3-5

 呼ばれたような気がして、振り返った。

 何度目だろう。振り向くたびに、気力を消耗している気がする。

 自分の名前も思い出せない。


 囃子歌が聞こえている。緑の萌える、湿度の多い季節。誰かがこちらへやってくる。

 穂に花のつく量が増えた、菜っぱの葉が多くとれた、裏手の栗も実が多く付いていて、秋が楽しみだ――ざわざわと、村人達が呟いている。

 普段は収穫物を税としてもぎ取られ、冬の間自分達の食べる蓄えすら持てないことが多かった。恐ろしい冬が来る前に、恐ろしい干ばつの夏を乗り越えて、今年こそ、安全に、丸くなって眠れる日を迎えたい、と――多くの者が望んでいる。

 そんな中を、あぜ道をうねり歩きながら、囃子歌と太鼓と笛で言祝ぎながら、旅の芸人達がやってくる。

 彼らは村人に楽しみをもたらすが、同時に、不思議なことを引き起こすと言う。

 外を出歩くくせに白い面をした、綺麗な少女が、泥田に、枝つきの葉で触れて、軽い笑い声をたてる。女神のようだと歌われて、美しい娘は喜びの歌を歌い返す。

 彼らを、庄屋が指示した村はずれで歓待するはずだったが、うまく連絡がいかなかった。結局、庄屋が自らの家に彼らを招いた。

 歓待されたがいずれは去る身。

 あの村はどうだった、こうだったと、いろいろな話に花が咲いて、大人達は酒を酌み交わし、夜更けまで騒いでいる。

 その中で、ひときわ声の美しい娘が言祝ぐと、萎れかけた花も首をもたげて甦る。

(やめろ!)

 聞いていたくなくて、両手で耳を塞ごうとするが、できなかった。

 やめろ。苛立った声が、自分の内側から聞こえてくるのに、口からは出てこない。

「助かりたいか?」

 代わりに、いやに平静な声が、背後から聞こえてきた。振り返ると、それはもう一度、同じ言葉を、少しだけ、腹に落ちたふうに告げた。

「助かりたいか」

 真っ白い髪が、足下まで雪崩を打って広がっている。和装だが、どこか不自然さを感じる。今まで見えていた景色では、こんな上等そうな着物は見あたらなかった。庄屋でも、もっとがさついた着物をまとっていた。絹か木綿か知らないが、時代が違う。

(そうだ)

 自分を見下ろせば、下駄と、裾の長めのシャツがある。由良が変な柄を書いたこともある。水に濡れてもとれないクレヨン、だとかを夏休みに買ってきて落書きしたことがあった。その頃まだ由良は、犬だった梓が人間になったせいでひどく怯えてはいて、だけど梓が、押し込められていた病院から出てくる前に、はにかみながら、お土産にそれをくれたっけ。

「助かるも何も。こんなとこから出ていく、決まってんだろ」

 乱暴に言い返すと、体の震えが止まった。あぁ、情けないことに、と、自分で腹を立てる。梓は震えていたようだった。

「君の恐れは、正しいものだと思うよ。あれは触れてはいけないものだ。わざと見せて、我々を引きずりこもうとしている」

 同情を誘っている。こちらが誤っていることは確かなことで、誰だってきっと、彼女を助けてやりたいと思うだろう。あの娘は言祝ぎの力を持ち、人々に実りを授けて歩いてきた。それを独り占めしようとした庄屋が閉じこめた。彼女は荒れ狂い、呪いを抱いた。

 哀れだとは思う、けれど、決して外へは出してやれないのだ。祟る力が強すぎて。

「あんなもの、助けたいとは欠片も思わないな」

「助けたいかは聞いていない。助かりたいか聞いているよ」

「決まってる。あんたに、それができるのか?」

「私は、この家の者だからね」

「……由良の?」

「彼女の、家に連なる者だ。つまり、あの娘を閉じこめるために技術を磨いた」

 だからと、気楽な調子で男は笑う。

「いつまで私の術が通じるかは分からない。だけど、由良が可哀想だ。助けに行ってやってくれ」

「お前が……あんたが行かないのか。三船」

「行かないよ。あの子は、私を信じていないもの」

 平然と三船が答える。

「あの子にとって、私も、他の者も、閉じこめ、隠蔽するものだ。現代では、女の子だとか男の子だとか、そうした違いは何というものでもないのだろうけれどね。……それでも、共感する深さに、少し違いがあるように、私には思える。体の違いだろうか」

 そよ、と風が吹く。

 邪魔をしてばかり。ぽつりと、雨粒を落とすように少女の声が降ってくる。高いところだ。でも、思ったより近い。

 耳元にすぐさま降りてくるように思えて、梓は総毛立った。

「行け」

 三船のことを、梓は振り返らなかった。

 匂いがかぎとれない、ただの人間の鼻になっていても、空気の中にわずかでも変化がないか、息を吸い込んでしまう。

 あの、白い手の、静謐な気配が、背の肉の上面をなでて、そうして遠のいていく。まるで誰かが背後に立っていて、その熱だけを、服の布越しに、肌に感じているように、ひやひやとした空気だけが、背後にあって、やがて遠ざかる。

 あとはひたすら、駆けていった。

 足下にたんぽぽの花が咲いていた。

 あれ、と思いながら、しゃがんで眺める。

 ――は、どこだろう。こんなに広い野原、久しぶりに見る。

 胸がちくりとした。違和感はけれど、足裏にある柔らかな、春の草花の感触でぬぐい去られる。楽しくて、訳もなく鼻歌が出た。

 シジミ蝶が、ふわふわと音もなく羽を開いている。しどけない美しい羽色が、遠ざかるのを見ていた。

 ――は、どこに行ったんだろう。きっと駆け回って、鼻にも頭にも草きれをくっつけて、全身で喜びを表してくれるのに。声をあげて笑えるのに。

 ――だって、自分だって、楽しくなれるのに。

 つまらない。

 膝を抱えて、うつむいた。

「ここ、どこだろ」

 空は明るく、薄水色をしているが、どこか平板で、果ての方が絶望みたいな暗闇に落ち込んでいる。倉庫の高い空と、端の方まで電飾が飾れなかったみたいな雑さが、じわじわと不安感をあおってくる。

「梓」

 風が強くなって、由良は目を閉じる。再び開けるのが怖かった。また景色が切り替わる、それが肌で分かるから。

 それでも開けたのは、金属の音が近くでしたからだ。

 鍋とおたまを打ち鳴らすような、断続的な音がしている。

 由良は自分が、山道に立っていることに気がついた。舗装はされておらず、三人並んで歩けるくらいの幅だった。茶色のむき出しの土が、雨風でいくらかへこみ、むやみな凹凸を作っている。

 大きなものがばたばたと近づいてくる。由良は慌てて、斜面の脇にあった草むらに飛び込んだ。蜂も蛇もいなかったが、逃げそびれたコガネムシが由良の肩に止まっていた。

 誰かが道を駆けてくる。目を見開き、開きっぱなしの口からは唾液が飛び散る。その後ろから、茶色くて大きな馬が、筋肉で首を波打たせながら飛び込んできた。乗り手の男が、乱暴な声をあげる。

 由良は自分の口を押さえる。鼻息一つでも気づかれそうで息を止めた。目を塞げなかったから、一瞬目を閉じた。けれど閉じ続けることはできない、気づいたら目の前に相手がいそうで、恐ろしかった。

 見るなと、止めてくれる手はいなくて。

 ざんと、軽い音がして。目の前をまろぶように駆けていった人が倒れた。半分になっていた。片割れが斜面を下っていく。草を踏みつぶして、転がっていく。

 大したものは持っていなかったと、男達が騒いでいる。

 そのやかましいのもじきにやんだ。

 派手な着物を肩にひっかけて、ふいと男が一人現れる。何が気に入らないのか、剣呑な眼差しで辺りを見ると、思いついたように刀を抜いて一息に人を斬った。これは助からない、初めて見たけれど分かる、地面にびっくりするほどの大きな血だまりができて広がっていく。反抗するでもなく男達は皆一様に息を飲んで、ふらふらと下がり、用事を呟く暇もなく逃げていく。

 一人になった男が何をするでもなく、ただ雑草が邪魔だったといわんばかりにその辺の死体の残りを蹴り、谷底へ落とす。血が飛んだのがよほど目障りだったのか、険を増した顔が、舌打ちした。

「あ」

 呼びそうになった、愚かだったと気づいたときにはもう、それは目の前にいる。こちらが誰なのかも確かめもしないで白刃が降りおろされ、そして。

「上総ァ!」

 誰かが呼びかけ、男が刀をとって返す。

「馬はいたか」

「あぁ」

 そういえば馬だったと、男が呟く。

 人がいるように思えたが松だった、とも。

 由良のことが見えていないかのようだった。

 たまさか命を救われたのか、何だったのか。

「でも、あれは、梓だった?」

 梓と呼びかけたときだけ、立ち去る背が、由良の方に振り向いた気もした。


「それは見るな」

 背後から突き出てきた手が、由良の顔に当たる。熱い。掌は大きくて、由良の両目も鼻も隠してしまう。

「だって」

 由良は闇雲にふりほどこうとする。辺りの景色は変わり、歪んで、藍色の空みたいだった。足下に何もなくなる。

「これは、梓の、」

 振り返って、かちあったはずの、梓の目も見あたらない。

 今、見るなと、由良を止めようとしていたのは、本当に梓だったのだろうか?

 でも、熱があった。体温があった。息をしていた。由良に、見てはいけないと、気を、つかった。

 あの子は、優しいから。

 ぶっきらぼうで、冷たくて、でも昔、由良がしたことを覚えていた。子犬だった梓を拾い上げて、パンをあげたことを覚えていた。学校のグチを言ったことを覚えていて、進級した後でも同じ子どもと喧嘩をしたのかと聞いてきたこともあった。大人の男の子で、何を考えているのか分からなくて、でも、あれは梓だった。

 梓だったのだ。

「梓! 来て!」

 呼びかけは届くだろうか。

 呼ばれた気がして、いい加減にしろと思った。

 気づけば海縁を歩いている。

 寄せては返す波が、不思議な模様を描いている。

「由良」

 呼び返すと、浜の向こう側に人が立っているのが見えた。そこにいたのか、と安堵するとともに、ぞくりと背筋があわだった。

 とっさに体をひねり、浜を転がる。振り向けば異変は特になく、過剰反応だったようだが、笑えない。

 見えないが、何か、がいる。

 身構える。

 麦藁帽の少女が、忽然と浜に立っていた。

 黄色みを帯びたワンピースの裾が、風をはらんではためいている。

 口元は微笑みがあるが、帽子に隠された鼻から上がどうなっているのか分からない。

「ふふ」

 笑って、息を吐いたはずなのに胸が動かなくて、体全体の動きもどこか奇妙だ。

 こわばった自分の体を、梓は意識して動かす。

「梓!」

 今は背後となった方角から、さっきの人影が――たぶんおそらく本物の由良が、声をあげる。こっちに来いというのではなくて、注意をしろという、警告の叫び方。

 間違えたりしない。梓は素早く、見えない何かをかわす。ざふっと、砂浜がえぐれる。何度も、何度も。重たく、鉄パイプよりも太いものが、ぞふりと砂の表面をえぐる。時折、砂の下の、少し固い地面に当たって、湿って重たい音を立てる。

 砂色の砂を踏み、二転三転して梓は相手の位置を見切る。

「そこか!」

 空を切るが、指先に何か触れる。

「化け物って言ったって、つまり居るってことなんだろうが!」

 腕を振り抜く勢いで足を引き返して、何かを蹴り倒した。アレの中から出てきたときから、たぶん昔の数倍の蹴る力があるような気もする。暇なのであちこち駆け回って鍛えていたのが役に立ったのか、人間ではないからなのか。どっちでもいい。梓は、掴んだものを海へ投げ込む。派手な水しぶきがあがる。波間に何かが覗いている。ぽっかりと、水が避けられた部分があって、気味が悪い。

「……何が居るんだ?」

「梓! 大丈夫!?」

 ようやく由良が追いついてきた。ビーチサンダルに短パンで、なんだか見慣れない格好をしているが、すがめた目で見ていると、

「不審そうに見ないでくれる? 私も驚いた。髪も何か、長いし」

 そういえば由良は先日、髪を切りそろえたはずだった。今は肩を越す長さで、梓は思わず触れかけて、何の意味があるのかと思ってやめる。

「でも、誰かの見てる夢なんだったら、これも仕方ないかも」

 やけに物分かりがいい。あの、「友達」とかいう妙な女連中が来てから、由良は何か吹っ切れたようでもあった。

 怖いような、助かったような。

「さっき見た、上総って呼ばれてた人は、梓の知り合い?」

 助かってなかった。

 心臓の真裏に刃を差し込まれたように、身がすくんだ。格好悪いことこの上ない。

「……俺の名前は何だった?」

「何言ってるの?」

「箱から出たときに、お前が呼んだやつ」

「梓」

 じゃあそれが名前だろう。

 一度ぐちゃぐちゃに解体されて、その後の名前だ。それより以前というものは消えてなくならないが、混ざっているので本当に梓なのか、元になっている人間の意志が強く出て塊になってるから梓なのか分からない。

 だったら責任を取れとか恨みがましく過去の亡霊に言われたとしても、悪かったなと言ってやらないといけないし、でも亡霊を供養してやる義理もないと思う。一部分は梓はあいつで、でもあいつは溶けて消えてしまった。

 ずるくて汚くてみすぼらしい考え方だ、けれど、どうしろっていうんだ。

 由良が困ったように首を傾げる。

「梓?」

「それが名前だろ」

「……うん、そうなんだけど」

 由良は腑に落ちない様子だ。梓は強引に歩きだして話を打ち切った。のんきにしているうちに、何かは海に潜ってしまったし、あの少女も消えていた。

 いつまでたっても砂浜だった。せっぱ詰まった感で、梓は緊張するが、すぐにため息をついた。

 分かりやすい出入り口がついてない世界なんだったら、誰かが作るか、誰かが作ったのを探すしかない。

 先程、あの少女から逃れるときは、白い髪の男が場所の転換を意図的に行った。

「由良」

「え、何?」

「……三船はどこだ」

「梓が三船を呼ぶの、珍しいね」

 それどころか人の名前なんて梓は滅多に呼ばない。

 お前とかあいつとか。

 他人行儀なのか、親しいのか。

 梓は舌打ちしかける。自分のことについて考えるのが面倒くさい。由良は「どこだろう」と辺りを見回す。

「呼んでみたらいいのかな? 誰かの夢の中だったら」

 絶対に夢じゃない。

 瑠璃部の奴、ぶっ飛ばしてやる。梓は拳を固める。

「三船のおじさーん」

 由良の声が、反響しながら広がっていく。どこか木とか壁とかにぶつかって止まることもなく、すいすいと進んで、行ってしまった。

「誰もいないみたい」

「おじさんじゃないって、何度言ったら分かるんだい」

 由良の言葉にかぶさって、唐突に男の声がした。

 ここに来て何度目か、由良と梓が振り返る。

 果たして、真っ白い髪の、青白い着物姿の男が、暗闇の真ん中に立っていた。

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