2-6
「あ。来たよ」
山々に囲まれ、麓には田と畑が広がっている、やけに広々した地。
由良は、軽トラも通るあぜ道の真ん中に立って、学校へ行く方角を見ていたのだが、手を振り始めた。途中まで梓がついてきていたが、まだ誰の姿も由良には見えない頃、何かを認めて、眉間と鼻の頭に皺を寄せて、ふいと行ってしまった。どこへ行くのか聞いたが、答えてくれない。まっすぐな道の、脇へ曲がってしまって、田圃と畑、木々の陰に入ってしまって、見えなくなった。ともあれ、由良はそれからしばらくして、制服姿の二人を見つけた。私服でもよかったのに。何となく残念なような。
(せっかく、休みなのに。制服で会うとか、何か、友達っぽくないというか)
そもそも友達ではない気もするが。
耳の端に、歌が聞こえる。家の方で、呼んでいる。あの二人に聞こえなければいいなと思っていたら、しばらくして静かになった。今日は機嫌がよいのか悪いのか――(あのひとが、出てこなければいいんだけど)。
「何ソレ」
「え?」
由良は自分の格好を見る。山歩きできるように足は隠れているし、水筒と、遭難防止の位置情報検索付きの端末と、チョコレートの入った小さな鞄を、肩から下げている。端末は、自分用のものを持たされていないので、家人に借りた。
「お前んちに行くのに、何で遠足気分になってんだお前は」
「えぇっ。まぁ、準備はしておこうかなって思って」
「何のだよ」
もし万が一、アレが飛び出してきて、誘導しながらこの子達から遠ざけなくてはいけないとか。話の流れによっては、山の上の祠(特に何も出ない)に探検に連れていかなくてはいけないかもしれないし。
「お祭りっていったら、昔の祠とかお地蔵さん巡りになるかもしれないから」
「そんなん必要がなけりゃしないし」
「必要?」
また変なことを言う。
退治したりするのかと、聞いてみたいがやぶ蛇な気もする(アレ狙いだったら困るし)。
「由良様ぁ」
広々とした田の向こう、ちょっとだけ地元に出荷している野菜の畑で、家人が手を振っている。
「やばい、見られた」
由良が内心思ったのと同じことを、網代がぼやく。
「まぁ元々話を聞くために来たんでしょう」
取りなすようなことを言うわりに、琴葉も、黒い目を剣呑に細めている。嬉しくなさそうだった。相手は畑仕事から手を離せそうにないようだが、出会っておいて逃げ出すわけにもいかない。仕方なく、由良は二人を連れて、家人に近づいた。
「まぁそれほど古い家でもないんですが」
山あいの山村。庄屋をしていた、というのは簡単だが、実際にはそれほど大きくもない、とりまとめ役を拾っただけの家だったようだ。それから領主に年貢を納めたりなんだりしているうちに、明治になり大正になり昭和になって、外国移民に出かけたり都市部に出稼ぎに行ったりして村民も減少して、庄屋の家も土地の広さばかりに名残があるだけだった。
「妖怪の昔話とかってないんですか?」
いかにも荒れた学生みたいな外見の網代に、真面目そうに聞かれて、家人は不思議そうに瞬きした。
「何です? 遠野物語ですか? さあ。そういう昔話らしい昔話は。特には聞いたことがありませんねえ」
手ぬぐい代わりのタオルで、首筋についた枯れ葉を払い落として、家人は頭をひねっている。
「どっちかっていうと、山向こうの方がいいんじゃないですかね? そういう話は。今だと、ネットで調べたら済むことかもしれませんが」
「歴史とか、薄ぼんやりした、希薄なユーレー話じゃなくてさ」
「幽霊とは違う、妖怪みたいなものの話が、聞きたいんでしょう?」
「まぁ、そういうような、ものですけど」
それなりに丁寧そうに話す。由良は、珍しいものを見た、という顔でいたら、網代に舌打ちしかねない勢いで睨まれた。
「古い文献とかは、県とか国が持ってるんじゃないですかねえ……家も増改築されてますし、あんまり古くないんですけど。見て帰られたらいいんじゃないですかね、由良様、せっかくお友達が来てくださったんだから、お茶でも飲んで帰っていただいてくださいね」
家まで行けと促されてしまった。畑仕事が終わっていないとかで、家人はついてこない。
お友達、というほどでもないのだが――。
「いつまで突っ立ってんだ。いくぞ」
由良は、先に歩きだした二人に、冷ややかに振り向かれた。
仕方なく、由良はとぼとぼと歩きだす。歩きながら口を開いた。
「都会って、幽霊とかって、いるの?」
家人が十分に遠くなってから、おずおずと聞いてみる。はぁ? と言いたげな網代の向こうから、そうね、と琴葉が涼やかに答える。
「いるところには。でも、最近の人間が作り出すものは闇が浅くて」
「闇が浅いんだ?」
浅いとか深いとか、あるんだろうか。
「ある」思考を読んだように、琴葉が、伏せた睫を震わせた。
「ここは空が高い。それでいて、濃密な闇がある」
「あ、そういえば、山が高いから空が遠いんだよね。あと、星がはっきり見える。外灯はあるけど、家もそんなに多くないし」
団地も、もうちょっと、学校のある付近まで行かないと、ない。山がうねって並び、道が曲がって隠されて、向こうの方はあまり見えない。ざわざわと風が葉裏を打ち鳴らす。吹き上げられた髪を億劫そうに押さえて、琴葉がこちらをちらりと睨んだ。
「闇の暗さについては、貴方の方が詳しいのだと思うけれど」
「えっ? そうかなぁ。幽霊とか見たことないし」
由良は首を傾げる。梓は犬だったし、家の中にも眼鏡をかけた人外魔境がいるのだが、それは実体のあるモノである。猫もどきもいるが、やはり実体がある。
「ない?」
険しく、疑わしく、怪訝げに。あらゆる不審を混ぜ込んだ表情をされて、由良は首をすくめた。
「じゃ、アレだろ。妖怪ならあるんじゃねーの」
「それもないよ」
「バカかお前! 使えねえヤツ」
助け船に乗ったら、舌打ちとともに沈められた。
何だって言うんだろう。でも、なんだか楽しい。こんな近くで、人と話ができるなんて。
「……さしずめ、妖怪の子どもに話しかけたら喜ばれてしまった感じね」
琴葉にしみじみと言われたが、家まで人が遊びに来たことなど数えるほどしかないのだと思い返すと、間違いではないのかもしれない。
「子どもの頃は、結構近所の子とも遊んでたんだけど。今の学校に入る前くらいから、ちょっと、減ってたかも」
「何かあったのか?」
「うーん……受験勉強?」
「それで友達なくすか? フツー」
「その期間に、大事だった……犬がね、いろいろあって、逃げちゃったっていうか、いなくなったの。家でも、何かごたごたしてたし。高校受かりたかったし、もう、他のことに時間とか割けなくなってたっていうか」
由良自身にも腑に落ちないところが出てきた。梓がいなくて――犬が人間になって、もめたりした関係もある――家の中もごたごたしていた。だからって、学校でもあれほど孤立するだろうか。
「……引き離されてたっていうのも、あるかも」
「引き離された?」
失言に気づく。
「何かいろいろあったんだと思うよ。私子どもだったから、家のことは分かんないけど」
「子どもねえ。一年も前のことじゃ、ないだろ」
真冬の冷たさと、必死になって勉強したことが思い出された。それ以外は思い出せなくて、由良は首を傾げる。
「まぁ私のことより、そっちのことも教えてよ。二人は、仲間でしょ? 子どもの頃からなの?」
無言を返された。うまく話せなかった。由良は胃の辺りが痛むので、片手で胸を押さえて歩く。かすかな歌声が、また、遠方から響く気もして、足が自然と重たくなった。
ゴロちゃんが来てたらどうしよう。説明しづらい。軒下にいて、よその家の人が近づいてくるとがうがう言いながら噛みつきに行く生き物。この二人に飛びかかりでもしたら――返り討ちか? それとも、少女の他殺体二つになるのだろうか?身震いする由良に、少し遅れて、道端の、ねこじゃらしを引き抜いて振りおろしたりしながら、網代がぼやいた。
「……ガキのときから一緒だったら、もうちょっと違ったかもな」
その、かすれた呟きが、辺りを湿っぽくする。
「バカみたいな感傷を言わないでくれる。子どもの頃に出会っていたら、私は貴方を呪い殺しているかもしれない」
「うわ、何か今の気持ち悪、鳥肌立った」
「ふふ」
何だかよく分からない少女達を連れて、家に近づくのは、やっぱり不安だった。
「てめーいい加減にしろよ」
由良は地面に正座し、網代を見上げる。琴葉は、なぜか一本道の真ん中に置かれている自販機で、コーンポタージュとおしるこの缶の間で迷っているところだ。
「あァ? お前のうちに連れてってくれンじゃねーのか」
「ご、ごめんなさいこれには訳があって」
そわそわしすぎた結果、由良は盛大に道を突き進みすぎた。別の山と山の間を突き抜けたあげく、隣町に到達していた。
「ずっいぶん遠いと思ったぜえ? 分っかってんだろうな? この落とし前どうつけんだよ。ア?」
「ごめんなさい緊張しすぎちゃって」
でもさっきの、三叉路のところの橙の木、あそこまではうちの敷地だったと思うんで、うちに案内はしたかも――。
早口に言うと、網代が、鬼の面みたいに笑った。がっ、と、由良の肩に重さがかかる。
「ふざけん、な、よ?」
肩を踏みつけて、網代がぐいぐい揺さぶってくる。
少し離れたところにある農家から、気づいた人がちらちらとこちらを窺っている。これはまずい。かつあげでもされているようだ(実際問題、近いのかもしれないが)。
「ごめんなさい、でもね」
「でもって何だァてめえ」
どこかで犬が吠えている。どきりとしたのは、梓が、もしかしたら駆けつけてくるのではないかと思えたからだ。近くにいるのではないか――学校の送り迎えには、それとなくついてきてくれているのに、なぜ、今日はいないのか。
(もしかして、)
犬の忠義とかではなくて。単に。
(学校にはアレが出て……それをどうにかしないといけないから? 今日は私、家にいるんだし。出かけてるけど)
何となく落ち込んできた。
「待って」
黒髪をそよがせた琴葉が、すっとしゃがむ。由良の目を覗き込んでくる。真っ黒で、美しい宝石のような深さだった。
「泣かせてしまうつもりはなかったの。ごめんなさいね」
全く感情を込めず、フラットに言われても困る。第一、由良は彼女達に叱られたり追求されていることより、梓の方が心配なのだ。梓というか。自分のこと、が。
「うっ」
「うわっよけい泣き出したじゃねーか」
「黙りなさい」
口より雄弁に睨まれて、網代が口をつぐむ。
「でも、悪気はなかったの」
由良は唐突だと分かっていたが、声をあげる。
「うちは古いし、暗いし、何ていうか親もいなくってどっちかっていうと私が間借りしてるようなものだから」
「帰りたくないってこと?」
案内したくない、ではなくて。じわりと、足下の影が暗くなる。ゆらゆらと、コーヒーとミルクが混じりあうように、揺らいでいる。
唐突に、低いうなり声がした。猫の、長く、警戒するような、鳴き声。塀の上を見やるが、茂みの奥にきらきらと一瞬だけ目が光って見えたくらいで、声の主ははっきりしない。
ため息をつき、髪を払って琴葉が立ち上がった。由良の肩に置いていたはずの真っ白な手は、翻されて、仲間の肩を叩く。
「あんまりいじめすぎても、いけないわ」
「あぁ?」
「そこ。公園があるみたい。喉が渇いて疲れたから」
座って休みたいのだと、人を顎で使いかねない様子で、琴葉が言う。
舌打ちして、おごらねーし、と相棒がぼやきながら歩きだす。
「おい。来いよ。いつまで座ってんの」
引き返して、乱暴に由良を立たせる。
「家の人がいなくて、居心地が悪いところへ、無理に押し掛けようとしてごめんなさいね。てっきり――何か、隠しているんじゃないかと思って」
どきりとした。ただでさえ変な状況に、胃が痛い思いをしているのに。まだ、追及の手がゆるまないのか。猫が茂みで再び唸る。何だろう。由良がそちらに気を取られていると、電子音がして、琴葉がふと視線を外した。
電話のようだ。
「……はい」
小型端末相手に、先程までの重たい圧力をひそめて、存外静かに答えている。由良に聞こえてはまずいのか、足早に距離を取った。
「誰? 偉い人?」
「はァ? 何で」
「だって、あの子、いつももうちょっと偉そうにしてるのに」
「それ本人に言うなよ。ぶっ飛ばされんぞ」
呆れた顔で、網代がため息をつく。
「お前、しらばっくれてやがんのか、本気なのかわかんねーのな」
「何が?」
「普通、ここまでコケにされて、脅かされたら、暴力ふるわれてるっつって叫んだり逃げ出したりするもんじゃないのか」
「……逃げる?」
由良は瞬きする。なるほど。逃げてもよかったのか?
「……殺されるわけじゃないし、貴方たちの気が済んだら終わるし?」
「気が、すまなかったら、どうすんだよ」
苛立ちを壁にぶつけて、内壁の向こうから犬に吠えられて舌打ちして網代は再び由良を蹴る。
「蹴られて嬉しいか?」
「嬉しくない」
「じゃ、何で逃げない」
「何でって……私が悪かったから?」
「自分が悪いって思ってんのか。そりゃこっちからすれば騙して違う場所につれてきたお前がうざいけど、お前からしたらこっちのが悪役なんじゃねえの」
「悪役?」
由良は首を傾げた。
「ともだち、じゃ、ないの?」
電話が終わったらしく、もう一人が黒髪をなびかせて戻ってきた。網代がよれた声を出す。
「琴葉ぁ、こいつおかしい」
「分かってる」
失礼な応答があってから、二人とも用事があるとかで去ってしまった。
唸っていた猫も、どうやら行ってしまったようだ。あれはゴロちゃんだったのかもしれない。ゴロちゃんにしては、あの二人を食べてしまわなかったけど。
「おい。何やってんだ」
乱暴な問いかけに、由良は一瞬飛び上がった。けれど、声の主はいくらか呆れたふうに、スーパーの買い出し袋をさげて、立っているだけだ。由良の恐れていた、怪しい二人組の少女ではない。
「梓」
「何やってんだ。お前」
泣き出しそうになったが、どうにか、こらえる。
「梓こそ。何で?」
「知らねえよ」
ぶらぶら歩いているうち、家人に頼まれたのだろうか――ぶっきらぼうなくせ、頼まれると大工仕事などこなしていて、梓は犬の頃から本当に、何だかかわいいところがある。
嬉しくなって、由良は微笑む。たじろいだ梓に近づいて、袋を覗き込んだ。
「あ。晩ご飯何だろ?」
「さぁ。帰るぞ」
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