3-2

 夢を見る。

 夢に決まっている。

 血が足下を濡らし、土がまとわりついてくる。

 暗くて、辺りははっきりとは見えない。

 唇の端が切れているらしく、遠慮がちに痛みが走る。

 ここは、どこだ?

 手に持っていたはずの得物は、どこかにやってしまっていた。血と脂で塗れた手では、滑ってしまい、もはや鉈も刀も鍬さえも、武器として持てないだろう。

 どうして、何を殺した後だ。

 獣の臭いはしていない。猪を倒した後ではない。

 闇に慣れ始めた目が、おぼろげなかげをとらえる。棒のようなものがいくつか、ばらばらに地面に転がっている。棒の先に細かな分かれ目。爪もある。誰かの頭もある。人間の――。


 かすかな歌声が呼んでいる。

 その声は、たどたどしく、追い払われるものの気を、拒絶へ傾かぬように導いている。

 祓い歌については、攻撃する意図がこちらを向かなければ、瑠璃部も梓も被害を受けはしない。それでも気持ちのいいものではない。皮膚を装った表面が、ちりちりと浮き上がるような感覚。まっとうな人間には、本当に何も害がないのだろうか。

 田植え歌で慰みに遊びながら働いていた昔の人々のように、ただ歌うようなだけで、箱から生まれたアレらを祓う。

 この、暗がりから出たかった。けれど、声の歌う方へ行けば、自らが祓われる可能性も捨てきれない。あるいは、この姿で出て、相手に拒絶されたときに、自分が、何を、するのか、分からなくて、恐ろしかった。

 空虚な感じのする、恐ろしさだった。


 瞬きする。腹の辺りが重たい。

 ちらりと見やる。天井の蛍光灯は煌々としているが、外はまだ暗かった。

 白い手首が、梓の胴に乗っている。

 一瞬、あの、奥の間の「手」かと背筋を冷気がかけ登ったが、それにしては温かい。

 少し頭を持ち上げると、由良が、梓にもたれ掛かって眠っていた。

 ため息をついて、梓は頭を畳に落として、天井を見上げる。

 心臓に悪い。アレと由良を間違えたのも気分が悪い。

 昼間は外につながれている八房が、部屋の片隅に重ねた布の上で丸くなって、休んでいる。

 あいつも、酷い奴だった、はずだ。

 もはや誰なのか、面影一つないけれど、梓はあいつを疑っている。自分の記憶や勘が本当に自分のものなのか、他人と混ざるうち手に入った別人のものなのか知れないが、あいつは信頼に足らなかった。

 飯を食ううち、犬として可愛がられているうちに、懐柔されるとはあまり思えない。

 にこやかな顔をして、山道で出くわした娘達を惨殺した輩の中に、人であった頃の八房らもいたような気がして、底意を疑っている。

 それで言うと、梓も疑われているのかもしれなかった。

 どれほど血にまみれても、誰にも負けはしなかった。そんな記憶が、ある。

 由良の学校の行き帰りに、見送ったり町中を通ったりして、目つきが悪いせいか絡まれ、全員をのしたこともあった。警察沙汰にも、逆恨みの奴らに集団で襲撃されることも、今のところない。人間じゃねえ、という震えた声が、たぶん、彼らが、喧嘩したこと、それに負けたことすら忘れて、なかったことにしようとした原因を物語っている。

 まぁ元々、この辺りにそこまで悪いチンピラもいなかっただけかもしれないが。


「今日はね、遊びに行ってきます」

 胸を張った由良に、家人らは「この前の人たちですかね」「よかったですねえ」と口々に喜びの意を伝える。

 梓は面白くない。ご飯と味噌汁をかきこんで、由良を見やる。

 あいつらは危ない。攻撃力が、多少ある。無論、梓であれば腕力一つでひねりつぶせるのだが。

 由良は梓の視線に気づいて、

「眉間に皺」

 どうしたの、と、自分の眉の間を指さしてこちらに訴えかける。

 知らないとばかりに、梓はそっぽを向いた。

「変だね、梓。何か、私、した?」

 してない。してないからむしろ苛立つ。

 庭で八房が残飯を貰って喜んでいる。ペットフードを食べさせろという家人もいたが、野菜と肉を適度に混ぜた、犬向けの方がよさそうだという説が現在のところ勝っている。

 八房が平和そうな顔をしているので、鼻っ柱をひっぱたいてやりたい。

 剣呑に庭を睨んでいると、

「外、まぶしいねー。ほんと、夏って感じ」

 暑いことに不満なのかと誤解した由良が、のんびりと言う。

 母屋の庇から少しでも出ようものなら、じりじり焦げるような熱の餌食だ。八房は木陰にいるが、そのうちゆだる。ざまを見ろ。

 母屋に小鳥が飛び込んでくる。

 姿はあっと言う間に暗がりに溶けて見えなくなったが、小さな羽音がぱたぱたと鳴っている。

「外に出さなきゃ」

 由良が立ち上がって小鳥を探す。

 ぱたぱたと、時折ふすまなどの建具にぶつかる音も聞こえる。

「瑠璃部。手づかみで取っちゃだめ。かわいそうでしょ」

 真面目な声がするので、梓は行こうと思ったが、立ち上がるのも面倒くさい気もして、体を傾けて向こうの部屋を覗き込んだ。

 瑠璃部がこちらを向いて立っている。背を向けている由良が、瑠璃部に対して手を突きだした。

「外に放してあげて」

「鳥を? 冗談ではない」

 ことさら大きく口を開けて、瑠璃部が小鳥を、喉の奥に押し込んだ。羽が口いっぱいに張り付く様を想像してしまって、梓はげんなりする。小鳥臭いので生はおすすめしない(犬の頃、遊びで雀は捕ったが、あんまりおいしくもなさそうですぐに吐き出した。雀は慌てて飛んで逃げたものだ)。

 瑠璃部が、鼻で笑い飛ばす。

「むしろ、こんな小物では何の足しにもならない。また「お友達」でも連れていらしたらどうですか? さぞかしやかましい具材になることでしょうよ」

「瑠璃部、調子に乗ってる」

 由良が顔をしかめている。

 耳を澄ますと、まだ、あの歌が聞こえない。

 原理は分からないが、由良の母親はある日、奥の間の手前でいなくなり、その後は歌だけが聞こえている。

 本当に本人が生きて――生きていると表現していいのか分からないが――いるのか。蛹の中身みたいにどろどろに空間に溶けているのか。それならあいつらは、蝶みたいに固まって、蛹の背を割ってぬうっと外へ出てくるのか。あるいは。あの歌自体がもう。本人ではなくて。擬態した、アレだったら?

 見分けるすべはほとんどないのだから。

「瑠璃部」

 返しなさいとでも言うように、由良が手を差し出す。今吐いたって砕かれた小鳥が生きたまま出てくるわけもない。

 違った。帰れと言うようだ。

「たくさん、本買って帰ったじゃない。大人しく読んでてよ」

 瑠璃部が顔をしかめる。

「お断りです。文明の狂った時代で、くだらない遊びに費やす暇など――」

「瑠璃部、暇でしょ」

 暇は暇だろう。

 アレの対策以外、することなどないはずだ。日がな一日、母屋に閉じこめられており、出ることはかなわない。

 梓と八房はその辺を駆け回れるが(八房は念のため、首輪と引き綱がついたままだが)瑠璃部には無理だ。

 ぶつぶつと怒りの文句を吐きながら、瑠璃部が部屋の奥へ引っ込んでいく。

 その輪郭が青く歪み、端々が半透明になって透けている。ぶよぶよと崩れていく。

 由良がため息をついた。

 瑠璃部が出かけられない理由は、喧嘩早いからというより、戦闘状態に入ると形態を保てないからである。

 八房でさえ、犬のまま駆け回り、アレが出れば戦って(大した力ではないが)戻ってくるのだが、瑠璃部はどろどろに溶けてしまう。溶けても戻れるのはどういう仕組みなのか分からないが。

 由良が縁側まで戻ってくる。途中で振り返って、大きな声を出した。

「瑠璃部、だめ!」

 フラストレーションが溜まっていたのか、いっさいためらわずに、瑠璃部の体面積が膨れ上がる。息つく暇もなく、それは母屋から溢れだす。取り込まれた家人達が半透明のゲルの中でもがいている。祓い歌で切り開いては中身を取り出す家人の姿も見える。

 由良は担ぐように梓に引きずり出されて、庭先に立っていた。

 梓が引き続き瑠璃部の端を殴るが、たわんだ肉(ゲル)がびよんと膨れて伸びては、元に戻る。あまり効果が出ないようだ。

「これ、アレに真似されたら困るね」

 ぼんやりと呟くと、梓が、嫌そうな顔をした。

「ごめん。不吉なこと言った」

 言っ、の途中で、ゲルが平たく広がり、由良と梓は為すすべもなく飲み込まれる。

「梓っ、」

 ずぶりと、水面から顔を出す。表面の弾力のせいでなかなか手足が外へ出なかったが、一度破れると、どうにか顔も外に出せた。

 だが梓がいない。半透明なのでよく見える。下方に沈んでいるのが分かった。

「梓!」

 手足をばたつかせてみるが、近づけない。このままでは窒息してしまいそうだ、由良は辺りを見回すが、家人らは反対側で騒いでいるし、八房は下の方で瑠璃部に噛みついているが、噛みついたまま上下に揺さぶられているだけで何ができているわけでもない。

 外に出よう。由良はもがいて、どうにか、ゲルの端の方に移動する。が、急に体が浮力を失って沈み、ごぼごぼと息を吐いてしまった。潜ったまま、闇雲に手を突いて、壁にぶつかった、と思ったところに爪を立てて、噛みついて引き裂いて、どうにか顔を出す。

 地面に足が着く位置だ。

 這い出して、母屋に戻る。

 武器になる、鏡を探した。

 手鏡を探しながら、由良は声を放つ。

「八房っ、梓のいるところを破って!」

 八房が一瞬、眉間にうねうねとした皺を刻んだが、由良が急いでと言い含めると大人しくいったん瑠璃部を離し、ぐるぐる辺りを回ってから、場所を見定めておもむろに噛みつき直した。

「あっ、た……」

 鏡を掴み、由良は飛び出す。

 燦々とした日差しが、庭石を焼いている。裸足の足裏がひどく痛んだ。人魚ってこんなふうに痛みを耐えたのだろうか。

 いくつか持って出たのに、瑠璃部の触手に吹っ飛ばされてばらばらと落とす。

 割れた鏡の、破片をシャツの裾で掴んで。

 光を集めて、由良は八房本人には当たらないよう気をつけながら、八房が噛みついている辺りに当ててやる。

「梓っ! いつまで、寝てるの……!」

 生きているだろうか、青ざめた瑠璃部のゲルの陰で、梓の顔色なんて分からない。

「梓! 起きて!」

 お願いだから。

 祓い歌の文句も思い出せない。

 八房が放り出されて吠える。

 片手で庭石を拾って、由良は投げる。

「叔父さんも! お母さんも! 三船も! 助けてよ!」

 叔父が、アレを外に出さないために独自に置いていった石が、瑠璃部に当たる。じゅうと瑠璃部の外辺部が溶けるが、だからといって中身が全部こぼれ出すということもない。

 由良は涙目で、空を仰ぐ。

 アレ自体よりも、アレを食らって膨張する瑠璃部のほうが、今は厄介だった。

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