第二章

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第二章

「見て梓っ、これ」

 梓は、どういう反応をすればいいのか判断に苦しんだ。元々何かを意図して反応することなど、あまりない。腹が立てば睨むし殴るし蹴飛ばす。うまい飯にありついたことは最近あまりないが、それでもそこまでまずくなければ表情は変えない。庭で虹を見て喜んだのは子犬だったときだけだ。あのころ、人間の格好をしていたら、いったい自分はどれだけあほうだったのだろうと、それを思うと穴を掘って隠れたくなるが――まぁあの当時は犬だったから、今更のことだ。

 ともあれ、梓は、離れの建物の前で、自分に差し出された物体を見た。

 見たところは、むくむくした、成犬だ。しかし、匂いが違う。

「……ソレ、アレだな?」

 顔をしかめて確認する。

 由良は、やっぱりばれたか、というばつの悪さと、普通の犬ではなかったという落胆の入り交じった顔で梓を見上げた。犬は、精一杯、可愛い子ぶって小首を傾げる。

 茶色のむく毛の犬を、梓は睨みつけた。

「捨ててこい」

「捨てていいの?」

「外じゃない。元あった場所につっこんで来い」

 元あった場所――箱の中に。由良が不満そうな顔をする。何でだ。

「今はその形だろうが、一瞬後にはどうなってるか分からない」

「そうだけど」

 犬の前足を掴んで持ち上げ、由良が呟く。

「昔の、梓みたいだなって思って」

「俺はそんな貧相な犬じゃない」

「そりゃ、梓の方が可愛かったよ」

 犬が、犬らしからぬ風情で吹き出した。梓は素早く犬の頭をひっぱたこうとしたが、犬の頭がひしゃげる前に由良が犬をおろしてしまった。

「なーんだ、残念だね……」

 残念も何も、胃が痛いと言う割に由良はどうしてこう、厄介なものを拾ってくるのだ。意味が分からない。由良が犬に向かって言う。

「先輩犬がだめだって言うから、お前はそこに繋ごうね」

 結局飼うつもりか。

「どうせ、家の奴らが始末するだろ」

 家人も、梓が始末すると思っていたのかどうか、犬は夜になっても、庭先に座っていた。梓を見ると、しっぽを振る。腸が煮えるような、自分も犬のときはあんなバカだったかと過去の行いが恥ずかしくなるような、苛立ちの入り交じった思いがして、梓は眉間に皺を寄せ、盛大に睨みつけて犬に吐き捨てた。

「お前、バカじゃねえの」

 犬は、可愛いらしい顔をつくって首を傾げる。梓は続けた。

「可愛い子ぶってんじゃねえよ。お前、仲間だろう」

 犬が吹いた。おかしくてならない、というように目元を歪め、ひとしきり土をかく。腹が立つので今ここでミンチにしてやろうか思ったが、明日の晩ご飯がハンバーグである可能性もあるのでやめておいた。別に由良ががっかりする――殺し方は見ていないとしても――だろうからというわけではない。

「……箱から、出たんだろ」

 犬がもがくのをやめた。きょとんとして、梓を見上げる。物言いたげだが、まだ喋ることができないらしい。

 由良は離れに引っ込んでいる。ミンチはやめるにしても、殺すなら、今だ。

 梓の殺気に気づいたのか、犬が、きゃいんと情けない声を出す。

「あーずさー? 何かしたー?」

 離れの中から呼ばれた。今日のところは、犬に手を出さないことにする。

「はァ」

 ため息をついて、離れに戻ろうとして。

 身じろぎした犬が、自分を繋ぐ綱に引っかかって、つるっと滑った。

「おわっ」

 やけに野太い、男の声で呟いて、犬はどうにか立ち直った。梓の視線に気がついて、はたはたとしっぽを振る。

 いよいよ胡散臭くなってきた。


 翌朝、母屋で食事をしている由良を置いて、梓が先に離れに戻った。

 離れのドアを開けると、がたいのいい男が、つるりとした頭を撫でつつ、寝転がってテレビを見ていた。

「お前」

 完全に見覚えがある、ようなないような。

「誰だ、お前」

 男は、にやにやしている。梓に対して口を開いた。

「お前さぁ、こんなことしてて楽しいか? ろくなお宝もねえ、飯食ってごろごろして、がきんちょのお守りするだけの暮らしだろ。また人間殺して山で暮らさねえの」

「……お前、誰だ?」

 じわりと、暗く染み出す感情がある。視線を受けて、男が身震いした。

「お、怖いねえ……と言いたいところだが、今のてめえなんざ怖くねえよ」

 バカにしきった声が、そよと梓の額をなぜる。特に怒りは感じないが、上下のわきまえぐらいはつけておきたい。

「お前が誰であれ、ただの、箱から出た犬っころだろ」

 ずどん、と、相手の腹に拳をめり込ませて、梓は呟く。

「痛くねえなあ」

 男はけろりとするが、二撃目を避け損ねて意識を手放した。口ほどにない。

 今ここで始末すると、由良に怒られてしまう。由良を呼びに出て戻ってくると、男の姿のまま倒れていたはずのモノが、しっぽを振りながら、わん、と鳴いた。犬である。

「くそっ、可愛い子ぶりやがって」

「そういえば名前つけてなかったね」

 由良が言い出した。犬を見下ろして、一つ頷く。

「八房」

「やつふさ?」

「うん。そんな感じの顔してるから。この前か、いくつか考えてたんだけど、顔を見てるとこれかな」

 毛がやたらとみっしりしているところとか、ふてぶてしい雰囲気が、そのようなのだろうか。ふさふさはしているが。

「あっ、でも何か不吉って言われた」

「誰に何を」

「同級生」

「あの二人組か?」

 最近由良は、学校で知り合いができた。

「そう。八房ってね、八犬伝っていう、昔の本に出てくる犬なんだって」

 伝聞調なので自分では読んだことがなさそうだ。後日テレビでやっているのを目撃した。

「問題あるだろ」

 隣で八房がしっぽを振って、ものすごくにやにやしている。

「何か言いたそうだな」

 言っていいとは言っていないのに、八房はふふんとした顔で答えた。

「いやー、俺にここまでやれってことかなー」

 そんなわけない。梓は素早く逃げようとした八房を見る間に壁際に追いつめ、蹴りとばそうとしたが、寸前、ドアが開いて由良が帰ってきた。

「いじめちゃだめでしょ」

 理不尽な気がする。

「そいつ、見たままじゃないぞ」

 せめて言い返すと、由良は腰に手の甲を当てて、

「それは知ってる」

「知ってるっていうか、そうだろうなって思ってるだけだろ。どういうモノか、ちゃんと見えてない」

「犬でしょ?」

 そこからが違う。梓は眉をひそめ、険しく言い始めた。

「俺と、同じように、」

 後ろ暗いところのあるものに違いないのだ。梓のことを知っていて――姿形や性質が、元と同じかどうか、はっきりとは梓自身覚えていないのだが――今の姿を笑ったのだから。

 だけど言えなかった。

 由良は、不思議そうに首を傾げている。梓を待っている。梓は、この家で、己の来歴を語ったことがないことに気がついた。瑠璃部の来歴についても聞いたことがない(切支丹侍が若様と旅をしていたとかそういうふざけた話なら聞いたが)。

 舌打ちして、梓は「とにかく」と声を荒らげた。

「そいつは、だめだ」

「どうして」

「更正の余地がない」

「梓にそんなこと言われるなんて」

 どういう意味だ。

 由良は、八房と名付けた犬の後ろから、前足を掴んで、頭に顎を乗せる。

「お前、そんなに悪だったんですかー」

 犬に聞くそぶりで左右に引っ張って歩かせて遊んでいる。犬的には腕が取れそうになるのでやめてほしいのだが、他人(他犬?)の受けている被害なので放っておく。

「とにかく、そいつに構うな。箱に戻せ」

「梓、小姑みたい」

 口うるさい認定を受けた。眉間に皺を寄せて次の言葉を考えていると「分かったぁ」と由良が返事をした。小さい子供みたいに不満げに語尾を伸ばすあたりに反省の色などない。

「しょうがない。梓のことをお兄さんだと思ってお暮らし、って言ってたけど、梓がこんなだから。やっぱり外に繋ぐね」

「外も同じだろ。箱じゃないだろ」

「家の中に入れて仲良くなるかなって思ったけど、急にじゃ、無理かもしれないよね。母屋だと瑠璃部に食べられるから、外犬にする。犬小屋ができるまで、軒先で少し待ってて」

「できるまでって、誰がやるんだ」

「私?」

「……俺がやればいいんだろ」

 結局、梓は自分で請け合ってしまった。

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