3-12

 気持ち悪いが仕方ない。

 由良が嫌がりそうだが、これまで――梓が梓になってからも、それ以前の誰かの記憶の中でも――見たことがないモノなので、持ち帰った。

「うわっ」

 由良は声をあげたきり、部屋の隅に行って戻ってこない。

「……おい」

 これ、どうするんだ。

「待って、待って、詳しそうな人に聞いてみる」

 新種の虫でも見つけたみたいな状況だが、表に出せるものじゃないことは明白だ。

 人の顔に見えるどころか、そのものだ。黒くて動きの素早い、てらてら光る例の虫の、羽や足は正しくついているけれど、首(かどうか知らないが)から上だけが違う。人の頭だ。由良が小さい頃に持っていた、ビニールか何かでできている、人形みたいな。

「梓のとこにも出たんだね」

「にも、ってことは、お前も見たことがあるのか」

「一回、学校で。ちりとりに入るくらいの大きさの、人の顔だった。友達が半分に割っちゃったけど」

 由良は、あれも持って帰ればよかったのかなと呟いている。

 先日叔父から送られてきた電化製品は役に立っていて、メールもその他の連絡手段も使えるようになり、助かっている。

 由良は、この潰れた物体の写真を撮って、相手先に画像を送る。しばらくして「気持ち悪いもん見せんな!」と機器から叫び声が聞こえた。音声付きの映像通話が繋がっている。

「これ、昼間に見たやつと同じかな?」

「同じなんじゃねーの?」

 向こうは風呂上がりらしく、タオルを頭に巻き付けてふてくされている。

「これ、アレとは違うの?」

「アレってどれだ。お前んちの得体のしれねーやつ?」

「家の奥の人は、あれはあれで一つ。閉じこめるための技術に巻き込まれて虫とかいろんなものが取り込まれてできたのが黒いアレ」

「アレって、ほんとお前んち名前つけねーな何でだ。呼びにくくないか」

 網代の後ろから、琴葉が応じた。

「名前をつけて固定化したくないんでしょう」

 潰れたモノに関しては、似たようなモノは知っているが、別種だと思う、と短い答えがあった。

「どうしたらいいと思う?」

「どうするといいの?」

 そのまま返されて、由良は黙る。

「……持ってって処分してほしいな?」

「嫌だ」

 にべもない。

 梓は近くに来ない。通話範囲の外に出て、映らないようにしているようだ。

「じゃ、どうしよう……これって燃えるの?」

「さあ」

 普通の火で燃やしたことがないから――とのことである。

「初めて川原で黒いモノを拾ったときは、ちぎれたタイヤやゴミ袋みたいな物体だった。燃えることもあれば、燃えないこともある」

「普通の火って……」

「ライターとか。私は、手段として別の火があるけれど」

 何だかファンタジックな表現だが、考えずとも現状がファンタジックである。

 由良は考えあぐねて、

「家のたき火に入れる。燃え残ったら、可燃ゴミなら高温だから燃えるかもしれないし、ゴミ収集に出す」

「投げたな」

 それからしばらく、益体もないこと――小テストの範囲の確認だとか――をしてから、通話を切った。

 梓がうろんげにこちらを見ている。

「燃やそう!」

 由良が力強く叫ぶと、梓は顔をしかめる。

 聞こえていたから分かるが、と気乗りしなさそうだ。

 早く寝て、明日は早朝から、たき火を行うことにした。

 結論から言うと、暑かった。

 すっかり日も短くなり、朝は肌寒い季節である。それなのに今日は、燦々と太陽が照っており、暑かった。

 その上、枯れ葉が見つからなかった。

 草を引いて、裏山で枝をへし折ってきたが、生木なので燃えるわけがない。

 湿っぽくていがらっぽい、くすぶるたき火になった。

 どうにかアレをつっこんだが、蒸し焼きになっただけだ。

 気持ち悪いので、家のガスコンロにつっこむわけにもいかない。

 家人らに任せてさっさと登校したいのだが、誰も近づいてこない。自分たちも燃えると思っているのだろうか。面倒なだけか。

 梓が、ホースとバケツを持って待っている。八房は煙が嫌なのか、ぐるぐる回って遠ざかっていったままだ。

 そういえば、家人らは、紙切れなのにガスコンロを使うのだろうか――。

 屋内に戻り、状況報告をする。端末から連絡した友人からは、いちいち連絡するなと冷たく返される。

 ふと、屋内にいる瑠璃部やあの子に見せたらどうかと思いついた。

 あの子の前に持っていったら、これは動き出しそうだが――。

「おい」

 母屋にあがって奥へ向かおうとした由良に、梓が怪訝な、けれどほぼ結果を確信した顔で言う。

「まさか持っていくつもりじゃないだろうな」

「うん」

 頷いたら、やめろとひったくられそうになったので、由良はさっと逃げる。

「何をじゃれあってるんですか」

 氷より冷たく金属より堅い声音で、瑠璃部が呟く。

「あ、瑠璃部。これなんだけど」

 ぶわり、と瑠璃部の輪郭の一部がゲル状に歪んで、そして一瞬で由良が棒きれでつまんでいた平たいものを奪い去った。

 しばらく、半透明な部分の中に、ゼリー寄せの中身みたいに浮かんでいたけれど、やがて見えなくなる。

「食べた……?」

「始末しろという意味で、持ってきたのでは?」

 由良の心配そうな口調を、鼻で笑って、瑠璃部が奥へ戻っていく。

「……お腹痛くない? 頭おかしくない?」

「そいつが頭おかしいのは元々だろ」

 梓の軽口で、一拍おいて、ゲルが戻ってくる。人の形ではなかった。

「うわ、瑠璃部! お座り!」

 全く効果のない由良の叫びは、ゲルに溺れることで途切れた。

「てめぇ……」

 梓が拳を握り、自分を飲み込もうとする半透明物質を、思い切り殴ろうとする。さっ、とゲルが避ける。

「いつまでも、殴られてばかりではありませんよ」

 ふあははと悪そうに笑いかねない瑠璃部の偉そうな物言い。少しこもって、ぶれて聞こえる。どこだ、奴の本体(ゲルが本体だが急所的な意味で)を梓は探す。

「バカなこと、しない、の! それともあんな変なの食べたから、おかしくなっちゃったの?」

 由良がゲルの中から這い出す。生まれたばかりの牛のように、足が滑ってうまく立てない。

「変なもの、食べたりするからだよ!」

 それとも――先日、家屋から流れ出てきた黒いものが混ざったときから、おかしかったんだろうか。

 由良はポケットから鏡を取り出す。

 光が当たるのを嫌がって瑠璃部が逃れる。

「はらーい!」

「いつまでも、言うことを聞いていると思うなよ」

 普段の慇懃な口調を捨てて、割れた声で吐き捨て、瑠璃部が部屋の奥へずるずると後退して消えていった。

「梓」

 大丈夫だろうか。

 拳を床にめりこませてしばらく止まっていた梓が、由良の声掛けで我に返った。

「どうしたの?」

「いや……別に」

 歯切れが悪い。

「何? 殴れなかったからショックなの? 梓は強いよ、大丈夫だよ」

 そうじゃないのか。

「……床が」

「床?」

 畳が少しへこんでいる。

「後でまた、怒られるね」

 文句は言われるが――家人は、本当にやんちゃですねえと満面の笑みで言う――直してもらえるので、由良は聞き流している。アレ相手に手加減もできないだろうし、梓はむやみやたらと壊したくてやっているわけではないのだから。

 梓は自分の拳を見つめて、しばらく動かなかった。

 由良が学校帰りにコンビニに寄ると、梓は今日は早めに帰ったと言われた。店長の薄くなった頭部を見ながら、ひょっとすると具合でも悪いのだろうかと考える。由良は小さな飴の袋に購入済みのシールを貰って、店を出た。

「梓ー、風邪引いたの?」

 離れにあがると、布団もないし、梓もいない。

「あれ?」

 首を傾げる。母屋に行こうと外へ出ると、鎖の音がして、振り返ると梓が八房の綱をつけ変えているところだった。

「お帰り、散歩に行ってたんだ?」

「あぁ」

「コンビニに寄ったら、先に帰ったって聞いて。風邪かと思ったよ」

「みたいなものかもしれない」

「えっ、大丈夫? 寝てなくていいの」

 梓が神妙な顔をして、病院に寄ってきた、と言う。この前、瑠璃部を殴ったときの、違和感について、話し出す。

「えっと、普通の喧嘩の強さくらいしか、出ない……?」

「何でなのか分からない。犬から人間になったくらいだ、人間じゃなくなってもおかしくないが」

 意外ととらわれのない口調だ。でも遠くを見ているその様子は、何だか由良の不安をあおった。

「梓、人間じゃないほうがいいの?」

「バカ」

 なぜバカ呼ばわりなのか。由良はだんだんじりじりしてくる。

「梓っ」

「お前は?」

「私?」

「お前はどうなんだ」

「私は人間だよ?」

 そうじゃなくて、と梓は静かだ。

「俺が人間で、都合が悪いか」

「……何でそんな言い方するの」

「犬でいてほしいのか」

「そんなの……今更無理でしょ」

 犬だった、でも今は人間で。

「それが現実だよ。梓は、梓だよ。犬じゃなかったら、私と給食のパンを分けあったり駆け回ったりしてないし、人間じゃなかったら、喧嘩が強くて簡単に負けたりしない梓じゃないし、私と話もできないし。人間でもあんまり喋ってないけど……」

「そうか」

 何で梓は、いつの間にかこんなに、静かな話し方をするようになったんだろう。

 バイトの影響だろうか。

 いつか。

 企業で働いたりするんだろうか。

 自分の未来も分からないのに、人の心配なんてできない。でも考えてしまう。

「梓、コンビニの店長の跡継ぎになっちゃうの?」

「は?」

 突拍子もないことだったようだ。

「とにかく、……もしアレを片づけるつもりなら、早い方がいい」

 俺が戦えなくなる前に。

 梓は怖いことを言う。

「俺が使えるうちに」

「使える、って」

 何言ってるの。

「梓がもし、普通に人間になったって、別に、」

「困らないか? 本当に」

 困るかもしれない。

 正直戦力として頼ってしまっている現状では。嘘はつけない。頑張るしかない。解決策を探して。


 母屋の玄関先に座り込んでいたら、箒で追われた。家人なんて、昔の人で幽霊で紙きれのくせに、と内心で自分を正当化しようとしたが、うまくいかなかった。

「梓までいなくなっちゃうなんて、考えてなかった」

 解放は、する、つもりだった。でも。

 梓はうちにいるんだと思っていた。犬でも、犬じゃなくても。

 呟いて、誰かに頼りたくて、でも誰もいない。家の中には誰もいない。

 寂しくても泣いていても、膝を抱えて庭でうずくまっていても、八房はあくびをしているし、犬じゃない梓はある程度間を置いてから「腹でも痛いのか」とか言って、でもなぜかバイト先で貰ってきた景品の飴をくれたりする。

 思い返すと、梓の方が社会性がある気がして、自分が格好悪くてさらに落ち込んできた。

「うぅ」

「……っていうわけで私にお鉢が回ってきたのねぇ」

 優しくない叔母は、電話の向こうでひっそりと笑った。最初は黒電話をつい使ってしまい、家人に聞かれて困ることだったら叔父がくれた回線を使えばいいのにと指摘されて、いったん離れに戻ってきた、その後のことだ。

「由良ちゃんは、梓のことが好き?」

「好きっていうか」

 何だろう。バイト先で知らない子と話しているのを見ると、その場所は私のなのになと独占欲がある、けれどそれは、自分のうちの犬がよその子に懐くのを見たときと何が違うんだろう。

 そうか。

 梓が、その、よその子を選んで行ってしまうかもしれない、から。

 梓は人間になりかけていて、自分でバイトして経済も回せるし、もしかしたら意外と(喧嘩早いが)こつこつした作業ができて働いていけるのかもしれない。それで、由良のこともこの家のこともいらなくなる、のかも、しれない。

「それは、梓くんがかわいそうねぇ」

「かわいそう?」

「そんなふうに、思われて」

 ちゃんと聞いてあげなさいと、叔母は他人らしく、高見から言う。言ってのける。

 電話の向こうで物音がした。

 叔父の名を呼んで、お帰りなさいと言いながら叔母の姿が見えなくなる。

 叔父が電話を奪ってしまった。由良に、ばかな問い合わせだねと言う。

「叔母さん、喋っちゃったの?」

 むくれても、もう遅い。

「誰だって同じだよ、明日のことは分からない。由良がいきなり、アレと同化して、我々に滅されるのかもしれないし」

「叔父さんやめて、その冗談」

「冗談じゃないもの。由良、最近、アレに踏み込みすぎてるらしいじゃないか」

「らしいっていうか、前に言ったよね? 今、いろいろ試しているって」

「そうだね。由良は、捕獲の仕組みを知りたいと言った。だから連絡手段ごとプレゼントした。――解放したいのか怒らせたいのか知らないけれど、よけいなことをし過ぎると、危険だよ。アレに同情的になった者は、無事ではいられない」

「だって」

「君のお母さんだって、結局のところ、歌しか維持できなかった。姉さんは子どもができて、何も得られなかったアレに対して同情がわいて、それが命取りになったよ」

「そんなこと、言われても」

 うまくいけば、由良は、みんなを解放できる。

 でも、ふとすれば、由良自身がアレと同じになってしまうことがあるのだ。

 家人らの中にも、アレに同情的になって吸い寄せられ、精神的におかしくなった者があるように。


 歌が聞こえる。

「お母さん……?」

 離れまで聞こえることは、これまでになかった。

 崩れていく、その可能性を考えたばかりだったから、由良は足下が透明にでもなったようにぞっとした。

「お母さん……!」

 祓い歌が途中から一本調子になり、壊れたように同じ部分だけ繰り返し再生している。

 叔父が回線の向こうから呼んでいたが、何も言えないまま由良は離れを飛び出した。

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