1-6
*
離れに戻ると、戸口に梓がしゃがんでいた。
「梓」
何してるの、と聞きかけて、手元に工具があるのに気がついた。
「何か、作ってるの?」
「違う」
「あっ、直してるんだ」
外にある水道のホースが、蛇口から外れているらしい。さっさとつなぎ直して、梓は水まきを再開した。
細かな水滴が降っていく。
ぼんやりと、梓の後ろからそれを見ていた。
「おい」
「何?」
視線で示されるまま、由良は立つ場所を変える。
足下近くまで、水たまりが近寄ってきている。
「梓、水、まきすぎじゃない?」
「うるさい」
水が降る、その音が、心を静かにさせていく。細かな塵が、ぱたぱたと落ちて静まる。
「あ」
「何だよ」
「梓はえらいね」
「は?」
「気持ちが落ち着いた。ありがとう」
「……何言ってんだお前」
「あのね。母屋に行ってきたの」
「そうみたいだな」
由良の視線は、地面付近をさまよったままだ。梓が少し顔をあげて、母屋を見やった気配は感じた。
唐突に聞いてしまう。
「どうして、あんなものがあるの?」
「知らねえよ」
さっきまで、どこか穏やかだったくせに。梓は何だか不機嫌だ。梓が犬だったときなら、由良はあの茶色みを帯びた頭を撫でて、抱きしめて、匂いをかいで、あぁ生きてるなと、嬉しく思えただろう。でも今の梓は人の姿で、やっぱり、由良とは全然違う生き物だ。
じっと見ていると、睨み返された。射殺すつもりのような、痛みを感じるくらいの視線。そんなに睨みつけていて、疲れたりはしないのだろうか。
ふいと視線を逸らされた。
「でも、お前は、アレを壊すんだろ」
「壊すっていうか……」
はたと気づく。
「梓は、アレを、壊したくないの?」
「そうじゃない」
梓が顔をしかめる。
「わざわざ壊す意味があるのかって言ってる。お前じゃなくても、他にも封じられるヤツがいるのに」
「梓、この間も言ってたね。私が箱を開けたから、責任取るの、しょうがないよ……」
「しょうがないと思ってないくせに、言うな」
「ごめん」
「反射で謝るな」
「だって」
謝りながらも、由良は、面白くなってきた。
「私、梓に謝ってばっかり」
「分かってんなら謝るな」
「うん。私の、……私だけのせいじゃ、ないもんね。元々……」
でも、元々、誰のせいだって言うんだろう。
*
校内にチャイムが響きわたる。
少し間延びして聞こえるそれが、消える寸前に由良は叫んだ。
「梓っ」
生徒がいない廊下を、由良と、黒いアレが駆けている。
由良の後ろから、開いていた窓をひょいと越えて、梓が来る。
アレは簡単に蹴りとばされて壁に激突した。
がしゃんと派手に転がって、アレはゆるゆるしたゲル状になる。固形になり、崩れては固まる。同じ動きしかできなくなった、シンバルを鳴らす猿人形のおもちゃみたいだった。
鏡と歌で拘束し、砕いて息をついた。また家に電話しなくてはなと思う。
由良が振り返ると、梓はもういなかった。
ごく近くで、女子生徒が笑い話をしている。
(見られた?)
そんなわけがない、胸を落ち着かせ、何でもない顔を作って廊下を歩く。
大丈夫、大丈夫だ。
(それにしても)
目撃情報があったから――白河の懇意にしている、傍系の病院にも話があったそうだが――こうして高校にまでアレを取りに来ているわけだが。
(結局、どれだけいるんだろう?)
逃げ出した後、繁殖でもして(するのか?)増えていなければよいのだが。
*
しゃらん、と鈴が鳴る。祝いの舞いを舞うような、静かな始まりの音色だった。
美しい面をあげて、巫女のような少女がこちらを見る。
これは夢? 本当にあったことだろうか。辺りのあぜ道は、由良には見覚えのあるものだった。明るく、開けた青空は、青々とした山々の上でのどかに雲を浮かべている。
そのただ中を、美しい娘が、扇片手に舞っている。
囃子歌は彼女の周囲の男女が担い、時折、この辺りの人だろう者達が合いの手を入れている。
くるくると、袖を振らせて舞う動きは、いつしかこちらの息を奪っていた。
呼吸、間合いが、その舞い手の動きに重なっていく。
猿回しや芝居仕立ての作りものの武具なども、あったのだろう、近くに道具が置かれていたが、今やその、扇と身一つで舞う娘が主役だった。
目が、合った。娘は深く微笑み、その瞳が由良と成り代わるような強い吸引力があった。ぼんやりとした由良が、気づけば、舞いは終わっていた。拍手と喝采に迎えられた娘は、年も幼く、由良より小柄な、中学生くらいだった。
「見てはだめだ」
白い、広々とした掌が、ひやりと由良の視界を遮る。
驚いて息が詰まった。
「おじ、さん?」
「おじさんっていうのは、やめてほしいんだが」
ほのかな、線香の香り。ひやひやとした、由良の目を覆う掌を、由良はそっと持ち上げて外す。目の前には、長い白髪の男が立っていた。
「おじさん、どうして」
「見てはいけない。引き込まれるよ」
平静だが、どこか堅い声音だった。
由良は慌てて、前を見るが、人垣に囲まれながら連れていかれる娘の、後頭部が少し見えたくらいだった。
あの子はどこへ行くのだろう。
家族なのか、単なる仲間か、派手な衣装や粗末なものをとりどりにまとった連中が、歌いながら、舞い手と人垣の後をついていく。
真っ白な髪を揺らして、由良の背後に立った三船が、吐息で微笑んだ。
「不用意に感応する……あの子の舞いに、ついていってはいけないよ」
「だって、あの子は」
口をついて出ようとする言葉を、三船が留める。
その指を噛む勢いで、由良は発した。
「だってあの子は、何もしていないのに」
舞うだけなのに。
あらゆる幸いをもたらし、実りと花をもたらした娘一人を。
歓待し、とどめようとして。
流芸人達が去ろうとするのを阻み、けれど逆に阻まれて。
娘一人だけを、閉じこめた。
「ねぇ、外へ出して」
哀れと思うなら。
この声が聞こえるというのなら。
ここから、外へ、出してちょうだい。
かりかりと、あの白く細い爪の先が、戸の内側を掻いている。
出して、出して。ここから出して。
いったい、誰が悪いのか。
*
(閉じこめられてるのは、あの舞い手なのかな)
急に夢からはじき出されたせいか、吐き気がした。母屋に行って水を飲む。
うららかな春は、この何日かで行きすぎて、辺りは緑が鮮やかで眩しい季節になっていた。
母屋を出ようとしたところで、足を止める。梓が、庭木に水をまいている。ふてくされた顔だが、家人に言われたのか、投げだすつもりはないようだった。
ひら、と、庭を蝶が横切る。
蝶みたいなものだと、由良は思う。この家には箱があって、屋内には、白い手の女がいる。箱に入った羽虫は、真っ暗な箱の中で、他の何かと溶けあってしまう。蝶は、幼虫から蛹になる。外の皮だけを残して、内側はすべて、溶ける。目も耳も口もなくなって、どろどろに溶けて。スープになる。それを図鑑で最初に見たとき、箱は蛹なんだ、と思った。箱を途中で開けてしまったけれど……そのまま、待っていたら?
「あの箱、置いといたら何になるの?」
「はぁ? 何にもならねえだろ」
「うん……そうだよね。黒いアレとか、犬とかは出てくるけど……蝶じゃないよね」
何を言っているのか、と梓が顔をしかめている。由良にも分からない、けれど、ぼんやりとした不安が胸にある。
*
土くれと草のはびこる田舎道を、増大した黒い塊が転げていく。大きすぎて、鏡の反射が当たったくらいでは止まらない。
悲鳴をあげた通行人の足が、黒いアレに飲み込まれる。片足がアレの端からはみ出したが、ひしゃげて血も流れない。もう生きていないのだろうか。
(どうしよう)
気持ちがぞわぞわして、息があがってくる。
明るい青空の下、新緑に染まりつつある山々を背景に、植木をなぎ倒しながら黒い塊が駆けていく。
「梓っ」
梓が横面を蹴りとばして、黒いアレを一時的に留める。だが梓自身は勢いを殺しきれずに斜面の向こうに消えてしまった。
「ち」
舌打ち一つ、梓は斜面をのぼって戻ってきて、黒い塊をぶん殴る。
野蛮な行動でも、どうにかなっているのは、彼の自信と腕力と、気迫か何かのおかげだろうか。
ぎゃわん、と塊が吠える。まさか、と目を見張って、由良は声の主を捜した。
「いた……! 梓っ、中に犬が取り込まれてる」
「だったらどうした」
なぎ倒された木を避けて、木の葉と木ぎれの跳ね飛んだものを片手で払いのけながら、梓が動じず声を返す。
「助けて」
「助けろって? バカいうな」
ぎゃわんと、梓に殴られて塊の上のほうが吠える。犬の前足に見えるものが突き出しては、不透明な黒のゴミ袋みたいな胴体に埋もれて消えていく。
「犬の真似してやがるだけだ。あんなの。タチが悪い」
「でも、本物だったら、」
「本物でも、よっぽど初期じゃねーと、切り離せない」
歌えと、目で睨まれて、由良は唇で祓い歌を歌う。
男衆らと違って、あまり長くは、アレをとどめることはできないけれど、鏡で照らされたアレは、歌声と術で動けなくなっていく。
あわせて、犬のようなものも、動きが弱くなっていった。
(ごめん)
犬がかわいそうなわけじゃない。
梓のことを、思い出しただけだ。
(人でなしで、ごめんね)
せめて、あんな不気味なものになって、自我のない塊の一部になっているよりは、成仏できるんじゃないかと、気休めを考えながら、由良は、最後の一節まで、祓い歌を歌いきった。
粉々になる寸前、アレが叫びをあげる。耳に蓋をするような圧、恐怖が由良を塗り込める。恨みのような怒りのような、強い気持ちが、由良をつぶす。
それも一瞬のこと。あっと言う間に、駆けつけてきた男衆が小箱にアレを吸い込んでしまう。雄叫びも何もかも、吸われてしまって、後にはぽかんとした空と、田植えを待つ、しろかき途中の田圃と山と、由良達ばかりが残された。犬や人の姿は、どこにもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます