2-5

 ずぞ、と、大型のトカゲみたいなものが動いた。トカゲに似た形をしているが、結局溶解しかけたゼリーのようでもある。粘液質に端が崩れていた。ぺん、と尾が地面を払う。軽々とした動きだが、打ち払われた地面はえぐれ、細かな砂がけたたましく飛び散った。

「ち、面倒くせえ」

 とびのいて、梓は隙を見て駆け戻る。尾が空気を切り裂いて唸りをあげる。

 軽く、縄跳びの要領で飛び越えて一気に背をかけ上る。が、ぬめった体面で下駄の歯がとられた。体勢を崩しかけたところにトカゲのとって返したしっぽがぶつかる。

 犬が加勢のつもりか飛び込んできたが、ぎゃいんと、哀れな鳴き声をあげて吹っ飛ばされた。ちょうど尾の勢いはしんでいないが角度がずれて、梓の頬をかすめて地面に落ちる。土くれがはねて、梓は腕をあげて目をかばった。犬は綱が切れた隙に、逃げようと駆け出す。だが、トカゲの尾が再び辺りをなぎ倒した。梓は舌打ちし、けれど元が元だけに助けも必要ないと判断する。目の前にいる塊を、落とすことのほうが先だった。

「梓!」

 鏡を持って、由良が駆けてくる。庭先に夏の花が咲き、やけに明るく日が射している。

 そちらに向けて、アレが素早く腕を伸ばす。梓は一息に距離を詰めて、腕を振りおろした。ずだん、と引きちぎれる、鈍い音が響く。アレが苦悶のように身震いしたが、悲鳴はあがらなかった。長年、少しずつ紛れていった羽虫、あえてつぎ込まれた幼虫、犬、猫、牛、馬、――人。それらが、ずぶずぶと表皮にあふれ出てくる。帰りたいと嘆いても、既に彼らの生きた時代は遠い。着ている物や、話している言葉もばらばらで、その上、顔形もはっきりしない。おそらく、死んでのちに箱に食われた者もいるのだろう、ちぎれた手足が痛々しい者もあった。

 なぜこんなものを作るのか――副次的なものではあるが、これを生み出してしまう「箱」を量産し、いったい何をしたいのか。この家の業を思うと、吐き気がした。

 同時に思う。あの日、盗みに入ったこの屋敷で、蔵で、箱に仲間ごと引きずり込まれ、ぐちゃぐちゃにはみ殺されなかったなら、――こうして、箱から出てくることもなかったのだ。あのまま、好きでもない(今から思えば)太刀をさげ、道を行く旅人を切り捨て、荷を奪い、人の遺骸など弔わず、まして他の生き物など敬いもしなかった日々を、繰り返して、同じように殺されて死ぬのだろう。腑抜けて、ばかみたいなテレビを見たり、餌を貰ったり、飼われた先でこうして、仲間とも言えるのかもしれないアレを破壊して、それだけの日々を送るのと、何が違うのかと言われると分からない。けれど。うろのような風が吹くのは確かだった。

 由良の手に撫でられて、名を呼ばれて、微笑まれて、散歩に出かけて。そうした日々は、あの中にはなかった。なかったのだ。

「梓も八房も、無事だね」

 由良が呼ぶ。結局、犬の名前は八房に決まったらしい。八房と名付けられた犬が、ばかにした顔で、梓を見ている。お前も元は賊だろう、と、すべてを知っている顔で。

 梓は八房に対して拳を握る。殴ろうとすると、八房が逃げる。

「追いかけっこ? 八房、遊んでもらってよかったね」

 由良が珍妙な勘違いをする。

「もし、俺が」

「どうしたの、梓?」

「もしも、」

 言葉が途切れる。誰ともしれない叫び声、断末魔が、耳の奥に蘇る。許さない、という、怨磋の声。断ち切られた、恨みの声。

 箱に食われて、混ざっているから、これは梓の記憶ではないのかもしれないけれど。

「何でも、ない」

 由良には言えない。梓は八房を殴るのを中断した。

 学校は、この数日、アレが出ない。終わったのだろうか。少し安堵していたところ、他の問題が持ち上がった。

「なあ、遊びに行っていい?」

 昼休み、目の前に立ったかと思ったら、網代が不意にそんなことを言う。由良は瞬きを繰り返した。

「何で?」

 思いついた単語を返すと、何でって言われても、と網代が唇をとがらせる。

「いいだろ別に」

「だめよ、ちゃんと説明してあげないと」

 やんわりと、由良が広げていた参考書のてっぺんを指先で押して、琴葉が微笑んだ。何だかんだ言って、最近結構距離が近い。今日も三つ編みで、古風だけれど、やけに清楚で似合っている。クラスメイトには、あの二人に関わると呪われそう、とか言われているようだが――由良はどうにか首を傾げた。

「何? 急に」

「いいえ別に。ただ、今度の夏祭り、一緒に行かない?」

 もう、そんな時期だっただろうか。

「その前に、相談会みたいなものが、したいのよ。うちは手狭だし」

「二人は、どこに住んでるの?」

「近くのアパート」

「普通の家で手狭になるような、相談って何?」

「ふふ、内緒」

 内緒って何だ。

「盆地の向こうで、花火をあげるんでしょう? この辺りのこと、詳しくないから、貴方のおうちでいろいろ、教えていただきたいの」

「私に、って言うのじゃなくて、家族に聞きたいってこと?」

「ご家族を紹介してほしいだなんて、言ってないわ」

 目的があって、由良の家に来る口実を探しているようだ。

「……帰って、聞いてみるね。うち、あんまりお客さんとか、来ないから……」

 あからさまだが、何度も乞われていて、無碍にしづらい。

「あの……友達が、遊びに来ても、いい?」

 家の主は由良の親だった、というのに、よそものであるはずの家人の了解がなければ何もできないなんて、妙な話だ。叔父さんに聞いてからにすればよかったなと内心で思いながらも、由良は相手をじっと見た。

「友達……ですか」

 家人達がそろって、一瞬だけ動きを止める。

(この人たち、全員、紙かな)

 紙と人の区別がつかないので、適当に話しかけたのだが、失敗だっただろうか。

 梓が眠そうに廊下を通り過ぎていくのが見えた。

「遊びに行くだけではなく、由良様が、お招きしたい、と」

「あっえっと、招くとかそういう、仰々しい感じではないんだけど」

「よろしいですよ」

 しごくあっさりと、家人達が頷いた。てっきり断られると思ったので、拍子抜けする。

「で、でも、アレが出たら、見られちゃうかも……」

「出ませんよ。そうしょっちゅう出るものでもなし」

「でも、学校にも出て」

「今のところ、誰も取り込まれていないでしょう」

「先生達が食べられてたけど」

 食べられたのに、先生達は遠方の家族の介護のために急に学校を辞めたことになっている。他にも、下級生や同級生が、数人消えた。人数が多い学校とはいえ、怪しいにも程がある。そこへ来て、由良の家に来たのを最後に足取りが途絶える学生達――。

「やっぱり、まずくない?」

「まぁ、大丈夫でしょう」

 出たら出たで、取り込まれれば、行方不明者が一人出るだけのこと、と言いそうな空気に、由良は震える。

「……あの、夏祭りの、準備? っていうか、話を聞くだけと言うから、座敷にあげなければ、リスクは少ないよね?」

「お友達は、女性ですか」

 家人はそこで、少し表情を曇らせた。

「このご時世、男女差別なことを申し上げるのもなんですが、実際、あの部屋の奥まで「呼ばれて」しまうのは、女性の方が多い。なぜでしょうね。共感、でしょうかな。異性の方が、ころっと騙されそうなものなのに」

「しっ」

 饒舌な家人を、他の家人が抓る。

「とにかく、私どもも、その辺りにおりますので。ご心配はいりませんよ」


 心配ではある。なので。祭りの日に、近くまで迎えに来てもらうのなら――そして道端で話をするなら、それほど危険はないだろう。

「ごめんね、せっかく来てくれるって言ったのに」

 学校でそう告げると、購買のパンを膝に乗せていた網代が、まなじりをつり上げた。

「てめぇ、せっかく言ってやったのに」

「ごめん」

(でも、貴方のためでもあるんだから)

 無表情を貫く琴葉が、網代のパンを(封を切りかけたものを)取り上げた。

 丁寧にちぎって、口へ運ぶ。

「なるほど。じゃ、近くまで。話は、させてもらえるの?」

「多分。何が聞きたいんだっけ」

「そうね。お祭りのこととか。地域の、風習とか」

 ちりっと、空気がきつくなった。

(風習……)

 あぁいうモノに、対峙し慣れた、退治屋みたいな子達が。風習を知りたいと、言う。

「……もしかして、あの黒いの、退治したいの?」

「いけない?」

 しれっとした顔で、琴葉がパンの袋を折り畳む。

「早っ、もう食べたんだ」

「そうね」

 紙パックの牛乳も、一息で飲み干してから、ビニールと紙を分別して綺麗に畳む。

 その鮮やかさに、由良がほれぼれしていると、

「お前さァ、話逸らすなよ」

「あらごめんなさいね」

「お前じゃねーよ」


(でもなぁ)

 うちに連れてきたら、よけいなモノまで退治されてしまうではないか。日が暮れかかる帰路、由良はうーんと唸り続ける。隣を歩く梓が、幾分遠い(由良が何を言っても返事しないし呻いていて不気味なのだろう)。八房が、庭の境にある塀のところでしっぽを振っているのが見える。

「八房ー。帰ったよー」

 わん、わん、と吠えて、嬉しそうだ。中身はどうやらおっさんだと分かっていても(梓が主張している)、まぁ、あんなふうに帰りを喜ばれたら嬉しいものだ。

「はぁ。人間になったら、何でみんな、冷たいんだろ」

「はぁ?」

 呟いた由良に、梓が疲れたような相づちを打った。

「ただいま戻りました……あれ、みんな、出払ってるのかな」

「にゃーん」

 家人の代わりに違う返事がある。およそ猫とは思えない、たどたどしい鳴き声だった。

「あれっ、ゴロちゃん? いるんだ」

 縁の下を覗き込むと、暗がりに、ぴかり、と丸いものが二つ、瞬く。

「ゴロちゃん、おいでおいで」

 ことことと、床下の砂や小石を踏んで、黒い影が近づいてくる。由良が待っていると、頬も鼻も真っ黒に汚れた、小学生くらいの年齢の人間が出てきた。

「あれっ。ゴロちゃん、おっきくなったね? 前は三歳くらいじゃなかったっけ」

「食ってでかくなったんだろ」

 梓が面倒そうに、遠方から声を投げてくる。由良は、ゴロの縦に長い瞳孔を見下ろして、頭を撫でた。手がざらつく。砂埃と、蜘蛛の巣がついているのだ。

「ゴロちゃん、座敷にあがらないし、ご飯貰ってないよね? バッタとかコオロギ捕まえてむしゃむしゃしてるの見たことあるけど……」

「アレ食ってんだろ。あの黒いヤツ」

「……共食い……?」

 ゴロは、ふいと顔を逸らす。元々、由良が、子猫姿のこの子を、箱の側で拾ったのだ。黒猫はやがて人間の赤ん坊の姿になり、瑠璃部や梓で見慣れつつあった由良にも、ソレがあの箱から出てきたモノであるとすぐに分かったものだった。気ままに野山を駆け回り、まれに屋敷に戻ってくる。猫というより、何か別の生き物のようでもある(実際、猫ではなく箱の中身のモノだ)。八房が、首輪につけた縄の距離最大まで塀に逃れているのは、初めて見る種類の「猫」が来ているからかもしれない。

「ゴロちゃん、アレは八房。新しい子なの。勝手に食べないであげてね」

 ん、ん、とゴロが喉を鳴らす。視線が振り向けられ、梓が迷惑そうに「てめえ殺すぞ」と呟いた。

「ゴロちゃん。梓も八房も、食べちゃだめ。人間も食べたらいけないよ」

 ん、ん、と、視線が動く。

「殺しますよ。この下等生物」

 冷ややかに、屋敷の中から声が落ちた。瑠璃部だ。畳の縁を踏まないように立っている。

「瑠璃部のことも、食べちゃだめ」

 るー、と鳴いて、ゴロは再び、山の方へと駆けていった。

「ゴロちゃんは、ほんと自由だなー」

「あいつを見張るヤツの気苦労が知れない」

「梓でもそんなこと言うんだ」

「どういう意味だ」

 人の、心配をするような犬では――あったかもしれない。元々聡くて、可愛い子だった。人間の姿を得て、取り押さえようとする人間を片端から半殺しにして(皆殺しではないだけ、マシだったようだが)、以来、彼は由良から離れたし、人のことを構わなかった、気がする。

(私の受験のせいかな)

 気が立っていて、不安定だったから。由良が。

「何にやにや笑ってんだ」

「え、笑ってた?」

 由良は急いで話を変える。

「友達が、ね。遊びに来るんだよ。今度の休みに」

 あぁそう、とも何とも答えずに、梓がうろんげに由良を見る。

「友達」

 目を見つめ返して言い足せば、ふいと背けられる。

「友達、ねぇ」

 知らないなと、梓の声が遠く響く。庭に流れた空気が、静まっていく。八房がしっぽを振ってはふはふ息をしている音だけが、しばし響いた。

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