第一章 歌姫 DIVA
1
――物語の幕よ、いざ上がれ!
……道化よ、それこそが終りの始まりと知るがよい。
G・T・グレムス 西暦2032年 始原の終末
§§
「世界を――救ってもらいたい」
すべては、その言葉から始まった。
私たちの、長く永い旅路が――
§§
馬車を降りて世界を眺めた。
一面の褐色。
何処とも何も変わらない【錆の大地】が広がっていた。
「う~ん!」
背筋を伸ばす。長旅で凝り固まった疲れを振り切るように。休憩の時間はそう長くない。幾らこの辺りでは【アオ】が稀にしか出ないからって確実に安全なわけじゃない。【アカ】だけだって十分に危険なんだ。だから、姉さんが身支度を終えるまでの間が休憩。だいたい10分ぐらいのはずだ。
僕は視線を空に上げた。
大地とは対照的なブルーが広がっていた。
「海って……こんな色なのかなぁー」
海。一度も見た事がないけれど、遥か昔から存在するその巨大な水の塊は、見通すことも適わないぐらいの青さを誇ると、以前旅の行商さんから聞いた事があった。僕は密かにその海に憧れている。
「行く機会なんて、きっとないけれど」
何せ僕の――正確には僕の姉さんの職場は、陸地にしかないんだから。
うーん、ともう一度背伸びして、僕は視線を戻す。
やっぱりの褐色。
だけど。
「――この辺りは、少しましね」
「姉さん?」
透き通るような声に驚いて振り返ると、服を着替え終えたらしい姉さんが立っていた。
一瞬だけ意識を飛ばされた。
「――――」
ふるりと震えるのは長い
通った
ドレスと、鈴や腕輪の装飾品でお姫様みたいな格好の姉さんが、無表情に立っていた。
振るほどに長い深い袖が、風に流れて揺れる。揺れる袖の動きに合わせて、ようやく僕の意識が繋がる。
いけない、見慣れているはずなのに、家族だっていうのに見惚れてしまった。
「――えっと、もう、準備は?」
取り繕うようにしながら僕は問う。
「ええ。大丈夫。と言っても三月前の【クロ】とのニアミスで、かなりの量の装飾品を失ってしまったから、まあ、この程度。補給もできていないし。だから時間もかからずに……ふふ、お前にとっては少し残念だったでしょうね?」
「そんなことは」
ないよ、と首を振りながら、服の裾を
「そんな事をされても私は笑わないわよ? 私が笑うのはクライアントが必要とするときだけ」
「もったいないよ」
美人なのに。
心底僕はそう思う。だけれど姉さんはそっけなく、
「仕方ないでしょう? 笑える事がないのだから」
そう言うのだった。
「…………」
僕は押し黙ってしまった。何も言えなかった。
すると姉さんは困ったような顔をして僕に歩み寄って来て、
「バカな子ね」
そう言って、ドレスで包むように僕の頭を優しく抱いてくれた。
「……ごめんなさい」
「いいのよ」
謝るとそう言ってくれた。
「さて」
「あ」
思わず声が出る。
名残惜しいとかそんなことを思う間も無く、姉さんは僕から離れてしまう。
「時間がないとは、自分で言ったのよ。早くしてしまいましょう。あの辺りの――」
姉さんは僕が眺めていたのと逆のほうを指差して、言った。
「まだ残っている緑が消えてしまわないうちに」
「……うん、そうだね」
僕は同意した。
そこにはまだ、植物が残っていたからだ。
「きっと、あの【老樹】がこの辺りの水の流れ全てを司っているのでしょうから【錆】も寄りつけない……だから、あそこまで【錆】が届く前に」
「うん」
僕は頷いた。姉さんの目は少しだけ細まっていた。姉さんが、好ましいものを見るときの目付きだった。
僕は振り返った。
やっぱり広がっているのは砂漠みたいな【錆】の大地で、だけれど視線の先に、一本だけの大きな年老いた木が天に向かって
「【土】が、まだある」
そう、そこにはまだ、【錆】に覆われていない【土】があった。【錆】は、どうしてだか水の周りには寄り付かない。だから置いた大木の根が水瓶の代わりになっているその一帯にはまだ土が存在しているんだ。
「
姉さん――【浄歌士】オーキッド・アイネスはそう言って、老樹に向かって歩み始めた。
◎◎
その正確なところを僕が知っているわけじゃない。ただ姉さんと云う【
永久の昔、まだ西暦と言う年号が使われていた昔。
春の頃。
世界は【錆】に覆われた。
どうしてそうなったのかは分からない。
伝承では世界は汚らわしい何かに汚染されたらしい。そしてその穢れの中から、今全てを覆いつくそうとしている【錆】は生まれたのだと云う。
それから、世紀が幾度も廻って、もしくはもっと。コギト歴なんてものが産まれて728年。
世界はずっと、【錆】に覆われている。
どれくらいの時が経ったのか知らないけれど、この星は致命傷のような傷を受けた。
地表のほとんどは赤茶けた褐色に染まって、文明なんてほとんど壊滅して。それ以前のもっとも根本的なところ、生きている生命の大部分が窮したのは、植物のことで。
地表はほとんど褐色。
緑は、植物は極限られた所にしかもう、生息していない。
それは直結で、動物にとって致命傷だった。
だって、植物は、食物連鎖の最底辺だったんだから。植物が消えれば草食獣も虫も生きていけない。それらが生きていけないなら、それを食べる肉食の生き物だって生きていけない。だから直結、僕たちは食べ物を奪われて。
食べられないのなら、生きていけるわけも無く。
「いや……もちろん、生きてはいるんだけど」
僕は馬車の御者台で呟いた。
疲れ果てて眠ってしまった姉さんを荷台に乗せて、【錆の大地】をひた走っていた。
「ふぅー」
一頭
馬のシルヴィーは、
この【錆】の世界で、だけどシルヴィーや僕たちのように、生物は意外としぶとく生き残っている。まあ、その数は全盛期の1000分の一ぐらいまで少なくなってしまっているらしいし、寿命も出生率もかなり悪くって
人もそれ以外の動物も、例外なく絶対数が減って、全体が残った。個が減って、群が残った。生物の本分はそんなもの。そう云うことらしい。
【錆】は確かに世界を覆って、洒落にならない被害を出したけれど、出し続けているけれども、世界の全てが、完全に覆われたと云うわけじゃなかった。
【錆】は大抵のどんな場所にでも蔓延ったけれど、【錆】が寄り付かない場所もあったんだ。
それが、水気のあるところと高いところだった。
川や、ぼくは見たこともないけれど海、沼や湖。そう云う水が大量に溜まっているところには【錆】は寄って来ない。さっきの大樹のように小さな面積に多くの水気をため込んでいるところもそうだ。
もちろん周囲は全部【アカ】――【アカサビ】に沈んでしまうけれど、それでも他の平野とかに比べれは侵食は少ない。
高いところ、具体的に云うと動物が生活するのが難しい1500メートル級の山岳地帯にも、【錆】はあまりやってこない。時々起こる【
そう云った【錆】には滅茶苦茶にできない場所が、世界中に少しずつ残っていた。だから生物は、本当に細々とだけど生き延びている。人間は、生きている。
少ない土地を遣り繰りして、植物と共存して家畜を飼って、小さな畑を作って、自給自足で、身を寄せ合って生きている。
でも、そう云う土地だっていつまでも安全なわけじゃない。時が流れれば、いつかそこは、【錆】に埋もれてしまうんだ。
限られた土地、時間制限、それだけでも厄介だけど、人や動物は増える。子供が生まれ、大人になって、また子供を生む。それを繰り返して増えていく。だから、慢性的に僕たちは土地不足で、それは切実なほどに、足りていない。
だから、姉さんのような【浄歌士】がいる。
【浄歌士】。
【錆】に奪われた大地を取り戻す事が出来る、唯一の職業であり――唯一の一族。浄歌士はその全てが女性。
女流血統【イブキの一族】。
それは――
「……私は、どのくらい眠っていたかしら?」
「あれ? 姉さんもう起きたの?」
「ええ……」
つらつらと物思いにふけっていると、馬車の幌を開けて姉さんが顔を出した。その綺麗な顔に、まだ疲労が色濃く残っていた。
僕は気遣って言う。
「まだ寝てていいと思うよ。依頼があったウェイスターの村まではまだまだ距離があるし」
「ええ、そうなんでしょうね。そうなのでしょうけれど、何故か眼が覚めてしまって」
決して眼が醒めていると云うわけではない表情で姉さんは言う。
「どのくらい眠っていましたか?」
「いつもよりずっと短かったよ。たぶん四半時」
「……道理で」
姉さんは軽く頭を振った。春色の髪がはらりと揺れる。頭も意識も、きっとはっきりしていないんだと思うけれど。
「辺りの様子は?」
「定型句だね。だいじょうぶだよ、そんな紋切り型じゃなくっても」
「気を張るなと率直に言いなさい。お前は言い方が回りくどくっていけないわ」
「……くどくないよ」
いいえ、くどいわ。姉さんはそう言い切って、小さな口で欠伸を噛み殺した。
「ふわ……【アカサビ】は活性化していない?」
「うん、大丈夫。どこも波打っちゃいないよ。蠢動も拍動も無し。【錆の大地】は、今日も穏やかだ」
「アオ、もしくはクロは?」
「出てきたらすぐ起こしてるよ。クロなんてこの辺にいるわけもないし。それに辛うじて何とかできるのは姉さんだけでしょ? 僕は、ほら、アレだし?」
「……お前は、まだ」
「大丈夫」
「…………」
「大丈夫。姉さんが、いてくれるから」
「……そう。それなら、いいけれど」
「うん」
僕は、心配そうにしてくれる姉さんに頷いておく。口ではなんとでも言えるし、態度だって、こうやっておけばいつか本当になる、なんて、ガキなりに強がってみたりもする。
「辛いならそう言いなさい」
「……ごめんなさい」
「何故謝るの? お前は別に悪くない。寧ろ、対応できなかった私の方に咎はある。あの場で、もし何かができていたとすれば私だけだった……」
「そんな! 違う。違うよ。姉さんはあの時、儀式を終えたばかりで疲労困憊で!」
「それでも」
「姉さん!」
「……そうね、よしましょう。今更で、今更よ」
「……うん」
僕はしぶしぶ頷いて、疲労の色が濃くなった姉さんから顔を逸らす。本当に今更で、今更だ。言い合うような事じゃない。
「寝ていてよ。着いたら起こすから」
「……ええ、そうさせてもらいましょう。私は、限界だから」
そう言って、姉さんは幌の中に引っ込んだ。また欠伸を噛み殺す音が聞こえた。
疲れているんだ。それは当たり前の事なんだ。あれだけのことをすれば、当然なんだ。
「…………」
僕はもう見えなくなったあの丘を振り返った。見える限りの範囲、【錆】がどこにも無くなった、あの丘を。
それを為したのが姉さんだ。僕にはそれが誇らしかった。
……まあ、姉さんに面と向かってそんなことを言ったらたぶん「あんなのは前金を貰っていたのだから当然です」なんて言葉が帰って来るんだろうけど、それはそれで姉さんらしく。だから僕は、恐怖を少しだけ忘れる事ができた。幼い頃に見た、全てを失う恐怖を。
「…………」
少しだけ、風になびく自分の髪の色が気に触った。
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