3-4

 波をかぶってしまい、視界が暗転した。由良は手探りで、息ができる場所を探す。

 ここはどこなんだろう。

「瑠璃部の中なのかな」

 それにしては、瑠璃部に関係がないようなものばかり見ている。誰かの夢というか……由良の夢なんだろうか。どちらかというと、さっきから出てくる少女が、閉じこめられているあの人に似ている気がする。

 学校の友達が遊びに来てから後、屋敷の奥に潜むアレは、生々しい気配を持つようになった。あれほど近寄ったのは久々だった、前回は由良の母が消えた頃くらいではないか。

 あの少女は、いつも通り、部屋から這い出すことはない。だが、人が奥の間で雑魚寝しているみたいな、静かだけれど明らかに何かある、と分かる、重たさがあった。

 由良はもがく。

(邪魔しないで、梓を探させてよ)

 心の中で大声で祓い歌を歌う。由良の周りに張り付いていたものが、薄皮一枚、離れるのが分かった。

 体にねっとりと密着していたのが、ビニール袋越しくらいになった。

「かたつむりに囲まれてたみたいな……」

 呟くと、自分で嫌になった。

 あのクラスメイトから、こうした異形への対応の仕方を、少し聞いている。いわく気を確かに持てだの、うざいからどけって思え、だの、あまり役に立たなさそうだったが――今なら分かる。

「はらーい!」

 周りには鈴を持った家人も見あたらないが、耳にちりーんと音が聞こえた気がする。

 ならば、そう思いこんで、信じて、由良は歌に力を込める。

 お前は気に入らない。どうして、邪魔をするの。

 か細い声で、少女が呟く。姿は見えないが、どこかにいるらしい。

「貴方が誰なのか、はっきりとは知らないけど、こんなことしてどうするの」

 由良の声に、相手が静かになる。

 間をおいて、笑いが爆発した。辺り中に響きわたる、狂ったような嘲弄。

 耳が汚れて、考える部分が全部萎れていくような、ひどい笑い声だった。

「どうして、なぜ? なぜ! なぜだなんて、よくも言えたもの」

 急に、声が明晰に聞こえた。由良は祓い歌を忘れていたことを思い出した。慌てて歌おうとしたが、唇が動かなかった。

 するりと、上から指がおりてくる。頬を撫でられ、由良は悲鳴をこらえる。結局、出そうとしても、息一つ出なかった。


 幸いあれ、青い田には実りの花を。狩り人たちには大きな獲物を。

 歌いあげる声が、青々とした山際に響いている。仮面で顔を隠した者、素顔に化粧で様々な紋様を描いた者。素足に鈴や木切れを巻き付けて踊る者。誰もが賑やかに、歌っている。

 山道を降りてくる彼らを、山にほど近い田にいた村人が見つける。

 あぁ、今年も来たのか。

 疫神を払い、幸いを呼ぶという、彼らは芸を流す者ではあったが、彼らの進む後ろには確かに、普段咲かない花等がすぐに咲いたので、村人達は彼らを歓待したものだった。

 祭りになり、彼らはあちこちで舞い踊る。庄屋の家で宿を得て、食べ物と褒美の品を受け取る。

 つつがなく、今年も。

 真っ白い手足の、まっすぐな黒髪の少女が一人、楽団の後ろについていた。美しい娘だった。彼女が来てから、あちこちの村で歓待される率があがり、また翌年の豊作具合もよくなったのだと、楽団の連中は謙遜しながらも自慢した。

 確かに今年は幾分、花のつきがよさそうだ。穂の支度が、随分と多く、実入りが大きそうである。

 不思議なこともあるものだが――。

 楽団はそれから三日いた。三日目に、出立しようとした。

 けれどそこにはあの娘の姿はなく。

「返してくださらんか」

 困惑を隠しきらず、楽団の長が言う。

 庄屋は、あの娘は定住したいのだと言い返す。

 楽団の者らは、真実なのか考えあぐねた。そうしたことが、これまでにないわけでもない。旅暮らしの中、行き先で恋に落ちて楽団を抜ける者は、これまでもいたのだから。

「しかし、本人と話をさせてくだされ。あの娘は、望んで楽団へ来た。いろいろな場所へ行くことを喜んでいる。残りたいと、言い出すとは思えません」

「疑うか」

 態度を豹変させる数人の村人を、庄屋はまあまあと抑え込む。

「あなた方は、またここを通るでしょう。あの娘が定住に飽きれば、そのときに、連れていけばよいことです」

「はぁ。しかし」

 出立のため、外に出てから娘がいないことに気づき、そこからは屋敷に近づかせてもらえないので、娘が本当にそこにいるのかどうかすら、楽団の者には分からなかった。

 あまりごねると、互いに険悪になる。

 数日のうちにどこへ行くつもりか、楽団は庄屋に教えておいて、娘が追いつけるように気を配る。

 その頃母屋では、複数人の庄屋の家の者が、奥の間に閉じこめた者を、出さぬよう粘っていた。

「出して、ここから出して! お願い! 置いていかれてしまう」

 楽団の娘は、声を張り上げる。ここにいればいいと言われたが断ったので、村人は諦めたのだとばかり思っていた。けれど今日、楽団から離され、待つように言われて騙された後、暗がりに閉じこめられて身動きがとれなくなっていた。

「あまり騒ぐでない。悪いようにはしない、行く先々で芸を売るより、一カ所で食うにも困らず、大事にされて暮らす方がよいではないか?」

「嫌、嫌嫌嫌、いや、ここから出して」

 薄い建具を打ち壊して、手を赤くして娘が飛び出そうとする。屈強な男衆が娘を羽交い締めにして、奥の塗り込めへ押し込める。

「出ていかれては困る」

「いや!」

 頬を赤くし、怒りで柳眉を逆立てる。それですら美しい。

 娘は、己の生まれた村では、美しさ故に阻害され、歌うことで小鳥や虫を従えて恐れられた。楽団に拾われて、言祝ぎの力で触れ回って、居場所を得た。悪意にさらされ、石を投げられたこともある。夜伽の娘と間違われ、強制されたこともあるが、彼女が呪いを込めて歌うと相手の意識は彼岸へ流れた。娘は祟り神のように恐れられて、その村へは二度と寄りつけなくなった。

「人は欲深い。浅ましい」

 泣いてもわめいても、歌っても、そこから出ることはできなかった。食べることも拒絶して、泣くこともできなくなって動かなくなっていくと、無理に口に物を押し込められた。

 あぁおぞましい。人間とは。

 娘の怒りと裏腹に、その年は作物がよく実った。山を越えたところでは不作で飢饉になりかけたというのに――。

 庄屋はほとほと困り果てた。娘は口を開けば呪詛ばかり。ほんの少し、欲をかいただけなのに、これでは娘を外に出したが最後、盛大な呪いを受けそうだ。二度とは出せまい。

 いっそ殺すか、いや、実りが惜しい。殺すわけにはいかない。

 あるとき、老いた旅の僧侶が村に宿を求めた。経を読み上げ、不思議と人々の心をしんとさせた僧侶は、庄屋の家で歓待されながら、不思議なことを問いかけられた。

 実は、身内に妖しい者がおります。もののけと情を通じるような者です。できれば閉じこめて、外と交流できぬようにして、あちらが諦めるのを待ちたいのです。

 それはいけない。僧侶は慌てる。相手を見ないことには、何が効果があるかも分かりませんよ。もののけの正体を探るか、当人の意志を問うか、何らかのことをしなくては。閉じこめては何にもなりますまい。

 いや、部屋から出ないよう、隠せればよいのです。

 沈うつな庄屋の様子に、僧侶は根負けして、簡単な術を教えておいた。相手から見えなくなるだけの術。境界線を決めて、そこから人の足が遠のく術。

 私はそうした、もののけ祓いはよく分かりませんが、仏の慈悲にすがるのですよと、僧侶は心配そうに言った。術について詳しい者の名を教えて、町の名を教えて、去った。

 庄屋は家の者や他の者のうち、見所のありそうな者を選んで、あちこちに修行に出かけさせた。

 あの娘一人、閉じこめておくために。


 庄屋の家は、あの娘の恨みごととは裏腹に富み栄え、同時に、室内の闇が増していった。ぬるぬると広がる闇は、初めはただ薄暗いだけだった。けれどやがて、食事を運ぶ者、声を掛けようと娘に近づく者達を蝕んだ。譫言を繰り返しながら建具を破る者、娘を連れて屋敷を出ようとし、それを阻まれると己の腸を掴みだしてわめき、小川に駆けていって落ちて死んだ者。夜な夜な、村の各家の戸を叩いて歩き、助けてくれえ、助けてくれえ、と、低い、力のない声で願い続ける者も出た。

 作物が病まなかったのは奇跡のようだった。鳥獣も不吉がり、山へ逃れた。農作業を手伝わせる牛馬も具合を悪くした。

 作物等が高く売れたし、修行へ出した者が国のあちこちで人を助け、多くの財を手に入れたというのに、持ち帰られた人も物も、なかなか村人を救わなかった。

 様々な試みが繰り返された。

 仏の慈悲とやらが書かれた経典を手に入れ、異国の神が描かれた絵巻物も買い求めた。

 だがそれは、この暗闇に対しては、何の効果もないものだった。

 もはやこれまで。

 庄屋は、娘を解き放つべきかと腹を据えた。

 けれどもう遅かった。

 娘を閉じこめていた室内に踏み込んだ途端、庄屋は、部屋の上下左右すべてから、わっと飛び出してきた白い手に全身を掴まれ、あっと言う間にずたずたに分かたれて、そのまま消えてしまった。

 泡を食った者達は、慌てて戸を締め、それからしばらく、開けなかった。

 もののけになったのだと、庄屋の家の者はあの娘を恐れた。

 人間であったときに、部屋から出られず、そのまま部屋に縛られている。だが、いつか、自分が既に人ではなく、もしかすると外へ出られると気づいてしまったら?

 復讐されるに決まっている。庄屋は遺骸を残さず霧散したし、その後も、塗り込めに近づく者は狂い続けた。

 やむなく、閉じこめ続けることになった。

 あらゆる手段で、塗り込めの封じを強めていった。

 許さない。許さない。

 娘が低い声で呻いている。


「でも」

 自分の声が耳に届いて、由良ははっと我に返る。

 飲まれていた。自分自身を飲み込まれていたのだ。でも、自分の名前も、最近できた友達のことも、梓も、八房も、親や叔父のことも思い出せたから、頭を突っ込んでいた暗闇から、ぬうっと、頭を取り出せた。

「でもだからって、あんなものを生み出さなくても」

 何のことかと、不思議がるように、しんと間があく。

 やがてそろそろと、足下を何かが這う気配がした。驚いて由良は足をあげる。飛び上がって避けたそれは、黒い虫のような、けれど足のない、おそらく、名前をつけられていないアレである。

 ――そんなもの。

 どこからともなく、少女の、暗い声が響く。

 ――生み出してなどいない。

「貴方が作ったんじゃ、ないの?」

 ――違う。

 憑き物が落ちたように、静かな声だった。

「じゃあ、アレは、何?」

 ――お前達が作った。

「作った?」

 由良は思い返す。

 アレはいつも、内側から現れた。

 屋敷の内。箱の内。

「箱は、貴方を閉じこめるために、作られたの?」

 その技術を試すために、箱が作られ、蔵に積まれていたとしたら。

 箱の中が問題なんじゃない。中には元々何もいなかったのだ。

 この声の主を閉じこめるために作られ、しまわれた箱に、紛れ込んだもの達がいた。箱から出られなくなる術が、いったいどんなものだったのか、由良には分からない。ただ、箱の中身は、この世のものとは異質な存在になる。こちらの手に負えなくなる。アレは副産物で、それを閉じこめるために、新たな箱を作る。悪循環だ。

 ――困っているのでしょう?

 少女が親切めかして言う。

「私、いいものを知っている」

 不意に声が明晰になった。

 由良は背筋をこわばらせる。

 暗がりに、誰かが立っていた。彼女であることはすぐ分かる。けれど、はっきり見えるのは手足ばかりだ。真っ白い手足。腿から上や、二の腕より胴体側は、闇に溶けて見えなかった。

 顔も見えない。

 ただ黒髪が、衣擦れみたいに、さら、と鳴った。

 真っ白い手が、掌で鏡を支えて持っている。

「使って?」

 鏡、と分かったのは、お雛様の道具の中に、同じ形のものが入っていたからだ。

 黒塗りの、蓋のついた、手鏡。

 絶対に、蓋を開けたくない、と由良は身構えた。

 開けたくはないが、あの手は、開けてしまうだろう。

 案の定、白い手が、蓋を持ち上げる。鏡の面は歪んでおり、正しい像を結ばない。

 ただ表面に、真っ白い顔と、赤く唇が映り込んでいる。

「どうして受け取れないの?」

 透明な声音が、不思議そうに投げかけられる。

「受け取れないよ。だって、私のものじゃないし」

 そもそも、由良の母が消えた、奥の間の主のことが、怖い。

「これはすべて、貴方が、見せている夢なの?」

「いいえ? これはお前の夢、お前達の夢」

 責任をかぶせてくる、細くて優雅な声音。

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