2-2

「おい、飯」

 椀を放り出すと、簡易的な犬小屋の前に寝そべっていた犬が、ふわりと尾を持ち上げた。片目を開けて、ちらりとこちらを見る。何となく腹が立つので、梓は近くにあった水道の蛇口をひねる。きゅっと音がして、犬は何かが縮みあがったみたいに一瞬飛び上がり、それから、あぁ飯か、と言わんばかりに椀を見下ろして、はぁ、とため息をついた。

「飯があるだけ、ありがたいと思え」

 もっと言えば、食える口と五体が満足なだけでもいいと思え。今すぐ脳味噌込みでぶっつぶしてやってもいい、という冷たい殺気を感じたのか、八房は椀に鼻をつっこんだ。

 食べ始めると野生が勝つらしく、あとは無心に椀を空にする。八房は、食うだけ食って、あとは寝ている。無駄飯食らい、と梓は八房を呼んでいる。

 どうせ、犬のふりをしているうちに、人間(か何か)であった過去を忘れるのだ。

 人間であった過去――箱に入る前なのか、出てきたときの人間としての記憶自体か――それを捨てる方が、よく生きられる気もする。それが幸せなことなのか、分からないが。

 自分にもあんなふうに無邪気(?)な子犬時代があったのだろうか(覚えていなくはないがあえて思い出したくはない)。

「あーずさー?」

 由良が座敷の方から声をかけてくる。衣類の虫干しなのか、物干しや屋内にいろいろなものが干してあった。カーテンみたいなそれらを避けて、由良は縁側に這い出した。

「梓、梓」

 浴衣を引っ張りだしているところを見ると、祭りがあるようだ。梓が眉間に皺を寄せていると、

「あのね、友達に、今度夏祭りに行こうって言われてて」

「……ふーん」

「あっ、もちろん、花火大会の日は梓も来てね、昔一緒に見にいったでしょ、覚えてる?」

 単なる用心棒、として呼ばれたのは分かっている。が、子犬だった頃の梓は、恐ろしい爆音と目を焼く火の色に震撼し、そしてそれをきれいねえと言って見上げる由良にもおののいたものだ。ちょっとしたら慣れたが。

 要は弾薬も花火も元は同じで、実際に恐れていたほうが正しい反応だと、梓はテレビのニュースで知った。

 最先端ではなくとも電子機器はありふれていたし、通話端末も画面の広いものも、買おうとすれば買えたのだろう、けれど由良が最近までそうしたものに興味はなかったし、それが必要な友達もいなかったようだ(アレにまつわるあれこれで、随分、鬱屈した子供時代を送っているらしい)。

(友達?)

 そんな甘っちょろい単語が出てくるとは、どうかしている。

 拳を握ると、手が滑る。ひやっとした汗をかいていた。

「梓、やいてる?」

 そういう気持ちじゃない。というか、こんなことをあけすけに言うような人間だっただろうか。半眼で考えていると、うわ呪われそうな睨まれ方された、と呟かれた。呪われたのは、そもそも、むしろ、梓の方である。

 箱とは、何と呪わしい物だろう。やめてしまえ、捨ててしまえ、楽になるぞ。

(だが)

「梓。お祭り行こうね。イカ? たこ焼き? とうもろこし?」

「全部食べ物じゃねぇか」

「だって梓。昔は、たこ焼きくらいしか食べなかったじゃない。綿飴もリンゴ飴も、食べるの面倒だったでしょ? 今なら、もっといろんなものが見られるよ」

 由良は、今だったらかき氷も食べられる、と笑う。

 お前の金で養われているのはひどく居心地が悪い。

(何だこれ)

 お小遣いだよと言いながら、紙切れや銅貨を置いていく(決まって、嫌みな口調で)由良の叔父のことを思い出しながら、梓はいっそう腹が立った。なぜか、ひどくさみしくもあった。

「あれっ、梓、楽しくない?」

「ない」

 反射的に答えてしまった。由良の傷つく顔を見ることを想定してしまって、苦しくなる。

 けれど、由良は、傷つきながらも、答えるのだ。今日に限って――。

「いいよ、そんなこと言っても行きたいんでしょ」

 行きたくないと、思うより先に口から飛び出しそうで。それで落ち込みそうで。梓は答えずに、背を向けて、壁を殴りかけた手をどうにか空にさまよわせて、庭へと出ていった。


 その苛立ちは、中身は見えなくても、苛立っていること自体は目に見える。

 由良はあーあ、と肩を落とす。怒らせた。

(私は好かれてない……それはそうだよね、元が何だったにしろ、箱でぐちゃぐちゃにされたら、恨むよね。しかも最初は犬だし)

 この家は、箱に食べられた人の事故記録を、明治の頃くらいから取っているようだが(それより古いものはなくしたとか、それごと箱に食われたとか聞いた)それを見ても梓に似た人が載っていない。古い人かもしれないが、梓に何も返してあげられなくて、由良は小さくため息をついた。

 時は少し遡る。

 梓が「二人組」と呼んだ同級生のことを、由良は、友達、と、呼んでいいはずだった。

 出会いは最悪というよりも、印象にすら残らなかったが。

 少し前に、時期をはずして、転校生が来た。一人はやたら人に突っかかる物言いをする、茶色の髪の少女。もう一人は、終始うつむきがちで、あまり話しかけてほしくなさそうな、黒髪を三つ編みにした少女。

 教室は一瞬だけ、好奇心や悪意に満ちたけれど、――どうしてこんな時期に来たの? 親の転勤? どこから来たの?――潮が引くように、いつの間にやら消えてしまった。

 別々のクラスに放り込まれたのに、大人しい方のいるクラスに、人を睨みがちな方がやってくる。弁当を食べる相手がいないのか、というより、どうも、元より顔見知りのようだった。

(不思議だな)

 あれほど、スカートの裾を短くして、険しく物事を睨んで不敵に笑う、剣呑な少女なのに。もう一人の大人しい子に、ずいぶんと懐いている。

 まぁ、どちらも、どうやら生命力は強そうなので(我関せず、というところもあるし)何とでもなるに違いなかった。

 彼女たちが気ままなのにつられたのか、たまに、一人で本を読む者同士でも話が弾んでいることもある。教室にも、少しだけ変化があったようだ。

 立てた教科書の後ろで観察していたら、気づかれた。剣呑な方が近づいてきて、ぱん、と教科書を払いのけた。

「授業中でもないのに、何やってんの?」

「え?」

「バカ?」

 あまりの言われように、由良はぽかんとする。こういうとき、どうしたらよいのだろう。

(あれっ?)

 面と向かってこれまでこうした罵倒を受けたことがないことに気がついた。

(これまで人とは天気とテレビの話くらいしかしてなかったんだけど……小学生のときなんて、たまに遊んでたけど、やっぱり不気味な家の子って言われて遠巻きにされがちで)

 返す刀も思いつかないまま、由良はぽかんと相手を見上げる。

 それがどう見えたのか、ふんと、息を吐いて、少女が鼻の頭に皺を刻んだ。

 何らかのコメントがあるのかと思ったが、さっさと行ってしまう。


「あいつ、授業中じゃないのに教科書にこそこそ隠れて飯食ってやんの」

「……教科書、飾りじゃなくて本当に読んでたのかもしれない」

「はぁ? 授業でもないのに?」

「ないのに」

「……ふうん。頭、悪いのな?」

「どうかしら」

 あるいはそうなのかもしれない。


 二人にひそひそと噂をされながら、由良は一人、弁当を食べる。教科書はついたて代わりだが、あると安心する。春先と違って、由良は何とか弁当を口にできるようになった。梓も来る日があるが、外で一人で歩いていることが多い。

 教室は、虐げられるというか、何だか由良にとってはよそよそしい存在だ。小さい頃から、外で遊んでいる方が好きだった。

 蝉とり、鈴虫やトンボとり、鮮やかな夕焼けに追い立てられるようにして帰る日々。

(夏の思い出ばっかり)

 そういえば、梅雨入りも間近だ。曇天を仰いだついでに、見えもしない校庭からボールを蹴って遊ぶ気配が飛んでくる。廊下側の窓越しには、薄く、雨の匂いが漂っていた。


 鈍い色の空はじわじわと膨らみ、いつしか路上に模様を作る。今ならまだ間に合う。駆けだしてしまえばいい。でも躊躇っているうちに、本降りになってきた。

 用意のいい同級生は、折り畳みや普通の傘を広げて、行ってしまう。

「おい、いつまでそこに突っ立ってんの」

 後ろから――それもごく近く、耳元から、剣呑に話しかけられた。由良は振り向き、自分が出入り口の真ん中を塞いでいることに気がついた。

「えっ? あ、ごめん」

「何で謝るの」

 何でって、周りを見ないで立ってたからじゃないか。由良は困惑する。やたらと突っかかる女子学生と、それを止めるでもなく冷ややかな黒髪の女子学生、の二人組だ。

 片方が突っかかるのは、何も由良に対してだけではない。授業中当てた教師にも噛みついていたようだ(こちらの大人しい方も、教師の記述が誤っていると容赦なく指摘し、かつ教師の人格にはいっさい触れないという高度さだったが――)。

 特徴のありすぎる彼女達に、由良は曖昧に笑みを浮かべて後ずさる。

「ごめん、人の邪魔になるところに立ってた」

「じゃ、どけば」

「今、そうする」

「謝りすぎなのも不愉快だけれど、それに突っかかる方も鬱陶しい」

 大人しい方がぼそりと言うと、つんけんした方の額がびしりとこわばった。

「突っかかってない」

「ふ」

 命乞いのダンスを見てしまった悪魔、みたいな顔で、大人しい子が大人しさの欠片もなく微笑んだ。見てはいけないものを見た。由良は察知し、慌てて、音を立てずにこそこそと校舎に逃げ戻った。外では、どこ行くんだよ、と、傘を片手に、梓が呟いていたが、ひとまずその場を立ち去った。


「今の……」

 茶色の頭を少し揺らして、網代は顔をしかめる。雨の中、傘をさしてもう一本をさげていた、いかにも学生のお迎えみたいな――雨傘のお迎えは、小学生までのような気もするが――男が立っていたのだが。男の視線の先、暗がりの校舎奥を見やって、視線を引き戻したらもういなかった。

「なぁ、琴葉。さっきの、人間か?」

「人間じゃ、ないの?」

 話しかけられた少女が、眉をひそめる。

「クラスメイトに、人外が混ざってるなんて。私が気づかないわけないのに」

「あ? 違う違う。何勘違いしてんの。そっちじゃない、あの女の方じゃなくて。さっき外に立ってた奴」

「さぁ。私はちゃんと、見てない……」

 人間に、思えたけれど。と、琴葉は呟く。

「そうではないかもしれない……か」

 びしりと、鉄筋の屋内で屋鳴がする。

 琴葉が、振り向きもしないで定規を投げた。同時に網代がひらりと飛ぶ。ぱあんと、派手に頬を打つような音がした。戻ってきた網代の手には、平たいぺらぺらのものが乗せられている。黒いゴム鞠が潰れたみたいだった。

「これ、どっから出てくるんだ?」

「無尽蔵に、生成か繁殖でもしてるのかしら」

「そんなわけないし」

「そうね」

 黒いものが身じろぎする。伸び上がろうと、努力するような小さな動き。

 それを、網代が握りつぶした。溢れた汁を、炎が包む。

「でも、未知のモノね。これをすべて潰したら、いくら貰えるかしら」

「未登録のモノだろ? 頼まれてないのに倒して、何か得があるか?」

「ばかねえ。これに困らされている人間を、探せばいい。取り除いてあげると言って、嫌だと断る者も、いないでしょう」

「そうか?」

「断るなら、それが、犯人よ」

「あぁ、そういうこと」

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