬉しく思えただろう。でも今の梓は人の姿で、やっぱり、由良とは全然違う生き物だ。

 じっと見ていると、睨み返された。射殺すつもりのような、痛みを感じるくらいの視線。そんなに睨みつけていて、疲れたりはしないのだろうか。

 ふいと視線を逸らされた。

「でも、お前は、アレを壊すんだろ」

「壊すっていうか……」

 はたと気づく。

「梓は、アレを、壊したくないの?」

「そうじゃない」

 梓が顔をしかめる。

「わざわざ壊す意味があるのかって言ってる。お前じゃなくても、他にも封じられるヤツがいるのに」

「梓、この間も言ってたね。私が箱を開けたから、責任取るの、しょうがないよ……」

「しょうがないと思ってないくせに、言うな」

「ごめん」

「反射で謝るな」

「だって」

 謝りながらも、由良は、面白くなってきた。

「私、梓に謝ってばっかり」

「分かってんなら謝るな」

「うん。私の、……私だけのせいじゃ、ないもんね。元々……」

 でも、元々、誰のせいだって言うんだろう。

 校内にチャイムが響きわたる。

 少し間延びして聞こえるそれが、消える寸前に由良は叫んだ。

「梓っ」

 生徒がいない廊下を、由良と、黒いアレが駆けている。

 由良の後ろから、開いていた窓をひょいと越えて、梓が来る。

 アレは簡単に蹴りとばされて壁に激突した。

 がしゃんと派手に転がって、アレはゆるゆるしたゲル状になる。固形になり、崩れては固まる。同じ動きしかできなくなった、シンバルを鳴らす猿人形のおもちゃみたいだった。

 鏡と歌で拘束し、砕いて息をついた。また家に電話しなくてはなと思う。

 由良が振り返ると、梓はもういなかった。

 ごく近くで、女子生徒が笑い話をしている。

(見られた?)

 そんなわけがない、胸を落ち着かせ、何でもない顔を作って廊下を歩く。

 大丈夫、大丈夫だ。

(それにしても)

 目撃情報があったから――白河の懇意にしている、傍系の病院にも話があったそうだが――こうして高校にまでアレを取りに来ているわけだが。

(結局、どれだけいるんだろう?)

 逃げ出した後、繁殖でもして(するのか?)増えていなければよいのだが。

 しゃらん、と鈴が鳴る。祝いの舞いを舞うような、静かな始まりの音色だった。

 美しい面をあげて、巫女のような少女がこちらを見る。

 これは夢? 本当にあったことだろうか。辺りのあぜ道は、由良には見覚えのあるものだった。明るく、開けた青空は、青々とした山々の上でのどかに雲を浮かべている。

 そのただ中を、美しい娘が、扇片手に舞っている。

 囃子歌は彼女の周囲の男女が担い、時折、この辺りの人だろう者達が合いの手を入れている。

 くるくると、袖を振らせて舞う動きは、いつしかこちらの息を奪っていた。

 呼吸、間合いが、その舞い手の動きに重なっていく。

 猿回しや芝居仕立ての作りものの武具なども、あったのだろう、近くに道具が置かれていたが、今やその、扇と身一つで舞う娘が主役だった。

 目が、合った。娘は深く微笑み、その瞳が由良と成り代わるような強い吸引力があった。ぼんやりとした由良が、気づけば、舞いは終わっていた。拍手と喝采に迎えられた娘は、年も幼く、由良より小柄な、中学生くらいだった。

「見てはだめだ」

 白い、広々とした掌が、ひやりと由良の視界を遮る。

 驚いて息が詰まった。

「おじ、さん?」

「おじさんっていうのは、やめてほしいんだが」

 ほのかな、線香の香り。ひやひやとした、由良の目を覆う掌を、由良はそっと持ち上げて外す。目の前には、長い白髪の男が立っていた。

「おじさん、どうして」

「見てはいけない。引き込まれるよ」

 平静だが、どこか堅い声音だった。

 由良は慌てて、前を見るが、人垣に囲まれながら連れていかれる娘の、後頭部が少し見えたくらいだった。

 あの子はどこへ行くのだろう。

 家族なのか、単なる仲間か、派手な衣装や粗末なものをとりどりにまとった連中が、歌いながら、舞い手と人垣の後をついていく。

 真っ白な髪を揺らして、由良の背後に立った三船が、吐息で微笑んだ。

「不用意に感応する……あの子の舞いに、ついていってはいけないよ」

「だって、あの子は」

 口をついて出ようとする言葉を、三船が留める。

 その指を噛む勢いで、由良は発した。

「だってあの子は、何もしていないのに」

 舞うだけなのに。

 あらゆる幸いをもたらし、実りと花をもたらした娘一人を。

 歓待し、とどめようとして。

 流芸人達が去ろうとするのを阻み、けれど逆に阻まれて。

 娘一人だけを、閉じこめた。


「ねぇ、外へ出して」

 哀れと思うなら。

 この声が聞こえるというのなら。

 ここから、外へ、出してちょうだい。

 かりかりと、あの白く細い爪の先が、戸の内側を掻いている。

 出して、出して。ここから出して。


 いったい、誰が悪いのか。

(閉じこめられてるのは、あの舞い手なのかな)

 急に夢からはじき出されたせいか、吐き気がした。母屋に行って水を飲む。

 うららかな春は、この何日かで行きすぎて、辺りは緑が鮮やかで眩しい季節になっていた。

 母屋を出ようとしたところで、足を止める。梓が、庭木に水をまいている。ふてくされた顔だが、家人に言われたのか、投げだすつもりはないようだった。

 ひら、と、庭を蝶が横切る。

 蝶みたいなものだと、由良は思う。この家には箱があって、屋内には、白い手の女がいる。箱に入った羽虫は、真っ暗な箱の中で、他の何かと溶けあってしまう。蝶は、幼虫から蛹になる。外の皮だけを残して、内側はすべて、溶ける。目も耳も口もなくなって、どろどろに溶けて。スープになる。それを図鑑で最初に見たとき、箱は蛹なんだ、と思った。箱を途中で開けてしまったけれど……そのまま、待っていたら?

「あの箱、置いといたら何になるの?」

「はぁ? 何にもならねえだろ」

「うん……そうだよね。黒いアレとか、犬とかは出てくるけど……蝶じゃないよね」

 何を言っているのか、と梓が顔をしかめている。由良にも分からない、けれど、ぼんやりとした不安が胸にある。

 土くれと草のはびこる田舎道を、増大した黒い塊が転げていく。大きすぎて、鏡の反射が当たったくらいでは止まらない。

 悲鳴をあげた通行人の足が、黒いアレに飲み込まれる。片足がアレの端からはみ出したが、ひしゃげて血も流れない。もう生きていないのだろうか。

(どうしよう)

 気持ちがぞわぞわして、息があがってくる。

 明るい青空の下、新緑に染まりつつある山々を背景に、植木をなぎ倒しながら黒い塊が駆けていく。

「梓っ」

 梓が横面を蹴りとばして、黒いアレを一時的に留める。だが梓自身は勢いを殺しきれずに斜面の向こうに消えてしまった。

「ち」

 舌打ち一つ、梓は斜面をのぼって戻ってきて、黒い塊をぶん殴る。

 野蛮な行動でも、どうにかなっているのは、彼の自信と腕力と、気迫か何かのおかげだろうか。

 ぎゃわん、と塊が吠える。まさか、と目を見張って、由良は声の主を捜した。

「いた……! 梓っ、中に犬が取り込まれてる」

「だったらどうした」

 なぎ倒された木を避けて、木の葉と木ぎれの跳ね飛んだものを片手で払いのけながら、梓が動じず声を返す。

「助けて」

「助けろって? バカいうな」

 ぎゃわんと、梓に殴られて塊の上のほうが吠える。犬の前足に見えるものが突き出しては、不透明な黒のゴミ袋みたいな胴体に埋もれて消えていく。

「犬の真似してやがるだけだ。あんなの。タチが悪い」

「でも、本物だったら、」

「本物でも、よっぽど初期じゃねーと、切り離せない」

 歌えと、目で睨まれて、由良は唇で祓い歌を歌う。

 男衆らと違って、あまり長くは、アレをとどめることはできないけれど、鏡で照らされたアレは、歌声と術で動けなくなっていく。

 あわせて、犬のようなものも、動きが弱くなっていった。

(ごめん)

 犬がかわいそうなわけじゃない。

 梓のことを、思い出しただけだ。

(人でなしで、ごめんね)

 せめて、あんな不気味なものになって、自我のない塊の一部になっているよりは、成仏できるんじゃないかと、気休めを考えながら、由良は、最後の一節まで、祓い歌を歌いきった。

 粉々になる寸前、アレが叫びをあげる。耳に蓋をするような圧、恐怖が由良を塗り込める。恨みのような怒りのような、強い気持ちが、由良をつぶす。

 それも一瞬のこと。あっと言う間に、駆けつけてきた男衆が小箱にアレを吸い込んでしまう。雄叫びも何もかも、吸われてしまって、後にはぽかんとした空と、田植えを待つ、しろかき途中の田圃と山と、由良達ばかりが残された。犬や人の姿は、どこにもなかった。

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