2-9

 あの日、二人が帰宅してすぐに、由良が確認したことがある。

 薄暗い廊下で、由良は置き電話を手に取った。相手は昼間、家にいるだろうか。出歩いていないだろうか。

(間違って、もう一人が出たらどうしよう)

 切ろう、と覚悟を決めたそのとき、受話器から、柔らかい、女性の声がこぼれ出た。

「はい」

「あっ、叔母さん」

 電話口で、由良は少し身を縮ませる。

 若い叔母を、おばさんと呼ぶのが申し訳ない。だが、名前で呼ぶのもためらわれた。

 相手はかすかに笑って、周りに誰かいるの? と聞いてきた。由良があまりに、萎縮した様子だったからだろう。

「ううん、いない」

 ここ最近、家人らはいくらか静かだ。

 といっても近場の山に出かけたりして、山仕事や畑仕事に忙しい。近所のお祭りの準備もある。アレの退治もある。

「変わりましょうか?」

 叔父の名をあげて問われ、由良は慌ててそうじゃないの、と叫ぶ。

「叔母さんに、聞いてほしいことがあって……」

「なあに?」

「……うちにいるモノ、叔母さんは知ってるよね?」

「そうねえ。梓くんが犬だったことは、聞いて知ってるけれど」

 おっとりと、叔母が答える。

「うちの、あのひとが、小石を集めているから、変な趣味だとは思ったのよ」

 石の、まじないだ。叔父はこの庭にも、あちこちの小石を投げ入れている。あるべき場所から動かされた小石は、帰りたいとわめいたり、嘆くあまり辺りに呪いをかけることがあると、いう。庭に出ると時折ぞっとするのは、そのせいだろうか。といっても、叔父が小石を積むのは、家の中のモノを、外に出さないための、外との境界を作る意味がある。

 何が込めてあるのか知らないし、本当に意味があることなのか、由良には分からないが――。

「叔母さんは、そういうの、信じるの?」

「信じる?」

 吹き出すように、明るい声がする。

「そうねえ、田舎町の、古い因習みたいなものだと、始めは思っていたけれど。闇を見る目が冷たかったり、羽虫に対して本当に情がなかったり、このひと大丈夫かしらって思うこともあったけれど、まぁ結局、似たもの夫婦だったのかしら。平気よ」

 何だか平気じゃなさそうなのだが。叔母が気にしていないふうなので、いいのだろう。たぶん。

「じゃあ、叔母さん自身が、変なモノが見えるっていうことはないんだ?」

 ひっそりと叔母が笑う。その、含み方がまるで同級生のあの子のようで、今の由良には怖い。

「実は、変なモノが見える同級生がいるんだけど」

「あらあら」

「うちに来て……その、何か見たんだよね」

「瑠璃部くんとか梓くんとか?」

 屋内にいる、座敷にあがる者を容赦なく壊そうとする眼鏡の青年を、叔母は知っている。由良の近くにいる梓のことも。犬から人へ、変わった現場を、見ていたわけではないから、同一人(犬)物だとは思っていないのかもしれないが。

「それもあるけど」

「そう。それで?」

 問題を感じていないらしく、叔母は小首を傾げる様子だ。

「その子達に……奥の間に、行かれた」

 由良は切り込む。叔母が、そう、と、少しだけ遠く呟いた。

「あの手のところへ、行ったのね」

「あれのこと、知ってたんですね」

「知っていたわね。きれいで、可哀想な声がするから、だあれ、ここから出してあげる、って、行ったことが私にもある」

 ごく自然に、気負いがなく叔母は答える。

「でも、あれが、異質なものだとは思うけれど、由良の言う変なものかどうかは、分からないわ。幽霊だとか、そういうものと判断するよりは、あれは手で、瑠璃部はひとを殺したがりで、梓は、暴力的な人間がきらい。そして犬だっただけ」

 梓のあれは、攻撃されると喜んでやり返すという、ただの喧嘩上等なのだと思うが。

 由良は叔母の言葉を内心で復唱する。

 確かに、そこだけ切り取れば、超常現象には思えないかもしれない。あの部屋の、ふすまを開け放したことがないから、手以外の部位が、ついていないというのを確認したこともないし(だから、そこに普通の、女の人が座っていて、監禁されているだけかもしれないし)(それも普通ではないが)、ただ単に異質なだけかもしれないのだ。狂気におちいっただけの人かも、しれないと。

(でも、それでは、)

 一般常識でも理解できる範囲の話になってしまいそうだが、しかし、

(叔母さんは、箱を、)

 見ていないのか――?

 黒い、波のようなものを。箱いっぱいに、ひたひたに満ちる、恨みの塊のようなアレらを。

(見ていて、知っていて、これなのかも)

 そう考えると、叔母は恐ろしいほど懐が深い、というか。

 いっそ怖い。

 叔母が口を開き直す。

「その子達は由良のお友達?」

「え、うん、たぶん」

「よかったわね、お友達。誰かに、食べられたりしなかった?」

「何とか無事だったけど」

 おかげで、元々変だった距離間が、さらにおかしくなった。このままフェードアウトかもしれないし、教室で出会ったらぶん殴られるかもしれない。全力で警察にでも通報されていて、誰かが様子を見に来たりするかも――。

「いろいろ、不安」

「なあに?」

「あの子達、変わったものが見えるほうらしいけど、外で言われたらどうしよう……とか」

 言うような子ではなさそうだが、ありえなくもなさそうで怖い。

「この家、おかしいのは分かってるけど、どうにかしなきゃいけないかもしれないけど、でも、うちのことが世の中に知られて、知らない人にぐっちゃぐちゃに言われるのは、嫌なの……」

「まぁ、おうちのことですものね」

 緊迫感のないまとめ方をされた。

 叔父よりもましだろうと思って、電話してみたのだが、慰めてくれるようなくれないような。

「梓だって、たぶん、悔しいのよ。貴方を守るのに、あの白い手の主には向かっていけなくて」

「でも、犬のときとか、結構吠えついてたよ?」

「犬のときよりも、思うところがあるんでしょう。臆病になったというか」

「臆病? アレが怖いっていうこと?」

 それこそ、通りすがりのチンピラに絡まれでもしたら、素手で半殺しにするような梓なのだが――あの、手のことが、怖いという感情が、あるのだろうか。

 ふふ、と電話の向こうで、叔母の息が笑う。

「いやね、由良ちゃん。分かってるはずよ。貴方を失うのが怖いのよ」

「私?」

「犬畜生でも、可愛がってくれた子に何かあったら、だとか、もし自分に何かあれば貴方に会えないとか、ちらとでも思えるのでしょう」

 柔らかな口調なのに、たまに毒が混じるような気がする。

「それで、由良ちゃん。梓には、そのお友達のこと、ちゃんと説明した?」

「説明っていうか」

 紹介をした覚えがない。

「誰だそいつら、っていう目で見てたけど、特に何も言われなかったよ」

「そう」

「小学生の頃も、学校の子と遊んで帰ったりしていたけど、梓、何も言わなかったし」

「言えなかったんじゃない? 犬だったし」

 それもある。

「梓は気にしてないと思うけど……」

「そうでもないんじゃない? 飼い犬は飼い主の友達でも、知らない他人が来たら気にかかるものだと思うけれど」

 確かに――宅配便が来ても睨みつけているし。家人が、手を離せないときに、サインを書けと言われて困惑し、三文判を投げられてどうにか対応していたっけ。

「梓、テレビは見てるけど、本読んでるとこ見たことないな……外歩いてたけど、友達っているのかな? 私、梓のこと、あんまり知らないかも……」

 電話の向こうから、ふふ、と微笑ましげに笑われた。

「それ以外にも、何か隠し事はある?」

 不安なことを口に出していただけなのに、隠し事と言われてしまった。

「ううん。叔母さんが話を聞いてくれて、少し落ち着いたよ。ありがとう」

「そう?」

 電話越しに、叔父の細君はひっそりと笑った。

「髪でも切ろうかな」

 由良の黒っぽい髪は、不揃いなまま伸びて、肩胛骨の辺りをすぎている。

 この夏、由良は少し身長が伸びた。高校生男子ならともかく、中学時代に伸びてそれっきりだと思っていた由良にとって、花が咲いた後の朝顔からつぼみがもう一度出てきたみたいな、目が開かれる出来事だった。

 二人組の少女らと、ぎこちないまま、町の花火大会にも出かけた。着慣れない浴衣と履き慣れない下駄は歩きにくく、気詰まりな会話ではあったが、それでも屋台は活気が溢れていたし、打ち上げられた花火は美しかった。

 花火大会が終わりきってしまうと、道が混むため、由良は途中で帰ったのだが、梓が迎えにきていて、二人で、真っ暗な、黒画用紙の切り抜きみたいな山と花火の、赤や青や黄色の光のコントラストを眺めて歩いた。

 花火の合間に由良は聞いた。

「ねえ梓」

 やや間があって、あぁ? と面倒そうな返事が返る。

「幸せ?」

 滅多に使わない単語なので違和感が溢れる。でもこのことばくらいしか、使えない。

「……何が」

「梓が、その……箱から出て」

 犬になって、とか人になって、とか言うのも妙な気がして、そもそも何だったか考えたら箱から出てきたのだった。

 不意に梓が立ち止まった。

 犬の目には空の星が見えないとか、花火みたいな大きな音が恐ろしすぎるとか、そういう、今はどうでもいいことばかりが、由良の心に浮かんでくる。

 空白に、満ちてくる。

 ため息を一つついて、梓が言った。

「少なくとも飯は食えて、寝るところがあって、いいんじゃねえの」

 あっけないほど、力みがない。にじるような、暇を憎む気配はなかった。

 この家に捕らわれ、どこへも行けないことを、恨む気配は薄かった。

(でも、いつか、目標とか夢とか、やりたいことができるんじゃないかな? 梓にも)

 そうしたら――黒い、アレの一部として出てきたモノでも、好きなことができるだろうか?

(自由に、なれる?)

「梓、暇?」

「は?」

「暇?」

「何がしたいんだお前」

「手。何か、迷子になりそうだから」

「お前が?」

「たぶん」

 手を突き出したら、意味が分からなさそうながら、つないでくれた。

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