3-13
*
瑠璃部が縁側辺りから、透明な壁にぶつかっている。人の形を失って、また大きな塊になっていた。体当たりを繰り返し、時折雄叫びをあげて屋敷を揺らす。家人らが大人数で縄をかけ、綱引きのように引っ張っている。力は均衡し、どちらへも傾かない。
「お母さん!」
母屋に土足で飛び込んで、由良は奥の間を目指す。
そこここで、ささくれた土台の柱が折れて、畳を突き破っている。たまに、禍々しい色で塗られた札が貼り付いていた。
不意に気づく。
自分では出てこられないアレの、制限をかけている術。その基点はどこだろう。どこを壊したら、それは機能しないのだろうか。
それを知らない。
――土台の柱に貼られているのは、何だろうか。もしも、あれが基点だったら。あるいは壁に貼られていたカレンダーの裏にも不思議な、断末魔の悲鳴みたいなものが書かれている。あれだろうか?
ぞっとした。
うっかりすると、何でもないことで壊すかもしれないのだ。知らずに、たまたま呪文の書かれた本を資源ゴミに出してしまってそれきり、とか。
「由良!」
梓が追いついて、由良の頭の上に落ちてきたものを払いのける。
「梓、ありがとう!」
弾かれた箱の、蓋が取れて中身が床に落ちると、やはりぞっとした。首の取れた人形が二体。これも墨で何か書かれ、その上全身に針が突き立ててあった。何を相手にしたものなのか、とにかく呪わしいことだけは分かる。
ここまでしなくてはいけなかったのか。
母の歌が耳障りに、引っかかっては同じ部分を繰り返す。
「お母さん、やめて!」
止めていいのか分からないが、おかしくなった母をそのままにできない、いたましさが先に立つ。
でも姿も形も失った、多分母だった歌声が、今も母の意志自体を持っているかどうか定かでなくて、だから、話なんて通じないかもしれない。
いつでも、由良が危ないときには助けてくれたけれど。
歌がひときわ、爆発するように大きくうねる。
透明な壁が膨張して由良を突き飛ばす。
「るっ」
瑠璃部だろうか。ゲルよりはやや堅く、体温のないモノが大きくうねる。瑠璃部を呼ぼうとした口が、透明なつるりとしたものによって塞がれてしまう。息ができない。
気管で呻いてもがき、祓い歌を頭の中で歌おうとしたがまとまらなかった。
意識がちぎれる。
梓!
聞こえたかのように、梓が飛び込んでくる。由良を担ぐようにして、引っ張りだしてくれる。
「何だこれは」
「知らな、」
突然、笑い声がこだました。楽しくておかしくて仕方ない、そんなフリをしている、空騒ぎの声。
由良の母に似て聞こえる。でも違う。
「あの人……」
壊れてしまえと、呪いをこめて叫び続ける声が、騒ぎに便乗して辺りを埋め尽くしていく。
見慣れた羽虫に人の顔が無数に、びっしりと張り付いたモノが、奥の間から這い出してくる。
舌打ちした梓が座敷を出ようとするが、ずるりと何か踏みつけて転んだ。抱えられていた由良も、顔面から畳に落ちる。
「うわっ」
べとりと、顔に、肩に何かが付着する。粘液質のそれは赤く、みれば、畳に、いくつかの、爪の先ほどの、顔が、人の顔が、潰れて、落ちていた。大きさにばらつきがある。
「ひ」
叫びたかったが、うまく声が出ない。由良は諦めて、唾を飲み込んだ。
「梓っ、大丈夫?」
「くそ」
足に、蛇のように巻き付いていた細長いものを、梓が引きはがして畳に叩きつける。真緑の体に、カラフルに目がたくさん書かれた、蛇に似たもの。蛇に似ているが、絶えず、あぁああと、呪文のように唱えている。蛇が喋るなんて、聞いたことがないので、あれは蛇ではないのだろう。
「梓っ」
まとわりついてきた、細かな口の形をしたモノを、由良は拾った木切れで叩いて追い払う。
畳の上を滑りながら、唇達が軽やかに笑っている。
「何、これ」
「由良!」
油断した隙をついて、見慣れた、黒いモノが奥の間から飛び出してくる。どん、と突き飛ばされてめまいがした。
「てめえ」
梓が飛びかかってくる。たちまち由良を飲み込みかけた黒いモノは、梓の拳を避けて、けれど由良を離さない。
目の端がちかちかする。酸欠のせいかと思ったが、突き抜けてしまった壁と建具の向こう側に、庭があった。庭の小石が青く発光している。叔父と、離れの回線が繋がっているからだろうか――普段から、本人がいなくてもある程度役に立っているらしいが、今ほど働いている感じがしたことはない。光っているし。
青白い光を嫌がって、外に出そうになったアレらが戻ってくる。
内側から溢れ、外へは行けず、アレらはのたうつ。見る間に、瓶詰めみたいにみっしりと屋内を満たしていく。
梓が何度か、由良から黒いアレを引きはがそうとする。だがうまくいかない。はがしてもはがしても、元へ戻ってしまう。
「くそっ!」
拳で一度、自らの膝をはたいて、梓が呻く。
「何でだ……」
無理なら、梓だけでも逃げてほしい。
諦めたくないけれど、でも二人ともどうにかなってしまうよりはいい。
由良は必死で、逃げろと、外を指さした。ぎりぎりと喉を締め付ける力が強まってきて、息を止めているのも限界が近い、視界に火花が散る。
(逃げ、て)
*
ためらって、人間相手に手加減するうちに、化け物相手でもためらうようになってしまったのか。いつか、アレが消えたら、アレの一部である梓も消えるのかもしれないと、思っていたが。力だけ先になくなるとは、あまり考えていなかった。考えたくなかった。
「こんっ、のおぉお!」
由良の首を絞めあげていたモノを、思いっきり蹴り飛ばす。人の力ではありえないほど大きくへこんで、一瞬止まったモノは、直後、大型トラックめいた音を立てて田圃につっこんでいく。土がえぐれて大量の稲や樹木が小石とともに吹きあがる。
「は、」
何だ、まだ力はあるじゃないか。
拳や足が痛いけれど、無理な力をかけたと体が訴えているけれど、人間だったらもげていたかもしれない手足がちゃんとついているから、まだ、梓は、人間じゃない。
人間じゃないから戦える。
「由良……」
お前がいたから、俺は犬になれた。おいでと言って名前をつけた、守りたくてこの姿にきっとなった。だから。
とどめをさすなら、お前でなければならない。
だからまだ死ねない。
咳込んで、由良が転がる。まだうまく息ができずに、虫けらみたいにのたうっている。そこへ再び黒いモノが波のように集まってくる。梓はそれらを蹴散らした。
「梓っ」
しがみついてくる、由良の手が熱い。いや、冷たい。どっちだ? 分からなくなる。
自分の手足を見下ろしたら、黒いあれらと同じようにも見える。ぞっとする、でも戦うために必要ならば――梓の思考にあわせるように、脈がひどく波打つ。辺りの黒いアレらが歓喜するようにさざ波を立て、押したり引いたりする。
「あ、ず、さ!」
危機感でこわばった由良の声が、梓の耳を打つ。はたかれたのかと思ったが、由良は、泣きそうな顔で梓を見ている、だけだった。
「梓、呼んでよかった……?」
「何が」
「呼び止めた、気がするから……」
梓の形を作っていた境界線が、瑠璃部みたいに揺らいで、崩れてしまいそうだったのだろうか。
鼻で笑う。あんなのはごめんだ。
何を思ったのか、由良が首をすくめる。
「縛り付けてごめん、でも、行かないで」
それがどういう意味なのか、梓はとらえ損ねる。できるだけ、丁寧に、思考しようとした。
辺りにはアレがうようよしていたけれど、それぞれ柱をかじったり畳を一枚ずつはがしたりすることに夢中のようで、こちらに向かってこなくなった。
きっとそんな暇なんてない、でも、今でなければ、続きがないかもしれない。
梓は、口火を切った。
*
由良は瞬きする。
梓の、どこか遠いような視線が引き戻される。
「お前が、どこかに行くんじゃないのか」
俺は行かないと、平坦な口調で梓は言う。
「私? 私は――」
どこへも行かないよ。ごまかしの言葉になりそうで言えなかった。代わりに、
「県外の大学に行くんだ」
「そうか」
「それで、地元で就職したいけど、見つかるか分からないから、大学のあるところで会社を見つけるかもしれない」
「……」
「友達を、見つけたみたいに、また、何かあるかもしれない」
意外とこういう化け物が世の中に多くて、出先でも祓い歌が必要になるのかもしれないが。
「でも梓。梓は、家族だよ」
ため息をついて、梓は分かった、と答える。
分かってる、と。
「恋人でも友達でもない、うるさくて面倒で、でも絶対に味方だよ。私にとって、梓は」
自由にしたい、でも、行かないでほしい。
「何てわがままだろうって思う。けど、許してほしいって思う」
「本当にな」
悪い女だなと、梓がため息を繰り返す。
「でもそれで、いい」
もう、いいのだ。
生きていれば、続けていれば、関係は変わりうるし、世界も変わる。
「俺が変わろうと変わるまいと」
恐竜みたいな鳴き声をあげてアレが起きあがる。素早く、目に闘志を宿して梓が振り返り、アレを殴りつけ、踏みつぶす。ずんとした衝撃。
「お前は、行けばいい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます