3-3

 なんだこれ。

 手足が動かない。

 息が苦しい。

 それでも、眠気は強烈だった。

 冬の、雪山は静かで、耳の奥もしんとして、そのまま息を止めていたい。

 だが、それほど清冽な性格をしていなかった、はずだ。

 無理に瞼を開けると、辺りは急に音を取り戻す。

 蝉時雨がひどくて、めまいがした。

 近くで、野卑な叫びと、それらに虐げられる人間の、絶望を抱えた悲鳴が響いた。

 立ち上がり、億劫だったが金物を掴む。

 たまたま置いていた、先日かっぱらったばかりの長物。

「てめえら、うるせえぞ」

 抜いていないそれで、手始めに手前に立っていて邪魔だった、図体のでかいやつを薙ぐ。

 一撃で、そいつの上腕部から首の辺りが悲惨な音を立てる。

 お楽しみの最中だった連中は、青ざめて一息に静かになった。

 あぁ、嫌だ。

 嫌悪が胃を突き上げる。不愉快がそのまま、原動力となって、自分にいくらでも暴力を振るえる力を与える。

「何見てんだ」

 薙ぎ払ったはずの苛立ちが、いくらでも噴出する。そのことに自分で更に苛立つ。

 止めてくれるものもいない、もとより、自分が止められるときは殺されるときだと理解していたから、止まることもできなかった。

 これは夢だと願う、叫びが、胸の奥底にある。分かっている、このときはまだ、こんな自分はいなかった。止まれと、願う自分などいなかった。ただ獣のように。獣の方が情があろうに。

 囃子歌を歌いながら行きすぎる旅芸人らを、簡単に滅ぼし、都から流れてきた素浪人らも、見事討ち果たして川へ流した。

 血で染まった川を見て、村人がおののき、関所守が顔をしかめても、山狩りが行われても、いくらでも相手を返り討ちにできた。

 たまに人が通りがかれば殺す、そうでなければさして暴れないので、そのうちあえて殺しに来る者はいなくなった。そうでなくとも、戦があちこちに起こっていて、こちらに割くだけの兵力が残っていないようだった。


 白い面の、若い男。女の格好をしているが、一目で分かった。

 目的が手に取るように分かった。なるほど、身内を殺された復讐か。

 焚き火の前で、怒りを押さえ込んで微笑むさまは、美しいを通り越して凄絶だったが、仲間内ではそれを気づかれず、やんやと遊び騒いでいた。

「気分が優れませんか?」

 丁寧な裏声で話しかけられ、へどが出そうだ。

 別にと返し、しなだれかかってきたのでそろそろ気分が悪く、刀を抜いてひとうちに切った。

 それなりの使い手だったのだろう、かろうじて避けたが、致命傷にならなかっただけで手負いで不利になったことには変わらない。

「どうした? 毒でも何でも、使うつもりだったんじゃないのか?」

 周りが、また乱行かと怯える中で、弱い者の仮面をかぶっていた男は、ふと、隠していた短い柄の刃物を抜いた。包丁。村人が持てる、わずかな武具。

 鼻で笑い、なぜ殺しにきたのかあえて聞いてやることもせずになぶり殺した。

 心の奥底で、もうやめてくれと、目を塞ぎたくなる者が、いる。

 それはこの時代にはいなくて、今、見ている、ところに、在している。

 どうか名前を呼んでほしい。

 俺のことを。

「親方、今度は何をするってんです」

 怯えのあるもの、諾々と従うもの、反旗を翻す機会を窺うもの、それらを皆、睨みつけて、彼は奥底の叫びなど知らぬげに、笑い声をあげる。


 真白い壁、黒い屋根瓦。

 広々とした農地を耕し、高い年貢をおさめる庄屋の家は、夜更け寝静まり、犬一匹起きていなかった。

 不用心にもほどがある。

 賊は反対側の山をおりてばかりだったから、北側のこちらは手薄ということだろうか。

 バカみたいに思える。

 蔵を手当たり次第に開けて、絹や金銀を掘り出した。起きてきた者らの悲鳴と血しぶきがあがり始める。

 配下の者は、それぞれの取り分を巡って口論している。

 誰かが放った火矢が、きなくさい炎をあげ始める。

「賊だ! 決して、奥へは入れるな!」

 家人らの中に、統率者がいるようだ。

 面倒だなと思いながら、蔵の一つにまた入り込む。

 長持ちばかりが並んだ場所は、薄暗く、夜目が利くはずの自分でも、あまりよくは見通せなかった。

 本能的なものが、ぞわりと毛を逆立てる。だが恐れるべきものなど何も見あたらない。

 配下の数人が来て、長持ちを開けて回る。どれも大したものは入っていない。ほとんどが空だった。

「お、これはいいな!」

 豪奢な絵巻物は都へでも行けば高く売れるだろう。

 一瞥して、近くの長持ちに寄りかかる。

 好きにすればいい。

 あちこちで蓋が開けられる。

「何だこれ」

 不意に、誰かがこわばった声をあげた。

 夜の海が溶けたように、どろりとした液体が、長持ちの、箱の中いっぱいに満ちていた。沼のようなそれは、不思議と匂いが何もない。

 気味の悪い箱だった。

 そんなものより、他の――。

「ぎゃっ」

 妙な声がして、振り返る。さっきまで箱を覗いていたはずの奴がいない。その隣に立っていた男は、どこにもいない相手に気づいてか、悲鳴をあげる。

「ひっ、あっ、何だぁ、どうしたんだ? ふざけてんのかぁ」

 男は、冗談だろうと、暗がりで手をさまよわせている。女子供も容赦なく殺す悪漢が、これほど心細い声をあげるとは、くだらなくて切り捨てたくなる。

 その無様な姿も、一瞬で消えた。

 消えた?

 ぬるり、と、水面が動く。長持ちの中身がうごめいているのだ。

「そいつ……!」

 とっさに刀を構えるが間に合うわけもない、次々に周りが飲み込まれていく。

 最後に思ったのは、その暗い水面のことと、それにどぶりと飲まれた後の、多くのざわめく、他人の意志、声。

 また、意識が沈んでいたようだ。

 由良は、耳まで塞がれたような暗がりの中、どうにか、無理に目を開いた。

 真っ暗だが、向こうに、丘のような、なだらかな気配を感じる。

 踏み出す。

 目が慣れてくると、どうにか歩けた。

「ここ、どこだろ」

 ぽつりと、丘の上に、小さな星みたいな、明かりがある。白い光。

 近づこうとしたが、不意に振り返った。

 彼岸花が群れて咲く一帯に、誰かが立っている。

 聞こえてくるのは祓い歌だろうか。

 それとも、別の、囃子歌か。

 祭りで聞こえるような、引き絞るような笛の音が、胸底を殴りつける太鼓の音が、どこからともなく風に乗って運ばれてくる。

「誰?」

 息が、苦しくなってきた。

 由良は、拳をそっと、意志を込めて開く。指は動く。心臓が子ネズミみたいに、せわしなく脈打っている。今から走っても、どこまで、どれくらい、逃げられるだろうか。

 真っ白い光が、サーチライトみたいにまっすぐにぶつかってくる。物がぶつかるみたいいに、由良は衝撃を感じて、立ちすくむ。


 波の音。目を開けると、砂浜が見えた。吸い込んだ空気は塩っぽい。景色が変わっている。

 浜辺に、誰か立っている。薄いクリーム色のワンピース、麦藁帽の少女が、裸足でこちらを見ていた。

 手を、さしのべられる。

 由良は不意に、自分が、波の中に立っていて、片手に貝殻を握りしめていることに気がついた。

 少女は、それをこちらへ、と呼んでいるようだ。

 断る理由もなくて、由良はためらいながらも、浜に近づく。

 どくどくと、平和な景色には不似合いなぐらい、心臓が早鐘を打っている。

(どうして)

 自分は海にいるんだろう。

 なぜ、他に誰もいないのだろう。

 梓はどこ?

「どうして?」

 自分が呟いたのかと思ったら、少女の唇がそれを紡いだ。

「どうして、それをくれないの?」

 だって、これは。

 ただの貝殻で。

 由良には何の思い入れもないものだ。

 でも、彼女に、何かを、与えてよいのだろうか?

「貴方は誰?」

 呟くと、高笑いとともに、少女が背を向ける。ぐるんと、世界の上下左右が入れ替わるような浮遊感。

「なあに? 自分達が起こしたことも、知らないの?」

 神経に障る、ひどい笑い声だった。

 可憐で、愛しい少女だと、一瞬でも、さっき思っていたことが恐ろしくなるぐらいに。

 ひどかった。

 笑い声が聞こえる。

 波間に顔を出すのは、骨が折れた。

「くそ」

 吐き捨てて、抜き手を切って泳ぐ。だが、水面は重たく淀み、ぬるついた呟きにまみれている。

 いわく――私が子供の頃に子供大人犬虫が頭からかじって尾が何だこれは出られない痛いこわいようおねえちゃんぶつぶつぶつぶつぶつぶつ帰りたいやめてくれえわしが何を黙れ黙れ黙れ帰ったら俺はあひゃああ嫌だ嫌だ嫌だぐちゃりぐちゃりぐちゃりやめろ痛い境がない気持ち悪い離れてくれ、

 べりべりと全身から引きはがすように、波を引き裂いて離れようとするが、渦を巻いた誰かの思念が、そうした動きを考えつくことすら阻んでくる。

 俺は何をしていたっけ。

 すぐに波に沈む。どうせ顔をあげたところで、桃色の不気味な空しか見えやしない。

 俺は誰だ。どこにいた。そんなまとまりのあることなど考えられない。だって私は尻からかじられている最中のカマキリであったりかえりた何だこれはいよううっかり手首を食わむぎゃぶちゅれた人間であっぎちぎちぎぎたりこぼれ落ぶう腹が減ったちた羽虫であびゃあぁあったり残飯が食にゃああいたあぁはあああいよう交ぶつぶつぶつ尾生まれふあある死ぬ早く外そとそとそとああぉあ痛いあああぉ殺しあはあて殺して目障り人殺しぃいいああぉおおおおおおなかすいたようぶぶぶぶぶぶぶぶびびびびびびびびびび、

 まれに、人間であろう思考がかいま見える。誰かの人生や思考が直接、鮮やかに切り込んでくる。けれどほとんどが虫や動物で、ひどいときにはどうやら藍瓶に沈む藍のようでもあり、脳の内側にぬかどこを混ぜるような手つきで誰彼ともなくぬるりぬるりと圧をかけてこねまわしている心地がする。

 脳は柔らかいものだ。

 容易に素手で押しつぶされ、ぬちゃぬちゃと音を立てている。

 何も考えられなくなる。

 誰かが、この渦の中にない声で呼んでいる。

 ……さ。……さ。……こ……るの。

 あぁこんなことは実際にはなかった。そうだ、なかったはずだ。

 誰にも、呼ばれたりはしなかった。

 自分はどうして、ここから抜け出したんだっけ。

「梓!」

 はっとしたときにはもう、あの沼のような重たい波は、どこにもなかった。

 それでも肌を這う羽虫がいるような、ぞわぞわとした違和感は残されている。

 何だ? 暗がりに、一人で寝ころんでいたらしい。電気をつけていない母屋だ、間取りは分かる。

 夢を見たのか?

 ――どこから、どこまで、だ。

 梓は、腕をぞろりとなでる。確かめる。自分の輪郭がどうなっているのか。

 近くのふすまが開く。誰かが立っている。

 着物姿で、誰も手入れをしないせいで伸びっぱなしになった髪と、対照的につやつやと光る唇が、見える。その、白い手。

 違う。由良じゃない。ここは現実じゃない。ありえない、だって、それは。

 悲鳴をあげかけた口を、梓は必死で取り押さえた。

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