第三章
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第三章
*
「髪を切ろう!」
唐突に、はさみを持って手鏡を見ていた由良は、声をあげた。
夏の終わり、梓は縁側にいてはっきり事情が分からなかったが、何かが起きていた。
どうやら由良は、アレにやられたりして不揃いになった髪を疎んでいて、何とかしたいと思っているようだった。
「自分じゃうまく切れないな」
立ち上がって、どこかに電話をかけている。
「うん、どこかいいところ、ないかなって思って」
「何であたしに聞く」
「だって、聞けそうな人を考えたら、そうなっちゃったっていうか」
舌打ちが聞こえる。
廊下の会話が縁側まで届くくらいだから、相手の声も相当大きい。
「こっちは、転校生やってんの。分かる?」
「また転校するの?」
「そうじゃねえし。親の都合って言ったって、二、三ヶ月ごとに転校してたら悪目立ちすんじゃねーの。一学年くらいはいるっつうの」
「親の都合で転校、って言うんだ?」
「そういう話はしてねえよ。転校生だから、お前よりここの辺りのこと詳しくないっつってんの」
「でも、いつも髪とか、手入れが行き届いてて綺麗だし」
ぐちゃぐちゃ文句を言い返していた電話の向こうの相手は、やがて乱暴にいくつかの単語を並べて、電話を切った。
ふんふん聞いていた由良は、次の場所に電話をかける。
時間の約束をしてから、受話器を置いた。
どうやらもう、誰かに電話したり、電話越しに喧嘩をしたり、しないようだ。
本当に、何してんだあいつは。
「あ?」
翌朝、天気がよすぎて目が痛くなるほどだった。朝食を採ったと思ったら由良がいなくなった。
昨日、「友達」に電話をしていたから、会いに出かけたのだろうか。
犬だった頃みたいに何でも話すわけでもないから、梓には気詰まりというか苛立ちがあった。
どこへ行ったのか分からないと、アレが出てもぶん殴れないではないか。一人にしておいていいのか?
しかしよく考えると、子供の頃から、由良は妙なところがあった。アレに出くわしても、害されるでもなく一緒に川原の土手に座っていたこともあったし。一人でも案外、大丈夫なのかもしれない。
それにしても。
ポケットに片手を入れて、廊下をうろうろしていると、「家人」と呼ばれている者らが「熊みたいにうろうろしないで」と声を掛けてくる。それ以上は踏み込んでこないのは、梓が「何」かを知っているからだろう。
梓も「家人」たちはあまり好きじゃない。嫌いだ。
顔をしかめた拍子に、屋内の、ふすまが開け放たれていることに気がついた。
またあいつ、奥に紛れ込んだのか?
「おい」
暗がりに声を掛ける。
ひんやりとした畳の感触が、足裏に、湿った不安を運んでくる。
もし。もしも由良が。
縁起でもないし俺が考えることでもない、と梓は乱暴に吐き捨てて、どうやら誰もいないらしい、何か潜んでいそうな濃密な闇に背を向ける。
「ん?」
何か引っかかった。
だがこのときは、あまり気にしていなかった。
梓にもそれなりに用事がある。
この家の周辺は山ばかりでその存在感に圧倒されがちだが、いくらか歩いていくと町にたどり着く。通りに面した、昔からある衣料品店や食料品店の前を通り過ぎて、梓は、山際の白い(今では経年のため灰色になった)病院の建物に足を運ぶ。
自分から行くのは気が進まない。だが、定期的に検査しないと、また箱に放り込むと言われている。あの、有象無象が一緒くたに布団や風呂に詰め込まれて、その上脳内が煮えてぐちゃぐちゃになるような、あれに戻るのはうんざりだった。
あの中に入ったのは自分のせいとはいえ――あの凶悪なものを作成した家も家だ。
中堅どころの医者の診察室から出て、脈があるとかないとか、細胞がどうのこうのいう段階を通り過ぎてただ定期検診に通う健康な老人みたいに検査されて、病院から吐き出される。
何か意味があるだろうか。
子供が道路に飛び出しかけていたので、ちょうどぶつかったし、止める。
母親が感謝の言葉を言おうとしたが、途中でびくついて、子供を呼び寄せる。
梓は人を睨みがちで、視力に問題はないので性格や癖なのだが、たびたび人を恐れさせる。
実際、絡まれた連中のことは袋叩きにしてゴミ箱に突っ込んでいくわけで、危険だと判断したその辺の親は正しい。
梓は山陰になって薄暗い、駐車場脇の道を進む。医療に必要なはずの金も保険証も身分証も持たずに、風任せみたいに歩いていく。
最近の由良は変だ。昔から、よく分からない子供だったが、変な「友達」を連れてきたりしなかった。それでも、春先にかけて、「受験勉強」をしていたときよりはマシになっただろうか。話しかけても聞いてないし、せっかく、受かったよ、と頬を紅潮させて帰宅したのにその後あの黒いアレらのせいで別の学校に通うことになり、どんよりと鬱屈した様子で、普段にまして具合が悪そうだった。
変な「友達」は来たけれど、まぁ、由良自身は元気そうなのでよかったのだろうか。
歩いているうちに、商店街に出る。
由良達はバスに乗ることが多いが、排ガスと振動が鬱陶しいので、梓は歩く。
ショーウインドウを見るともなしに眺めていると、少し前までは薄い色の薄い生地の服がたくさん並んでいたのに、だんだんと薄暗い、広葉樹林みたいな服が増えている。山の色合いと少し似ている。山というか、山に咲いている花の色というか。
歩きながら、ふと我に返る。こんなものを穏やかに、他人事みたいに見て歩くなんてばかばかしかった、はずだった。
記憶の中では、路面は舗装されず、野山のむせるような匂いの中、土と木と、鉄の崩れる音、血、切りとばされた首や胴、崖からまとめて放り捨てられた手足、怒鳴り声、やかましい連中を一太刀で黙らせ、奪ったものを下っ端に売りに行かせる、これが日常で。
ばかばかしい。
口ずさむ。
あれは俺じゃない。箱に詰め込まれたとき、あいつらはみんな、一緒くたになった。切り殺された連中よりももっと惨い悲鳴をあげて、境目からぐちゃぐちゃに溶けて崩れて、それでもしばらくは自分や他人の意志が聞こえて。
きっとあれは俺じゃない。
淀んだ、黒い雲が胴回りにまといつくような心地で、周りが見えづらい。
(俺は)
でも、あれはきっと。
(俺の)
――梓。
場違いに明るく、名を呼ばれた。
はっと顔をあげる。辺りは、午後とはいえまだ日も高い。人通りもそれなりにある。
ただし、夏休みとはいえ、学生らは盆地を飛び出して海に向かい、このちっぽけな町にはあまりいない。
出し抜けに梓は、吹き出すように笑う。
何だ。気のせいか。
足がまだ、重たく、引きずるように、思い通りにならない。
由良に持たされていた、何枚かのバス回数券が、ポケットにある。ほとんど使うことはなかったが、乗るべきだろうか。
「ごめん、待った?」
「随分と」
近くの書店から飛び出した少女が、連れに謝っている。
「でも、いいじゃない? お母さんが、私が見張ってればいいよって、許してくれて、だから来られたでしょ?」
「恩着せがましいのは母親譲りですか。どうにも使えない親子だ」
「でも」
少女の視線が、連れの青年の持つ紙袋に注がれる。
「本、買ってる」
「これは資料です」
しばらくして、梓は再び我に返る。
あれは由良ではないか。肩を越していた髪は、ばっさりと、首筋が露わになるほど切りそろえられている。朝は被っていなかったはずの帽子が、頭頂部を覆い隠し、顔も見えづらいが、由良だった。
何であいつと?
眼鏡越しに、世の中を疎むように睨むのは瑠璃部だった。
用心棒であれば梓で十分ではないか。なぜ、部屋から出られないはずの瑠璃部を、連れて、外にいるのか。
そんなに親しくもなかったはずだ。瑠璃部は家人であれ何であれ、基本的には気に入らないから皆殺しにする。屋敷の奥へ行くのは、掃除の連中だけで、それも祓い歌を歌いながら入っていく。瑠璃部と、その他のアレ避けである。何もなしに行くと、食われる。
それを外に出すのは、あまりに危険ではないか。アレを出してはいけないのに、なぜ瑠璃部を外へ?
ぐるぐると思考が空転する。
追いかけて声をかけることも思いつかないまま、二人は、来たバスに乗っていってしまう。
排気が拡散し、その気配が見えなくなるまで、梓は、疑問符に埋め尽くされて立っていた。
先に帰ったはずの二人よりも、梓の方が先に家に着いていた。やむなく、離れでふて寝していると、由良がのんきに帰ってきた。
「もう、ごめんごめん、置いてったからすねてるの?」
そういう、ばかみたいに的がはずれているところが嫌いだった。
ばかみたいに。
由良の掌が梓の背に触れる。熱くて、鬱陶しくて嫌になる。
どうして、こんなに嫌なのか?
「あーずさ」
はい、これ。
がさがさしてうるさい、白いビニール袋を差し出された。
そんなものに田圃の蛙とかおたまじゃくしの終わりかけとかゲンゴロウ入れてこられても、鼻先をつっこんで驚いて遊んでやったりしない。梓が睨みつけると、由良があれ? と気にした様子もなく袋を揺さぶる。
「梓、氷菓子気にしてなかったっけ?」
してない。
今年の夏は暑いから、水をかぶったり日陰にいるだけではしんどくて、アイスだの冷やし中華だのいろいろ食べたし、離れのクーラーも全開にしてごろごろ寝たが、お土産にされるほど氷菓子なるものを所望した覚えはない。
「ごめんねー」
謝るということは、自分に非があると認めることだ。
梓は、母屋にいるはずの奴に出くわしたら殴る予定で、そうすると母屋の家人に攻撃されかねないので、結果的に離れにいるわけだが。
名前を出すのも嫌なのに、
「……誰かと買いに行ってきたのか」
「え? うん。梓にね、お土産にしたかったんだ。だって梓、私が髪切ってもらってる間に待ってるとか、嫌でしょ? 瑠璃部が暇そうにしてたから、待ってる間に町で遊べるよって釣ったの」
「釣ったのか」
「うん。そう。アレが出たらどうするんだってうちの人たちは言うけど、それなら学校とか私に入り込ませて探させるのって、おかしいよね? まぁでも、髪を切ったら後で一本残らず燃やすように言われて、そんなの自分じゃ回収できないし、後で瑠璃部にやってもらったんだけど」
髪を経由して本人に影響があるとかいう、呪術の話だろうか。
「普段歩いてるときとか、一、二本は落ちてると思うんだけど」
「量が問題なんじゃないか?」
つい話を返してしまった。
「うん。そうかも。梓だと、そういうの難しいでしょ? 瑠璃部なら、ぶよぶよの半液体に戻って一部をゴミ取りに使えるから、一緒に来てもらったの」
難しいでしょ、のところで梓は苛立った。俺だって別に。犬であれば、一緒に散歩に行くなど造作もなかった。
「梓、怒ってる?」
無視すると、背中を押される。
「ごめんってば」
謝るほうが、許されるのが当然だと言わんばかりなのは何故なのか。
「氷、溶けちゃうよ?」
今食べろって言うのか。
確かに、今日は窓を開けて夜風を入れているが、クーラーを使っていないので湿気も寝苦しさもひどい。むしゃくしゃして、空調だとか何も考えずにふて寝していたので、今になって暑苦しさを覚えた。
舌打ちして、起きあがる。
氷菓子を受け取った梓に、由良が笑った。
「溶けないうちに食べてね」
いびつだった髪の先が揃っている。あの、バスに乗り込む姿を見たが、やはりあれは由良だったのだ。髪がとても短くなっていた。
見分けがつかなくて、一瞬混乱する。
由良は梓の頭を撫でようとしてか(犬の頃、よくそうされた)、真剣な顔で手を伸ばしてくる。睨んで避けた。
「ちーがう、あげたんだから、取ったりしないよ」
そうじゃない。
置いていかれたことにすねる気持ちは変わらなかったが、いくらか心が軽くなった。
暑かったから、だろうか。氷菓子が梓の頭を掃除して、うだる思いを押し流した。
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