1-5
*
早く目が覚めすぎた。
辺りは青く、明かりは必要ないけれど昼でもない、静かな朝の境目だった。
由良は庭に立ったが、寒くて母屋に入り込む。
暗く、家人の気配の絶えた部屋。
玄関の門灯が、煌々とついている。そのほかは冷蔵庫のうなり声が少し聞こえるくらいだった。
畳を踏み、由良は奥の部屋へ向かう。昔は食糧や嫁入り道具を置いたという、座敷の中にある蔵だ。蔵と言っても、元は単なる、ふすまに仕切られた一室で、今でも、扉ばかりが重たいところ。
(何だっけ……)
ここに閉じこめられているのは――。
鉄扉の隙間から、小さく、歌が転がり出ている。
この歌に、害意がないことは知っている。それでも、声がすると身がすくむのは、嫌な記憶がしみついているせいだった。
小学校の入学前に買った真新しいランドセルを背負って、由良ははしゃいでいた。
外はうららかな日差し、風だけが少し冷たい。
白木蓮の大きなつぼみが、綻んではらりとこぼれている。たんぽぽはまだだが、菜の花はもう満開だった。
春霞に煙されながらも、青々と息を吹き返しつつある山。仰ぎながら、由良は庭と、外の田圃の周りを駆け回る。
人はほとんどいなかった。遠くの田畑で、近所の人があぜの手入れをしている。隣人といっても、土地が広いから意外と遠い
不意に呼ばれた気がした。
不安になって振り返る。
振り向いた先で、いつも通り、住み慣れた家屋が建っている。家人は誰も外におらず、茫洋とした春先の空気が、やけに静かだった。
蝶が目の前を横切っていく。平和そのものの世界。
由良はけれど、ひかれるようにして駆け戻った。誰もいない玄関で急いで靴を脱ぐ。
「お母さん?」
呼んだ声に、返事がない。
おかしなことだった。母は、外出したわけでは、なかったはずだ。家の中に、いるはずだった。
さっきまで、由良がランドセルを背負うのを見ていて、外へ駆け出すのを危ないからやめなさいと微笑みながら止めていたのに。
つい、さっきまで。
――後になって思う。呼ばれたのではなくて、由良は悲鳴を聞いたのだった。
ふと、座敷の奥に母がいるのかもしれないと思い立った。
家屋内の、重たい扉が開いていた。電気はついていて、やけに青みを帯びた世界が広がっている。
「お母さん?」
しんとしていたが、由良はおそるおそる中へ踏み込む。
きしきしと、畳の下の板がきしむ。
「お母さん」
突然、がたがたと木の箱が倒れる音が響いた。
すくんだ由良の耳に、再びの静けさが戻ってくる。
母はきっと、ここに、いる。そのはずだ。
そうでなかったら、何がいるというんだろう。
おいで、と、希うように、女の声が呼んでいる。
鋭く、鞭のようにしなって、母の声が響いた。
だめよ由良。こっちに来てはだめ。
勝手に変な虫を捕まえてきて母のポケットに入れたときだって、由良が溝に落ちたときだって、あんなふうに、母は叫ばなかった。
奇妙だなと、静けさの中で、由良は思う。
座敷の畳は青い。いつ入れ替えたものだろうか。
震える足が、由良の意志を無視して、前へ進む。
座敷の奥、重たい扉があり、小部屋につながっている。そこには、古いタンスや長持ちがあり、誰かの婚礼衣装の豪勢な、今はくすんだ色合いの着物がかけられている。
そこまでであれば、由良も、家人も、入ることはあった。
けれどその奥。
昔は、母屋から入ることもできたはずの、今ではかたく、壁で塗り込められた場所。
それでいて、この方面から入るときには、薄く、儚く思えるふすまだけで区切られている。
その――決して入ってはいけないと、言われていた場所の、ふすまの取っ手を引っ張った。
するりと開いた先は真っ暗で、何か黒い生き物がみっしりと詰まっているようでもあった。気のせいだったが。
暗闇の中で、何かが息を潜めていた。
母か。
あるいは他の。
由良は目をこらす。暗闇に目が慣れていく。
それでも、母の足が見えるか、見えないか。
不意に、
「おいで」
はっきりと、ろうたけたような、子どもの舌足らずのような、どちらとも取れない声が聞こえた。
逆らえなかった。
由良は畳を踏み、前に出る。首がいやいやをするのに、足は言うことを聞かない。
「やめて!」
母が、金切り声をあげる。髪は乱れ、化粧けの薄い頬が血の気を失っている。
さらに奥にはふすまがあって、そこから、真っ白い手が覗いていた。
「おいで」
「やめて!」
母が、白い手と由良の間に入る。
やめてと言う声は震えている。だが、歌い始めた目には、強い光が宿っていた。
子を取られかけた獣のように。
血を吐く声音で、「あげない」と言った。
白い手が、こまねくのを、ぴたりとやめた。
「なにも、貰ったことはない。与えるだけで」
ぞっとするほどか細く、冷たく、暗い声だった。
母が笑う。
「誰にも。あの子をあげないわ」
白い手は、母を掴む。肩口の、服と肉が変形する。
由良は口を開けたが、息が吸えない。
嵐のような風が、ふすまの向こうから吹き付ける。
母が「大丈夫」と請け合った。
白い手が、あれほどまでに強く、掴んでいるのに。母の肩は痛むだろうに。
由良の前で、嵐がやむ。
母の姿が消えていた。白い手は、影も形もない。ただ、ふすまの開いた奥の暗がりが、ひたひたと潮の満ち引きするように、静かな気配を漂わせていた。
「お母さ、」
耳を圧倒する、高笑いが響く。家人は誰も他におらず、由良は足腰が揺らいで立てなくなった。
尻をつけたまま、ほうけていると、辺りは徐々に暗くなる。
目が慣れたはずなのに、どんどん暗く。
濃密な闇が、由良の息を奪っていった。
その、由良の意識をすくいあげるように、母の柔らかな歌が、底のところで響いている。
*
母のいない屋敷は広くて、由良にはひどく重苦しかった。
あの日から、白い手を見ていない。
時折、誰かを呼ぶ、少女のような老婆のような、姫君のような声はする。けれど、そのつど、柔らかでしたたかな女の歌が、その声を遮るのだった。
あの歌は母そのものだ。
ただきらきらとした欠片、歌だけが、母の姿をしのばせた。
母さんが歌になったなんて、誰も信じてはくれないけれど。
――いや、実際に屋敷の中で、見聞きした者は納得はしなくても理解する。
ここにあの人がいる、と。
今日も母が歌っている。話しかけると、まれに返事がある。
「ねぇ母さん。私、あの学校に受かったんだよ……」
でも、行けなかった。重たい扉の隙間、その暗がりに話しかけると、母の笑うような、苦しむような声が聞こえる。
ごめんなさいね。ここに生まれたばかりに。
「ううん、アレを片づけるの、全部終わらせたら、また、転校もできるし」
それは当初家人に言われて、由良には納得がいかなかった手段だった。アレをすべて回収し終えたら、元の学校に行けばいい。簡単なようでいて、もう取り返しがつかないような気もする。時間は戻らないのだから。
ふと近くに気配を感じて、由良は振り返った。
まだ家人は起床しておらず、室内には誰もいない。代わりに、薄青く光るものが立っている。
「瑠璃部。いたんだ」
「いますよ?」
皮肉げに語尾を上げて、眼鏡越しに瑠璃部が笑う。叔父に似て見える格好なのも、彼なりの皮肉だろうか。庭に敷き詰められた白い小石は、叔父によって術を込められている。アレが外に出にくくなる、結界のような働きをしている。瑠璃部もまた、それらのせいで外へは出られない。
「瑠璃部も、箱から逃げたんだよね?」
「私は座敷から出られない。出られない以上、出ようとする他のものも許しませんよ」
微妙に、由良に答えてくれない。
「そのわりに、他のアレが出ていっちゃったんだけど」
「自分の不注意をひとのせいにしないでください。アレは母屋から出たのではない。蔵から出たものです」
「だからってほっとかないで。母さんのことだって……肝心なときに、役に立たなかったくせに」
「それについては前後が逆です」
愚か者を見るような目で、瑠璃部が由良を見下ろした。
「私は、あの人が母屋の部屋に消える前には、ここにいなかった。私がここにいれば、あの人をむざとは行かせなかったでしょう。ただし、そうであれば――そもそも私があの人に従うことも、なかったでしょうが」
「そうだけど」
瑠璃部は、部屋に溶けて消えている母の命令であれば、従うのだ。従わざるを得ない、のかもしれない。美しく輝くきらきらとした欠片。由良の名を呼び、微笑む気配。
強く、つよく、母屋の奥の座敷にいる白い手を、戒めて離さない力。
家人たちは、母のことをよく思っていない。母は、力を持った状態で、あの手に近い場所に居続けている。
白い手の持ち主に、近づいてはいけないのに。瑠璃部が冷ややかな面もちのまま、近くの闇に溶けて消える。
「それ以上近づいてはいけません。どうか戻ってください」
由良は一人で振り向いた。
敷地内の、古い家々に住む、男衆の一人が立っていた。
昔、白河が庄屋か地主か何かだった頃、雇われていた使用人達の家系であると言われている。
「由良お嬢さん。お戻りを」
厳つい顔の人間に、神妙に言われて、遊びで近づいたわけではないと言い返しづらかった。何を言っても言い訳と取られるだろうし、この男にうまく、自分がここにいる理由を説明できる気がしなかった。
「近づかない方がいい。女の方が呼ばれやすいんで……」
「男なら、近づけるの?」
「いいえ。ただ、女の方が親和性が高いんです」
「いろんな人に言われる。でも、母さんも、無事とは言えないけど、あの人に利用は、されてないよ。ちゃんと、封じてる」
「それが続くかどうか、我々は心配でなりません」
「母さんは、私たちを傷つけるような真似は、しない」
悲しそうに眉をひそめて、男衆は首を振る。
「とにかく、封じたものを引き出すつもりがなくとも、させられることがあります。近づかないでください」
「でないと、私まで封じないといけなくなる?」
戯れに口から出そうになったけれど、押しとどめた。
本当に頷かれてもショックだし、気を遣われるのも辛かった。
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