3-8
帰宅後、由良は、正座していた。
奥の間の手前までで、足がすくんだので、中途半端な場所である。
ふすまの前で深呼吸する。アレの声は、まだ聞こえない。大丈夫だ、と大丈夫じゃなさそうに音を立てている心臓をなだめながら、由良は、紙袋を、ふすまの隙間に押し込んだ。
「どうぞ! 貴方にあげます!」
叫んでから、間があった。
今日はここまで出てきていないのかと思ったが、がさ、と袋が動く音が聞こえる。がさ、がさ、がさ。
――何、これ。
ひきこもりの娘とか友達とかがいるみたいだなと由良がちょっとばかりのんきなことを考えていると、もう一度、何これ、と、地を引きずるような声がした。
「旅行雑誌だよ」
帰り道に商店街で手に入れてきた。思っていたより高かったので、国外旅行のものは旅行代理店の店先のパンフレットを数冊選んだ。国内旅行は、メジャー所の雑誌にしたのだ。
梓は庭にいたが、由良が機嫌よく母屋に引っ込んだので、まさか、こんなことをしているとは思うまい。
――りょこう、ざっし。
「あっ、そっか、昔の人だったら、分からないかもしれないね。雑誌の見方とか。えぇと。旅行。旅をする、プラン、えーと計画? 計画の見本かな。これを参考にして、旅のイメージ作ったりするの」
――どういう。
どういうつもり、と、部屋全体がみしり、と由良の方へ押し寄せるような圧迫感が生まれた。
(あれ?)
由良は正座の腿の上で、拳を握って、緊張に耐える。いくらか、己が失敗したのではないか、と心によぎった。けれど口は止まらない。止めたらそのまま、我を失いそうな気もした。
「貴方は、旅が好きだったんでしょう? 昔の人たちがひどいことをしたせいで、仲違いしているけれど、いつか、怒りをおさめて、旅ができるといいなって思って」
ぎしりぎしりと、天井板やふすまが、破裂しそうに膨らんでくる。由良は、だんだんと早口になった。正座をやめて足を崩し、いつでも逃げ出せる準備をする。
「もちろん、昔と現代では事情が違うだろうから、徒歩が電車になったり、今のお金が必要だったりするから、うちでちょっとでも賄えるといいなって思ってる。出世払いじゃないけど、私も、働くようになったら、仕送りするんで」
――、ふざ、ける、なああぁ……!
耳が割れんばかりの大音声に、由良は吹き飛ばされる。ぼたぼたと、顔くらいの大きさの、なめくじを切り飛ばしたみたいなべたべたした塊が、いくつも飛び散る。当たると、酸があるのか、ひどく痛む。
「わ、ごめん、」
わあわあと叫び声が続き、ふすまはずたずたに裂かれる。家人らが無言で毎度掃除しているので、どれもピンと張っていたから、景気よく裂けていく。
由良は逃げようとしたが、あまりに辺りが無作為に裂かれるため、かえってどこにも動けなかった。ただ当たらないよう、身をすくめる。
やがて、母の歌声の代わりに、すすり泣きが聞こえてきた。
「お母さん!」
どうも妙だ。いつもだったら、アレらは母の歌によってなだめられ、鎮まるのだが、すすり泣きにあわせて辺りも波打っている。
母は、実体を失ったせいか、どうもアレに引きずられているような感じもする。
(どうしよう)
こういう展開があるとはあまり考えていなかった。無策だった。
鏡は持っているが、祓い歌を口ずさんでも何も起きないので、どうしようもないかもしれない。
「ううん」
三船にも黙って、勝手に雑誌を運んだので、あまり頼れない――が、背に腹は代えられまい。
「み」
「何で呼ばない」
不機嫌そうに、裂けたふすまをどけて、乱暴に畳を蹴って梓が現れる。
口を「み」の形にしたまま、由良は瞬きする。
「だって、梓だと、あの子と喧嘩できないんじゃないかと思って」
「それでも、やってみないと分かんないだろうが」
不機嫌そうに言い返された。
「ごめんね」
「何が」
「私が神経を逆なでしました」
「分かっててやったんだろ、お前」
「何で?」
「ぜんぜん、声に反省の色が欠片もねぇよ」 呆れた顔をした梓が、由良の頬を軽くつねった。
梓が一暴れしているうちに、家人らが駆けつけて、事態はうまく収拾した。
由良は反省など、しなかった。別の日、手にした物を勢いよく掲げる。
「買っちゃいました!」
梓にうろんげな目で見つめられ、由良は説明を試みる。
「えぇとね、旅番組総集編のディスクデータを図書室の先生に借りたんだよね。で、再生デッキも借りようと思ったんだけど、お小遣いで買えるやつのおすすめを教えてもらったから、帰りに電気店に寄ったんだ」
小型の再生機器は黒ずくめで、蓋を開けると小さな画面に映像が映る。
梓が、お、と短い声を出して部屋の片隅に後退したので、やっぱり犬だった人には驚きの道具だろうかと、由良は不思議に思う。テレビは見慣れているはずなのだが。
「充電式だから、持ち運んで見られるの。だからね」
「まさかそれ」
「そう」
やめておけと言われたが、好奇心には勝てなかった。
「どうしてだめなのかな」
奥の間につっこんで差し入れたら、最初は沈黙が返ってきた。やがて絶叫。あの子の絶叫……高笑いではなくて追いつめられたような叫び、初めて聞いた気がする。
家人達がものすごい迷惑顔で、引き裂かれた家の中を片づけていた。
「明治よりも昔の、人でしょう?」
図書室で飽きもせず(もう一人は飽きている顔だったが)宿題をやりながら、琴葉が応じる。
「かわいそうかもしれない。娯楽が、大道芸だけだった時代と違って、今は薄っぺらい紙切れみたいな電子機器でも動画が見られる」
「あ、絵が動くっていう驚きだったのかな」
「音もするし」
昔よりも発音自体が早くなっていて、聞き取れないのかもしれないとも、琴葉は言った。
「昔の人は、今よりももっと、話すのがゆっくりだったそうだから」
「そうか……悪いことしたな」
最初は端末機器にしようと思ったのだが、ネットに繋いだら際限なくうちの悪口を書き込みそうで怖いからやめたのだ。やめておいてよかった。絵や音が出る以上のことが、端末ならできる。
それを聞いた琴葉が、苦く息を吐いた。
「ただの引きこもり相手みたいな発言」
「そうかな?」
怖い、という気持ちはある。
でも、無謀を通そうとする勇気が、今はある。
「相談できるし心強いよ。いざとなったら、今ならまだ、家の人が何とかしてくれるし。そのうち、私だけになったりしたらって思ったらぞっとする」
未来が怖い、だから、怖くなくなるためには、今試しておきたい。
呆れたふうに、琴葉がまた、ため息をつく。
「お前の実験につきあわされるヤツの身が、かんわいそうだなぁ!」
自分の腕の上に頬をつけて半分寝ながら、網代がだらだらと言う。
「そうかな」
自分達の方が、かわいそうじゃないだろうか。たとえば自分。自分自身の問題ではなくて先祖の行いのせいで、あんな、いろんなものが混ざったものと戦ってきた。たとえば彼女達。この世ならざるものを握りつぶしてきた、それは居場所が他にないからだった。
たとえば梓。他にきっと選択肢がなかった。箱から現れて、どこへ行くとしても、家人らが追いかけて滅しようとするだろう。
ただし、家人といっても、紙切れの彼らが何をできるのか。
病院の連中は人間かもしれない。だが、親戚ではあって事情を知っていても、祓い歌は歌えても、それ以上のことはしないだろう。
(あれ? あんまり、恐れるようなものじゃないような……)
恐れるならば、アレやあの少女が再現なく解き放たれたときだろう。あるいは、アレと同様に手に負えなくなったときの家人か。
(やっぱり怖いかも)
「方法があるとすれば」
琴葉が由良の内省を軽く打ち切る。ひきこもり対策の本を一冊、書架から引き抜いて、由良に渡してきた。
「人間と同じだと仮定すればだけれど」
言いながら、今度は動物の飼い方の本を投げてよこす。
「こういうのもあってよいかもしれない」
マンガで読む歴史の本と、自分達の年代の子が出ている、受験応援雑誌(ファッションや恋の悩み相談コーナーもある)を由良の教科書の上に積む。由良は最初の二冊で両手が塞がったまま、困惑して琴葉を見上げた。
彼女は真っ黒い、表情の窺えない目で由良を見つめ返した。
「絵巻物くらい見たことがあるだろうから、かえって端末でマンガを見せた方が早いのかもしれないけれど」
「読めるかなぁ?」
「崩し字が読めていた時代の人なら。でも識字率は高くなかったでしょうから……文字ではない方がいいかもしれない」
絵本も追加された。
「いいよ、もういいよ」
借りた本は返さなくてはいけない。家に持って帰って奥の間に差し入れたら、ずたずたにされてしまうだろう。
一番安くてお手頃そうな絵本と、歴史の本を書店で探して、買って帰った。そろそろお小遣いがピンチである。
「あーあ。バイトしないとまずいかな」
貢ぎ物を贈るのは結構大変なことなのだ。勉強になった。
帰り道、途中から梓と合流する。夕暮れどき、赤トンボが飛んで前髪の手前をかすめていく。ホバリングするトンボを見送って、息を吐く。路面から立ち上る熱気の残滓が足を撫でる。
今日の貢ぎ物は、どうだろう。
結論から言うとふすまは無事だった。
立て続けに差し入れるので、相手は反応するのがばからしくなったのかもしれない。
静かなので、由良は「留守なのではないか」と危惧をした。
「もし喜んでもらえてるなら、同じやつのシリーズ買ってくるね……」
ばしゃりと、得体の知れない液体が畳にぶちまけられた。内臓がはみ出した魚みたいな、変な臭いがした。
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