2-9
*
あの日、二人が帰宅してすぐに、由良が確認したことがある。
薄暗い廊下で、由良は置き電話を手に取った。相手は昼間、家にいるだろうか。出歩いていないだろうか。
(間違って、もう一人が出たらどうしよう)
切ろう、と覚悟を決めたそのとき、受話器から、柔らかい、女性の声がこぼれ出た。
「はい」
「あっ、叔母さん」
電話口で、由良は少し身を縮ませる。
若い叔母を、おばさんと呼ぶのが申し訳ない。だが、名前で呼ぶのもためらわれた。
相手はかすかに笑って、周りに誰かいるの? と聞いてきた。由良があまりに、萎縮した様子だったからだろう。
「ううん、いない」
ここ最近、家人らはいくらか静かだ。
といっても近場の山に出かけたりして、山仕事や畑仕事に忙しい。近所のお祭りの準備もある。アレの退治もある。
「変わりましょうか?」
叔父の名をあげて問われ、由良は慌ててそうじゃないの、と叫ぶ。
「叔母さんに、聞いてほしいことがあって……」
「なあに?」
「……うちにいるモノ、叔母さんは知ってるよね?」
「そうねえ。梓くんが犬だったことは、聞いて知ってるけれど」
おっとりと、叔母が答える。
「うちの、あのひとが、小石を集めているから、変な趣味だとは思ったのよ」
石の、まじないだ。叔父はこの庭にも、あちこちの小石を投げ入れている。あるべき場所から動かされた小石は、帰りたいとわめいたり、嘆くあまり辺りに呪いをかけることがあると、いう。庭に出ると時折ぞっとするのは、そのせいだろうか。といっても、叔父が小石を積むのは、家の中のモノを、外に出さないための、外との境界を作る意味がある。
何が込めてあるのか知らないし、本当に意味があることなのか、由良には分からないが――。
「叔母さんは、そういうの、信じるの?」
「信じる?」
吹き出すように、明るい声がする。
「そうねえ、田舎町の、古い因習みたいなものだと、始めは思っていたけれど。闇を見る目が冷たかったり、羽虫に対して本当に情がなかったり、このひと大丈夫かしらって思うこともあったけれど、まぁ結局、似たもの夫婦だったのかしら。平気よ」
何だか平気じゃなさそうなのだが。叔母が気にしていないふうなので、いいのだろう。たぶん。
「じゃあ、叔母さん自身が、変なモノが見えるっていうことはないんだ?」
ひっそりと叔母が笑う。その、含み方がまるで同級生のあの子のようで、今の由良には怖い。
「実は、変なモノが見える同級生がいるんだけど」
「あらあら」
「うちに来て……その、何か見たんだよね」
「瑠璃部くんとか梓くんとか?」
屋内にいる、座敷にあがる者を容赦なく壊そうとする眼鏡の青年を、叔母は知っている。由良の近くにいる梓のことも。犬から人へ、変わった現場を、見ていたわけではないから、同一人(犬)物だとは思っていないのかもしれないが。
「それもあるけど」
「そう。それで?」
問題を感じていないらしく、叔母は小首を傾げる様子だ。
「その子達に……奥の間に、行かれた」
由良は切り込む。叔母が、そう、と、少しだけ遠く呟いた。
「あの手のところへ、行ったのね」
「あれのこと、知ってたんですね」
「知っていたわね。きれいで、可哀想な声がするから、だあれ、ここから出してあげる、って、行ったことが私にもある」
ごく自然に、気負いがなく叔母は答える。
「でも、あれが、異質なものだとは思うけれど、由良の言う変なものかどうかは、分からないわ。幽霊だとか、そういうものと判断するよりは、あれは手で、瑠璃部はひとを殺したがりで、梓は、暴力的な人間がきらい。そして犬だっただけ」
梓のあれは、攻撃されると喜んでやり返すという、ただの喧嘩上等なのだと思うが。
由良は叔母の言葉を内心で復唱する。
確かに、そこだけ切り取れば、超常現象には思えないかもしれない。あの部屋の、ふすまを開け放したことがないから、手以外の部位が、ついていないというのを確認したこともないし(だから、そこに普通の、女の人が座っていて、監禁されているだけかもしれないし)(それも普通ではないが)、ただ単に異質なだけかもしれないのだ。狂気におちいっただけの人かも、しれないと。
(でも、それでは、)
一般常識でも理解できる範囲の話になってしまいそうだが、しかし、
(叔母さんは、箱を、)
見ていないのか――?
黒い、波のようなものを。箱いっぱいに、ひたひたに満ちる、恨みの塊のようなアレらを。
(見ていて、知っていて、これなのかも)
そう考えると、叔母は恐ろしいほど懐が深い、というか。
いっそ怖い。
叔母が口を開き直す。
「その子達は由良のお友達?」
「え、うん、たぶん」
「よかったわね、お友達。誰かに、食べられたりしなかった?」
「何とか無事だったけど」
おかげで、元々変だった距離間が、さらにおかしくなった。このままフェードアウトかもしれないし、教室で出会ったらぶん殴られるかもしれない。全力で警察にでも通報されていて、誰かが様子を見に来たりするかも――。
「いろいろ、不安」
「なあに?」
「あの子達、変わったものが見えるほうらしいけど、外で言われたらどうしよう……とか」
言うような子ではなさそうだが、ありえなくもなさそうで怖い。
「この家、おかしいのは分かってるけど、どうにかしなきゃいけないかもしれないけど、でも、うちのことが世の中に知られて、知らない人にぐっちゃぐちゃに言われるのは、嫌なの……」
「まぁ、おうちのことですものね」
緊迫感のないまとめ方をされた。
叔父よりもましだろうと思って、電話してみたのだが、慰めてくれるようなくれないような。
「梓だって、たぶん、悔しいのよ。貴方を守るのに、あの白い手の主には向かっていけなくて」
「でも、犬のときとか、結構吠えついてたよ?」
「犬のときよりも、思うところがあるんでしょう。臆病になったというか」
「臆病? アレが怖いっていうこと?」
それこそ、通りすがりのチンピラに絡まれでもしたら、素手で半殺しにするような梓なのだが――あの、手のことが、怖いという感情が、あるのだろうか。
ふふ、と電話の向こうで、叔母の息が笑う。
「いやね、由良ちゃん。分かってるはずよ。貴方を失うのが怖いのよ」
「私?」
「犬畜生でも、可愛がってくれた子に何かあったら、だとか、もし自分に何かあれば貴方に会えないとか、ちらとでも思えるのでしょう」
柔らかな口調なのに、たまに毒が混じるような気がする。
「それで、由良ちゃん。梓には、そのお友達のこと、ちゃんと説明した?」
「説明っていうか」
紹介をした覚えがない。
「誰だそいつら、っていう目で見てたけど、特に何も言われなかったよ」
「そう」
「小学生の頃も、学校の子と遊んで帰ったりしていたけど、梓、何も言わなかったし」
「言えなかったんじゃない? 犬だったし」
それもある。
「梓は気にしてないと思うけど……」
「そうでもないんじゃない? 飼い犬は飼い主の友達でも、知らない他人が来たら気にかかるものだと思うけれど」
確かに――宅配便が来ても睨みつけているし。家人が、手を離せないときに、サインを書けと言われて困惑し、三文判を投げられてどうにか対応していたっけ。
「梓、テレビは見てるけど、本読んでるとこ見たことないな……外歩いてたけど、友達っているのかな? 私、梓のこと、あんまり知らないかも……」
電話の向こうから、ふふ、と微笑ましげに笑われた。
「それ以外にも、何か隠し事はある?」
不安なことを口に出していただけなのに、隠し事と言われてしまった。
「ううん。叔母さんが話を聞いてくれて、少し落ち着いたよ。ありがとう」
「そう?」
電話越しに、叔父の細君はひっそりと笑った。
*
「髪でも切ろうかな」
由良の黒っぽい髪は、不揃いなまま伸びて、肩胛骨の辺りをすぎている。
この夏、由良は少し身長が伸びた。高校生男子ならともかく、中学時代に伸びてそれっきりだと思っていた由良にとって、花が咲いた後の朝顔からつぼみがもう一度出てきたみたいな、目が開かれる出来事だった。
二人組の少女らと、ぎこちないまま、町の花火大会にも出かけた。着慣れない浴衣と履き慣れない下駄は歩きにくく、気詰まりな会話ではあったが、それでも屋台は活気が溢れていたし、打ち上げられた花火は美しかった。
花火大会が終わりきってしまうと、道が混むため、由良は途中で帰ったのだが、梓が迎えにきていて、二人で、真っ暗な、黒画用紙の切り抜きみたいな山と花火の、赤や青や黄色の光のコントラストを眺めて歩いた。
花火の合間に由良は聞いた。
「ねえ梓」
やや間があって、あぁ? と面倒そうな返事が返る。
「幸せ?」
滅多に使わない単語なので違和感が溢れる。でもこのことばくらいしか、使えない。
「……何が」
「梓が、その……箱から出て」
犬になって、とか人になって、とか言うのも妙な気がして、そもそも何だったか考えたら箱から出てきたのだった。
不意に梓が立ち止まった。
犬の目には空の星が見えないとか、花火みたいな大きな音が恐ろしすぎるとか、そういう、今はどうでもいいことばかりが、由良の心に浮かんでくる。
空白に、満ちてくる。
ため息を一つついて、梓が言った。
「少なくとも飯は食えて、寝るところがあって、いいんじゃねえの」
あっけないほど、力みがない。にじるような、暇を憎む気配はなかった。
この家に捕らわれ、どこへも行けないことを、恨む気配は薄かった。
(でも、いつか、目標とか夢とか、やりたいことができるんじゃないかな? 梓にも)
そうしたら――黒い、アレの一部として出てきたモノでも、好きなことができるだろうか?
(自由に、なれる?)
「梓、暇?」
「は?」
「暇?」
「何がしたいんだお前」
「手。何か、迷子になりそうだから」
「お前が?」
「たぶん」
手を突き出したら、意味が分からなさそうながら、つないでくれた。
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