3-7

「叔父さん知ってた?」

 電話を使うのが怖くて――言葉を直接聞くのが怖くて、仰向けに寝転がって天井の明かりに向かって話しかける。

 梓は母屋に風呂を借りに出ていて、離れの玄関先でふすふすと寝息をたてているのは八房である。他には誰もいない。

 母屋が怖かったのは、家人らが紙だったからではなく、死んだ後の魂だったからだろうか。

 のっぺりとした彼らと食事をとっても、何だか上面めいていて、底意が分からなくて、ぞわぞわしていた。

 今となっては由良の母さえ奥の間に囚われ、人間ではなくなっている。人間でも通常の生き物でもない梓と八房だけが、由良の近くで生活している。ごはんも食べる。

 由良は掌を見る。

 梓も八房も、触ったら温かいのに。

 本当に、人間じゃないのかな、犬じゃないのかな。

 風呂から戻ってきた梓が、戸口で困惑しているようだ。由良が大の字になって寝ころんでいるので、どこを踏んで歩こうか迷っている。

「ねぇ梓」

「何だよ」

「病院で検査されるとき、肺が三つあったり心臓がなかったり、人間にない第三の目があったりしなかった?」

「ねぇよ」

 何言ってるのかと、ものすごく怪訝そうに顔をしかめられた。

 かまわず、由良は続ける。

「じゃあ、人間なの?」

「人間かどうかは知らないが。あいつらのする「検査」で、人間と違うところはあんまりない、と思う」

 すぱりと切った爪が、たまに黒いアレになるような気もするがと、不穏なことを呟いて、梓は肩をすくめる。

「そんなこと聞いてどうする」

 どうするつもりだったんだろう。

 由良は首を傾げる。

「梓は、人間として暮らしたい?」

「は?」

「それとも……」

 解放されたい? 問いかけてしまえば、答えを聞いてしまう。聞いてしまったらもう、梓の意志を、尊重しなくてはいけない気がして、由良は黙る。

 急に立ち上がって、玄関先の八房のふかふかした毛皮を撫でた。

 後ろで梓が不満そうな気配を出している。だが梓はもう犬ではないのだ。迂闊に撫で回せないではないか。

「梓は、ずるいよ」

「は?」

「何で人間になっちゃったの」

 なったことを否定してしまうような発言を、由良は数瞬経って後悔する。

「俺だって、何でなのか分からない」

 こわばって、けれど諦めたように静かな声だった。傷つけた。振り返れず、由良はうつむく。

「……ごめん、梓。人間になったから、こうして喋れるんだよね。犬のままだったら、手足も短いから、アレとあんなふうに戦えなかった。夢の中でも、私を助けに来てくれたとき、犬だったら逆に蹴り飛ばされてたかもしれない」

 考えると胃がぎゅっと縮む。久々に痛い。

「最近ずっと怖かったんだ。いつか……梓がいなくなるって」

「……は?」

「梓がアレと同じものでできてて、犬だったのが人になったのなら、いつか、またぜんぜん別のものになって、喋れないしかき氷買ってきても食べられないし、撫でることもできないものになっちゃったりするかもしれない」

 梓が言葉を選びかねて、しばらく待っている。それをいいことに、由良は続けた。

「でも、梓のことを傷つけて……梓が私を見限ったら、梓が人間のままでも、どこかへ行っちゃうかもしれない」

「……お前は、バカか」

 腹に据えかねた、という怒りを込めた声を梓に吐き出された。由良は首をすくめる。

「だって、言っちゃわないと怖いんだよ。言っちゃったら本当になりそうで怖いけど、梓が、この家のことを嫌になって、いつか飛び出しちゃうかもしれない」

「飛び出しようがないだろ。人間じゃないんだから」

「そうかな」

 そういう答えを求めて、話したわけではない。自分の浅ましい希望に気がついて、由良は羞恥で赤くなった。

 行かないで。そういう、寂しさだ。

 都合のいい――。

「いつか……私が解放するよ」

 由良は勇気を持って、口を動かす。

「あの子も、他のどろどろも、八房も、家人達も」

 そうしないと、この家の「人」がいなくなった後、あの紙切れの家人達だけであの子を閉じこめ続けて、でもいずれ中身が溢れて辺り中呪われてしまいそうだ。

 だったら、今、掃除したい。

 梓は黙っていて、その沈黙が肩に首にのしかかって、重たかった。

 由良が寝入った後、梓は小さくため息をつく。

「俺は他の誰でもない。今の俺だ」

 それで許されるものでもないけれど、過去を引きずっていても、進む他ないのだ。

「でもそれがお前の重荷になってるのなら、気にしないで置いていけばいい」

 もちろん、置いていかれるなんて、怖くてしんどくて嫌だ。梓だって、犬の頃から由良に構われて、大事にされて、それが染み着いている。今更それ以外の生き方なんて思いつかない。昔の、あんなふうに無頼に生きるなんて、今の世の中、近所では難しいだろう。海外にでも行って、あちこちで喧嘩したり用心棒したりして歩くのもいいかもしれないが。

(俺はどこかに、行かないとならないのか)

 それは、不思議な気づきだった。まだ胸の底で、はっきりとした形を持ってはいないけれど。

 夏休みだが、図書室は夏期講習期間中は開いていた。目隠し用に参考書と辞書を積み上げて、その陰に隠れて、由良は、くしゃみの出そうな古くてざらついた薄い本をめくっていた。

「うぅーん」

「何、それ」

 涼しげな声で、最近できた友人が、問いかけてくる。

 居場所を見つけようと働いていたはずの彼女たちは、今、何を思っているのだろう。夏の間に転校もせず真面目に講習を受けて、帰りに図書室に寄って由良の隣で本を読んでいるのは、不思議なことだった。

「人の話、聞いてる?」

「うん。あのね、アレを、解放したいんだけど」

「かいほう?」

 介抱なのか何を考えたのか、相手はきょとんとする。珍しい顔が見られた。由良は、手の中にあった草色の表紙の和本を、そっと琴葉の方へ向ける。

 琴葉は、端正な面立ちに、ちょっとだけ、目の前に蚊が寄ってきたみたいな嫌な気配を漂わせた。清い声で本文を読む。

「人の体に、怨念を埋め直す。人の体ごと燃やす」

「ううーん、殺人はちょっとな、って思って……」

「怨念?」

「うん……うん、そうなのかな?」

 炭酸がはじけているような感じで、蝉が鳴いている。野球部の練習の声の方がやかましかった。

 もう一つ隣のボックス席で何かしていた網代が、気のない素振りで発言した。

「あれだろ。誰かと喧嘩したら、ふつー、殴りあって終わりだろ」

「そうなのかな?」

「もうちょっと突っ込めよお前さぁ。怨霊と喧嘩したって、てめーみたいな奴何にもできねーだろ」

「幽霊と殴りあいってできるのかな? っていうかアレって幽霊なのかな。黒いのとは貴方たちは喧嘩できたけど、奥の間にいたものとは、できなかったよね?」

「うっる、せ」

 一瞬苛立ち、途中から図書室の周囲の様子に目をやって、網代が小声になって黙る。蝉が鳴いて、一度鳴きやんだ。

 涼やかな顔をしていた琴葉が、ふと目をあげる。

「ねえ、喉が渇かない?」

「……何か買ってこいって?」

「冷菓」

「かえって喉乾かねーかそれ」

 文句を言いながら網代が席を立つ。

 そうして、残された方が、由良に告げた。

「……普通に、相手が人間であって、聞く耳を持っているのであれば、こうして交渉の余地がある」

「今のって交渉なのかな」

 一方的なお願いというか。命令に聞こえたのだが。

「交渉よ」

「百歩譲って交渉だとして、だよ。アレにアイス買ってきてもらえるのかな」

「貴方がアイスを持っていく方なのよ」

「この前、商店街の氷屋さんでかき氷買って帰ったんだよね。うちのあず……犬? も喜んでた」

 琴葉に梓のことを話すのは、梓が黒いアレと同じように退治されても困るのであまり楽しくない。濁したら、ちょっともやもやはした。

「かき氷買って帰ろうかな。あのひとが喜ぶかも。帰るまでにすっごい勢いで嵩が減るけど。山盛りだったのが半分くらいになるけど」

「……冗談よ?」

「冗談だったの? お土産作戦」

「私は、交渉……話ができるのであれば話を、しろと言ったの。話ができるかどうかは知らない。話もせずに勝手に贈りつけて相手の神経を逆なでしても、知らないから」

 お土産作戦の提案ではなかったようだ。

 蝉が鳴いている。近くのコンビニでアイスとボトル飲料を買ってきた網代が、琴葉の端末に電話をかけてきた。図書室で飲食は禁止されているから、出てこいという話だった。窓の外を見やると、木陰から少しはみ出して、うんざりした顔で立っている。

 梓みたいに思えて、由良は何だかおかしくなる。

 梓はすっかり、人間らしくなってしまった。人間に見えるだけなのかもしれないけれど。

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