3-6
*
懲りずにおじさんと呼びかけながら、由良は駆けだした。
「また景色が違う……さっきまで砂浜だったのに。何にもなくなった」
「いちいち見えているものに惑わされるから、出られないんだよ」
腕組みしていたのをほどいて、三船が由良に苦く笑う。
「だって、祓い歌であのざわざわしたのを追い払ったても、あの子が来るんだよ? すごく、……怖くて嫌な目にあったことのある、女の子が」
「由良」
笑ってはいるが、どこか険しく、諭すように三船が呼ぶ。
「同情はいけない」
「同情の、何が悪いの?」
だって、大昔の家人らが悪いことをしたのは事実だ。……由良だって、その恨みでこんな目にあうのは嫌だけれど。
「どこかで、損害賠償しないと、終わらないよ? あの子、うちが閉じこめ、」
「由良」
三船が、微笑みながらも指先で由良の口を封じる。
「あれは言葉が通じない。何百年も、あのままだ。……途中経過を見たか? 誰も彼も狂わされ、己を失って、無茶苦茶な死に方をした」
「そうなんだろうけど、……ごめんなさい、私が見たのは、庄屋って呼ばれてた人が分割削除されたところと、村の人がゾンビみたいに呻きながら這い回るところぐらいで、あとは、あの子を閉じこめるために作った箱の辺り……」
「それだけ見れば十分だろう」
顔をしかめて、三船が由良をいたわるように優しく顔や頭を撫でる。小さな子供に戻った気持ちで、由良は、三船からの、よく無事でいたという労いを受け取った。
「……でもね」
「でも、だって。子供はすぐ、そう言う」
「三船だって、子供だった頃があったでしょう?」
昔から、三船はずっと、由良に話しかけてきた。母だって三船のことを知っているようだったが、あまり会ったことがないらしかった。家の外で、三船が立っている場所を指さしたら、困ったように笑っていた。見えなかったのかもしれない。
アレへの対処法を教えてくれたのも三船だった。祓い歌をちゃんと教えたのは、三船だ。
家族は誰も由良に、戦う術を教えなかった。それでいて、祓いができるようになって以後、家人らは容赦なく、由良を、由良にしか行けなさそうなところへ押し込めた。
ぐちゃぐちゃした思いを振り切るように、由良は唇をこじ開ける。
「変えられないものを、変えたいの」
「ここから無事に出られるくらい、強くなってから言ってみるといい」
「私、今、何もできないかもしれない。でも、だからって何もしないわけには、いかない気がする」
「変な友達を作ったせいかな? 胃が痛くて丸くなって泣いてただけの子が、ここまでアレの肩を持つなんて」
「あの子達のせいじゃ、ないよ」
宿題だって、ここはこう解くもんだろとか、休み時間の教室で脇から言われて呻きながら解いたりしている――影響が全くないわけでもないだろう。けれど。
「いつかは、向き合わなきゃいけなかったんだよ」
「分かったふうな口を利く。子どもだからかな」
「子どもって、言わないで」
「あの子を、解き放とうとなど、思わないことだ」
「でも」
それは違うと、由良は頑是無く思う。
だってあの子は裸足だった、裸足で山々を歩き、言祝ぎ、草花に芽花を授けていった。
美しく、人の世にありながら、ひとではなかった。
人の情が分からなかった。小鳥は愛らしく歌うが、彼女の手の中でむごたらしく握られて息絶えもしたのだった。それでいて小鳥を哀れだと思ったし、人々の様子に胸を痛めもした。情があるように振る舞った。それが演技であると自分でも思わなかった。ただ、ここではこう小首を傾げるものだと、誰が教えるでもなく理解していた。
かつて己の身の上がつらかった。一所にとどまるのは、彼女にとっては人々に疎まれることだった。
旅をして、歌い暮らせる日々を大事にしていた。
己の邪魔をするものを、決して許しはしなかった。
これほどの憎しみ、これほどの恨み。胸をかきむしり、喉が張り裂けるほど叫びをあげた。それが外へ届かない。床下にはへどろのようなものがわいたし、たびたび山手の斜面が鉄砲水に見舞われもした。人々が次々に彼女の精神に汚染されて病んでいった。それでも、庄屋の家は、それなりに栄えた。
彼女を置かずとも、庄屋の家には問題がなかったのかもしれない。置いて、恨みを隠し続けてなお、倒れもしない、恐ろしい強運の主だったのかもしれないし、単なる偶然であったのかもしれない。
あるいは、元々彼女の力が、あまり、及びきらない範囲のことで、あったのか。
「違うと、思ったよ」
由良は、口を切る。そうして、三船をじっと見つめた。
三船が由良を見つめ返す。
不利益と見れば、この人はきっと私を殺すだろう。じわりと、由良の胸に不安が兆す。
「由良」
梓が呼んでいる。
きびすを返して、せっかちな太鼓みたいにランダムに鳴る心臓を必死でなだめて、由良は歩きだす。
閉じこめる方法があったのなら。
その、楔を抜いて、ほどく方法だって、あったはず。
必ず、助ける。
私のことも。私の家のことも。
あの、白い少女のことも。きっと。
*
たぶん、目が覚めた。今度こそ。
わあん、と、金属の盆を殴りつけるような音が聞こえる。炎天下の、家の庭。
屋内から墨色のものが溢れだして、瑠璃部の、夏のゼリー寄せみたいな綺麗な透明のゲルを汚染している。この闇が、由良にあの夢みたいなものを見せていたようだ。以前瑠璃部が巨大なゲルになったときは、母が歌って鎮めたし、由良が溺れそうになってもあんなものは見なかった。
今は、アレがはみ出しているのだ。瑠璃部を伝って。
「瑠璃部……! 起きてこのバカ!」
ゲルのてっぺん、上体だけ水面に出したまま、由良は瑠璃部を何度も叩く。
「食べられちゃうよ! ほら!」
あの黒いのも元々は人間とか、ネズミとか蛙とかだったのだろうか。あの少女とは別のもののはずなのに、あの子の呪う言葉を一身にまとったように、じわじわと、不気味に成長していく。
(こんなことが続くんだったら、やっぱり、おかしいよ)
由良は拳を握って、思い切って体をひねる。動かす。
わうんと、下方で声がする。
「梓!」
由良は叫ぶが、庭を走っているのは違う犬だ。八房である。普段の、暑さでべったり地面に張り付いているのとは違って、精悍な顔つきである。
黒いものに飛びついては、靄に飲まれたり投げ飛ばされたりしている。あまり強くなさそうだ。
梓を探すが、下の方にまだ沈んでいた。
「梓!」
叫んで、由良は慌てて祓い歌を歌う。ゲルが大きく波打って、由良の周りだけゲルが溶ける。
黒い靄の浸食も止まって、ゆらゆら揺れていた。
由良はようやく、ゲルの中から抜け出て、地面に転がった。
足が重たくて動けない。八房が近くに駆け戻ってきたので、指さして、引き続き母屋のアレを追い払ってもらう。
「しっかり、」
由良は自分の足を叩く。膝が笑っている。体が冷えて、でも底の方が熱い。
「しっかり、するんだ、由良っ……梓がいるよ」
呟いて、祓い歌を続けて歌う。手を伸ばすとゲルが避ける。避けさせながら、梓にたどり着いた。
「梓、起きて!」
繰り返して呼ぶと、前触れもなく、梓が目を開いた。
「え」
拳を突き出されて、殴られそうになる。驚いたのは八房も同じだったらしい、慌てて戻ってきて吠えている。
やっぱり、底に沈んでいたせいで、梓はだめになっちゃったのだろうか。
「梓……」
涙声で呟いたら、焦点があった目で、「何やってんだ、お前」呟き返された。
「梓?」
「だから、何やってんだお前」
「梓? あの、夢の中で、あの女の子見たよね?」
「そこを確かめるのか? 普通……」
寝ぼけた、悪いと、短く謝ってから、梓の手が泳ぐ。ためらった間の後、一瞬由良の頭をはたいて、掌は行ってしまう。
「さぁて、ぶっつぶしてやるか」
立ち上がり、梓は拳を引く。
「いい加減、目ぇ覚ますか成仏しやがれ!」
殴りつけた表面が大きくたわむ。それはたちまち全身に及んだ。ぶよぶよと波が打つ。それは次第に収まるのではなくて大きくなる。蹴りとばすと、瑠璃部が地面からはがれて、波打ちながら母屋に飛び込む。
「あー!」
建具を破壊しながらゲル状のものが暗がりに広がっていく。
厚みが、水位が、見る間に下がる。やがて畳のど真ん中に人型の瑠璃部が現れた。不機嫌に、曲がった眼鏡を押し上げる。
「どういうことです」
「どういうもこういうも、ねぇよ」
指を鳴らして、梓は踏み出す。ぎしりと、破壊された縁側の、ささくれだった表面を踏む。
「てめぇがクソだから、こういうことになった」
「どういう」
覚えてもいないのか。
由良は縁側に近づき、暗くてよく見通せない母屋の中を覗き込む。
「瑠璃部、あの、奥の間のひとが、どうやってここにきたのか、見なかった?」
「何のことです」
瑠璃部は夢の場面に出なかったが、あの女を見なかったのか。
「へぇ? そりゃあよかったな。ゲロになってぶよぶよしてただけで済んで」
返答を待たずに梓が瑠璃部を殴りつける。人型の瑠璃部は一撃で吹っ飛ばされ、ふすまを何枚か下敷きにして奥へ消える。
「梓! あんまり、やりすぎないで」
「うるせえ」
「梓」
呼びかける。とはいえ、由良もあまり必死ではない。瑠璃部が梓にいびり殺されることはないだろう。梓は単に、あの女に出くわして、動揺が収まらないのだろうと思う。
由良だって、体が震える。
家人達は紙切れだし、何枚か風で飛ばされた。でも紙切れに戻る前にあった家人としての姿はまた庭に戻ってきていたし、何が何だか分からない。
「私、あの人たちの名前も知らない……」
家人は家人で、固有の名称をあえて聞いたことが、なかった。
十何年も、同じ家にいたのに。
由良も引きずられていたのだ。聞かれても答えられない、紙切れの家人達。それぞれの意志があるように見えるけれど、由良の進路に口を出してきたけれど、家に帰って学校のグチを言えば面白がったり慰めたりはしたけれど、どうしたって、ずっと距離があった。全員が同じようにフラットだったのは、全員が同じような紙切れだったからだ。以前に気づいた通り。
「誰が作ったんだろう」
呟いて、いつも食事を運んでくれる、一番見慣れた女に話しかけてみる。木材を拾って片づけ始めていた彼らは、由良の問いかけに、瞬き一つせず耳を傾ける。
「貴方たちは、元が同じなの? 別の人なの? 誰が……作ったの?」
「由良様……それは」
女が、ちょっと困ったふうに眉をひそめる。笑みを口元だけに浮かべる。
「……お答えしてよいのか分かりません」
この女以外には、表情が浮かんでいない。
由良は周囲の様子にぞっとしたが、こらえて、女を見つめ返した。
「もしかして、三船?」
「いいえ……」
逃げたそうな女に、由良は顔を寄せる。睨みつけていると、女がため息をこぼした。
「……いいえ、長い年月のうちに、村で死んでも死にきれなかった者達が……奥の間の者の呪詛によって捕らえられた魂達が、行き場をなくしていたのを、紙切れに捉えたのは、他ならぬ、誰でもなく、この家の業なのです」
「誰かがやったんじゃないの?」
「特定の誰かが犯人というわけではありません。最初の一人はたまたまでした。憑いたところを見て、それが起こりやすいように整えたのは、三船様達代々の方々でしたが」
家人らは、体のないもの。恨みを抱いて死んだ者。それらがまるで人間のように振る舞い、母屋を出入りし、外で田畑を耕して暮らしていた。
「……それで、どの人も名乗らなかったの? 仕事に出かけるふりをして、紙切れに戻って消えていたの?」
「名前はあったのでしょうが、今はつるりとむき出しの、魂だけです。表情を作るのが精一杯で、後は、なぜここにいるのか分からない者も多い。この辺りの田畑ならいざ知らず、山を越えて外へ出るなど無理ですよ」
「貴方も?」
「私は、最初の方の者だからか、覚えておりますが……あれは外に出せないものです。あれを封じ込めるために、我々は残っているのです。その他のことは余技にすぎない」
(つまり、解放しなきゃいけない人が、あの子の他にもたくさんいた、ってことか)
「分かった。話してくれて、ありがとう」
「由良様」
強く、その目が射抜いてくる。真っ黒で、虹彩との境目が分からないくらい黒目が闇色に包まれている。
「由良様、どうか。どうか。同情しないでくださいませ。私たちは罪を犯したのです。とらえてはならない、人ではない者をとらえたのです。起きたものはどうしようもない、であれば、続けるしかないのです」
同情されれば、己の哀れに気づいてしまう。解放を望んでしまう。そうしたら、ただでさえ、白河の家に巣くう者を祓おうとする、庄屋の家の子達が少ないのに、手が足りなくなる。
修行の途中で息絶えた者、旅先で僧になって戻らぬ者、戻ってきてから死んだ者。いろいろあったが、村人らの大半はこの家を離れた。事情を知り、戦い続けているのは、由良と、その親(姿はないが)、叔父(遠方だが)、そのぐらいのものである。
少ない、のだ。
封じようとする、手が。
いつか、怒りを抱いたまま、あれが出てくる。
彼女は、己を閉じこめていた庄屋の家系など、知ったことでもなく、庄屋以外でも、辺り中手当たり次第に、破壊し呪って回るだろう。
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