第二章 不死者 EVER

1

 ――永遠は刹那に凝縮される。

 ……しかしその刹那こそが人の永劫の責め苦である。

             G・T・グレムス 西暦2027年 恒久のアイオン



§§



 遥かな過去のことを思い出す。

 彼女のことを思い出す。

 真夏に流れる清流のようだった彼女。

 冬の日の陽だまりのようだった彼女。

 強い彼女。

 弱い彼女。

 自分の前でだけは泣いてくれた彼女。

 初めはなかなか笑ってくれなくて、いつも腐心した彼女のその笑顔。

 その幾つものことを思い出す。

 遠い遠い、昔の記憶。

 掠れて消え入りそうな、だけれど掛け替えのない光。

 今はもう、思い出の中にしかないその姿。

 俺は、


 彼女の絶望を昨日の事の様に覚えている。



§§



「…………」


 真夜中。私はそっと、馬車の幌から這い出た。最愛の肉親を起こすことも無く、物音のひとつも立てずに這い出る。馬車から出るとすぐに、車輪にもたれるようにして瞳を閉じている男が見えた。

 数日前、モグリの【浄歌士】の旅に加わった連れ合い。

 伝承でしか聞かない黒髪黒瞳の青年。

 名を、ヒナギ・クロウと言った。

 私は足音を立てないように気を付け、彼へと歩み寄る。

 春先、まだそれほどに温かくもないというのに、彼は上着の黒衣を膝に懸けるだけで眠っていた。傍らには愛刀が立て掛けられている。その刀は黒金の中に黄金を纏う騎士に変じた彼が、【アオサビ】を両断し、私と私の家族を救った一振りだ。その側で青年は眠っている。眠っているのは、初めて見る。

 いつもは、眠っているようでそれは瞳を鎖しているだけ、そういう事が多かった。だけどどうやら今日は、本当に眠っているようだった。


「…………」


 寒そうだった。

 肉体ではない何かが。

 私は幌から持ち出してきた毛布を広げる。何時からそうなのか、凍えたような表情で眠る彼の体に、そっと毛布を掛けた。


「…………」


 眠っている様になど見えない彼。

 表情が、酷く冷たく。


「……クロウ」


 私は、彼の名を呼んで、そっと、呼んで。

 その、色の悪い頬に、指を這わせた。

 冷え切っているように見えたそこは、仄かに暖かく。私の見守る中で、彼の表情は少しずつ、柔らかなものへと変わっていった。



§§



 最近の姉さんについて思うあれこれ。


 その一。口の悪さが際立ってきた。

 例を挙げると、


「クロウ、あなたの顔色の悪さは今更に変わらないのだからその野菜は全て私に捧げなさい。代わりに干し肉を一欠けあげましょう」


 と云う感じ。野菜が肉類に比べてどれほど貴重かと云うことを考慮に入れると本当に鬼畜並みの所業だった。


 その二。以前よりも心此処に在らずの時間が増えた。

 どこか遠いところを茫っと見ている事が多くなった。

 もとから神掛りの多い【浄歌士】の体質なのでそう云うことは今までも何度か有ったけれど、最近は特に。


 その三。これは本当に変わったこと。

 姉さんは、よく笑うようになった。

 ウェイスター村で始めて見たあの微笑み。流石にそれ以上のものはないけれど、よく微笑むようになった。僕やヒナギさんの前だけでだけれど、でも、あれだけ世の中には笑えることはないなんて悟ったようなことを言っていた姉さんが、である。姉さんの過去を、僕はそれほど知っているわけではないけれど、幼かった僕は殆んどの事を記憶していなくって感じていた気持ちだけしか分からないけれど、それでも僕の知る少なく、だけれど重いものを思えば、姉さんが笑う事ができなかったのは、本心から笑う事ができなかったのはしょうがないことだとは思う。なのに今、姉さんは笑っている。


 何の変化があったのだろう?

 何が姉さんを変えたのだろう?


 僕にはそれが、分からない。皆目見当も付かない。

 僕が駄目に為ったとき、そのときは姉さんがいた。だから僕は今、普通でいられる。だけど姉さんには、誰もいなかった。だから今日までの姉さんは、【浄歌士】以外の何者でもない、ただの、歌を紡ぐだけの――言い方は悪いけれど――楽器でしかなかったはずなのに。

 でも姉さんは笑っている。

 今、目の前のように。


「あら、クロウ。あなたでも鍛錬なんてするのね? そんなに危ないものを振り回して」


 姉さんは湖畔の石に腰を降ろし、黙々と素振りをするヒナギさんを薄く小さく微笑みながら見詰め、そんな言葉を投げかけた。ヒナギさんは、素振りをしたまま答える。


「俺は……別段剣の腕が立つわけではない。少々以上に卑怯で卑劣な方法をり、それを以ってアイネスの安全を守っているに過ぎない。技量に天地の開きのある真に強者と太刀合たちあった時、俺の虚構は崩壊する。それではアイネスも妹君も守れない。ならば差は、埋めおくが正しいと考えた末だが……何か、不快な要素が?」

「いいえ、そういうことではなくって。……少々言い難い言葉ですが、私はクロウは何もしなくても強いと思っていたのよ」

「そんな存在は天才だけだ。俺は、こと武の面については素人がイカサマをしているに過ぎない」

投薬強化ドーピング、とやらでもしているの? それにしては私たちを逸れた【アオサビ】や野党の類から守るときは迅速だったようだけれど?」

「ドーピング……それは得てして妙な喩えだ。だが、違う。似て非なるものだ。俺は、もっと根源的な部分で、逸脱している。姿を見たのなら、解るはずだ」

「……そう。まあそれはそれで構わないわ。クロウが強く在ってくれれば、私は助かるのだから。例の鎧の姿も、別段に問うたりしないわ。そうそう、先日野党を追い返してくれたときなんて、本当に助かったわ。普段なら私が説き伏せなければならないのだから。疲労が三倍ほど違うから」

「不可侵の【浄歌士】はそれだけで命の保障と語られるが、きゅうしたものには時として通用しないか」

「そういうことね。あちらはかつえに餓え、ぎらつくにぎらついた獣性だから」


 ふー、と。そこまで言って姉さんは息をついた。向けていた視線を、ヒナギさんから僕へと向けた。


「どうやら私も、えてきたようだわ。お前、食事の用意は」

「……出来たって言ったのに、ずっと無視してヒナギさんと話し込んでいたのは姉さんなのに」


 だぱーっと、僕は滝のような涙を流した。


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