真夏の潤い(6)

 数分後、僕たちはランプの会の事務局に通された。パーティッションで区切られただけの応接室のテーブルには僕と戸塚、そして戸塚のお父さんと……

「こちらにいらっしゃるのは宮城実先生。すでに定年退職されているが、お父さんが理療科の学生だった頃に解剖学や生理学を教えてくれた恩師だ」

と戸塚のお父さんが紹介した。戸塚のお父さんは全盲で、聞くところによると、30数年前に僕たちと同じ盲特別支援学校の小学部に入学し、高等部専攻科理療科であんま・マッサージ・指圧・鍼・灸の資格を取るまで通っていたらしい。卒業後は自宅開業し「うぐいす治療院」という治療院を経営している。また、横浜市では各区ごとに視覚障害者を対象とした当事者団体が活動しているが、戸塚のお父さんはうちの区の会長をしている。

「先生、娘の直子と同級生の沢木くんです。2人とも盲特別支援学校の普通科1年生です」

「はじめまして」と僕たち2人は声を揃えて宮城先生に挨拶した。

「こちらこそ、はじめまして」

すでに定年退職されているということだから、おそらく70歳くらいだろうと思われるが、低音の効いた凛々しい声音は精悍で力強く、きっと外見も実年齢より若く見えるのではないかと思われた。

「2人はランプの会にはよくきているのかな?」宮城先生の質問に、僕は「いいえ」と答え、創立120周年記念事業委員会のこと、記念誌作成のこと、製本をランプの会に依頼したこと、仮原稿の確認にきたことをかいつまんで説明した。

「私のところにも原稿依頼があったよ。そうか、記念誌は君たちが作成してたのか。うちの学校が創立100周年を迎えたときに最初の記念誌が作られて、それから10年おきに発行するようになったんだ。10年前書かせてもらったときは、確か定年後の非常勤講師の最後の年じゃなかったかな……、あれから10年が経つのか、実に感慨深い」

10年前を思い出したのか、宮城先生の声は一言一言かみ締めるようなゆっくりとした声音になった。

「この記念誌は、これから先本校の歴史を語る上で重要な資料になることだろう。編集作業大変だろうけど、頑張って素晴らしい記念誌を作ってください」

「ありがとうございます」と、戸塚は中腰にでもなったのか、やや状態を前のめりにしながらお礼を言った。すると戸塚は僕の右腕のあたりをツンツンとつつきながら小声で「沢木くん、宮城先生が握手だって」と教えてくれた。僕はやや腰を浮かせ、声の方向から斜め前にいるであろう宮城先生のほうに手を伸ばした。しかし、宮城先生も全盲なのか、お互いうまく相手の手が掴めず、触れたかと思ったら宮城先生の手首だった。僕はそのまま手をスライドさせてうまく握手することができたが、このときジーンというような震えが手に伝わってきたような気がした。

 「驚いちゃったわよ。だって思いがけないところでお父さんに会うんだもん」

戸塚がお父さんに向かって言うと、「こっちもだよ」と苦笑いしながら出されたお茶をズズっと飲んだ。

「ところで、お父さんたちがここにきたのは……」

「それはな」と、戸塚のお父さんはコンとテーブルの上に湯飲みを置きながら

「宮城先生は、東京都内で視覚障害者の啓発活動や運動、ボランティア育成に尽力されておられるのだが、近々点訳やガイドヘルプなど、視覚障害者を対象としたボランティア団体を立ち上げる計画があるんだ。そこで、前準備として他の地域で活動しているボランティア団体を回って、運営の方法や活動形態などを聞いて、今後の参考にしたいとおっしゃっている。先日、お父さんのところに宮城先生から、うちの地元で活動しているボランティア団体があったら是非紹介してほしいとの依頼があったので、今日ランプの会にお連れしたわけなのだが……、まさか直子もくるとは思わなかったよ」

「こちらには5時にお伺いする予定だったのだが、電車の乗り継ぎ画よかったのか、約束の時間よりも早く戸塚くんのところに着いたのでそのままきてしまったんだ。まさか先約があるとは思わなかったので、大変失礼なことをした」

宮城先生は申し訳なさそうな口調で謝罪してきたので、戸塚は慌てて「いえいえ」と言い

「私たちは仮原稿の確認をするだけなので、そんなに時間かからないと思いますよ」

と戸塚が言うと「そう言っていただけると……」と安堵したような柔らかな声音で応じた。

 「ところで、ちょっとお聞きしたいんですけど……」戸塚はまるでいたずらっぽい微笑を浮かべているような声音で

「うちのお父さんってどんな学生でしたか? ちゃんとまじめに勉強してましたか?」

と聞いた。とたんに戸塚のお父さんはむせ返り、宮城先生はアッハッハと豪傑笑いをした。

「戸塚くんかぁ、いやぁ、授業中はよく居眠りしてたなぁ。でも、不思議なことに質問には的確に答えられるし、試験もいつもいい点取っていたから、勉強はよくできていたよ。それと、よく教科書やノートをどこにしまったのか忘れることがあって、授業前によく『あれ……ないなぁ……ないなぁ』ってぶつぶつ言っては由起子さんに探してもらっていたっけ」

「先生! そんな昔のこと掘り返さないでくださいよ……」

戸塚のお父さんは少々弱ったような、閥が悪そうな調子で言ったが、娘の戸塚は「へー」とややからかうような調子で

「お父さんって、昔からお母さんの世話ばかり焼いていたんだね」

由起子さんとは戸塚のお母さんだ。聞くところによると、戸塚のお母さんは弱視で、戸塚のお父さんとは小学部の頃からずっと一緒らしい。戸塚のお父さんは咳ばらいをひとつすると

「お母さんにはよけいなこと言うなよ」

「よけいなことって? 授業中寝てばっかりいたこととか?」

「お父さんは器用なんだ。授業中眠たくなっても耳は起きているから、ちゃんと先生の話は聞いていたんだ」

とわけのわからないことを言ってきたが、戸塚はすかさず

「どうせ放課後にでもお母さんからノート見せてもらっていたんじゃないの」

図星だったらしい。戸塚のお父さんは「うっ……」と絶句してしまい、戸塚と宮城先生は愉快そうに笑っている。傍らで戸塚親子の会話を聞いていた僕は、戸塚って家でもこんな感じでお父さんとコミュニケーションとっているんだと、新たな彼女の一面を垣間見たような気がした。と同時に、このお父さんと一緒に暮らしていればさぞかし楽しい家庭を築いていることだろうし、快活で陽気な娘が育つのもある意味当然だなと一人納得していた。

 そのとき、「お待たせしましたぁー」と元気のいいはつらつとした女性の声が飛び込んできた。NPO法人ランプの会代表の田場義美さんが入ってきたのだ。

「ごめんなさい。急に対応しなければならない案件が入りまして……大変失礼しました」と少々息を弾ませながら言った。

「相変わらずお忙しそうですな」と戸塚のお父さんが労いの言葉をかけると

「ええ。これまでは主に官庁を対象に、視覚障害者への情報保障ということで広報やら制度案内のパンフレットなどの点訳以来や音訳依頼を受けてきましたが、今はユニバーサルデザインの思想もかなり浸透してきて、高齢者や障害者を意識した商品やサービスを提供している企業が増えてきたんですよ。そこで、ユニバーサルデザインに積極的に取り組んでいる民間企業にも働きかけて、点訳や音訳、そして視覚障害者の視点から、適切な商品またはサービス提供ができているかチェックしたり、改善点を提案するなどのコンサルティングも受注しているんです」

「ほおー」と宮城先生は感嘆したような声をあげた。

「かなり戦略的に活動されておりますな」

「私たちにはNPO法人になる前から点訳や音訳のボランティアとしての技術がありますし、主に区内の視覚障害者の方たちと接する機会も多いので、視覚障害者に関する知識も蓄積しているつもりです。そのような技術なり知識を社会に提供することが私たちの仕事でありますし、しいては視覚障害者の社会参加の礎にも繋がると考えております」

「そういう団体がうちの地域でも活動してほしいと思っているんですよ」

「ランプの会は我が地元が誇る横浜一の団体ですから」

大人3人の話が盛り上がり、僕と戸塚は黙ったまま蚊帳の外にいるような疎外感を感じていると

「あら、ごめんなさいね。あなたたちのほうが先だったわね」

と田場さんはやっと僕たちの存在に気づき、戸塚のお父さんと宮城先生は「ごめんごめん」と言いながら強縮していた。

 「これなんだけどね」と、僕たちの前にバサリと何かを置いた。手を伸ばすと、例の仮原稿があり、僕は点字、戸塚は拡大原稿をそれぞれ手に取った。点字の原稿には表紙と目次、そして学校長の挨拶とほんの2・3人分の原稿が点訳されていた。

「こんな感じで作成しようと思っているんだけど、どうかしら?」

「点字はいいと思いますよ。レイアウトも整っているし、適当なスペースもあるから読みやすいし……」

戸塚は「うーん」と唸りながら

「……私は読みやすいんですけど、他の弱視の人はどうかなって。人によっては文字の大きさや字体を変えたほうがいいという人がいるかもしれないし……」

「そうね。弱視の人の見え方は個々それぞれだから、拡大については一人の意見で決めるのはちょっと難しいわね」

「もしよければ、これ学校にもって行ってもいいですか? 他の弱視の生徒や先生にもお見せして、その結果を後日伝えたいんですけど」

「そのほうがいいわね」と田場さんは了解してくれた。

「それ差し上げるから、2・3日くらいでお返事いただけないかしら?」

「ありがとうございます」と戸塚はゴソゴソとカバンの中に仮原稿をしまいこんだ。

 「ご面倒おかけしますが、どうぞよろしくお願いします」と僕は挨拶し、これで失礼しようと準備をしていると、束さんは急に「あら?」と言い

「宮城さん、右手の前のほうにお茶お出ししていたんですけど、お気づきでしょうか?ちゃんとお伝えしなくて申し訳ありません」

と謝罪した。田場さんが言っているのは、応接室に通された時に出してくれた緑茶のことで、どうやら宮城先生はまだ口をつけていなかったらしい。

「いえいえ、ちゃんとわかってますよ。お気遣いいただきありがとうございます」

「そうですか。いや、時々こういうちょっとしたことがきちんとお伝えできないことがあるんで、つい……」

「ちょっと今は水分を控えなければならないので」

と宮城先生が言うと「どうかされたんですか?」と戸塚のお父さんが尋ねた。宮城先生は少々言いにくそうに

「……実はね、去年から……」

宮城先生の話に、戸塚のお父さんは「そうだったんですか!」と驚き、田場さんは「それはそれは、大変ですね」と労い、戸塚は「そうなんですか……」と胸をつかれたような弱弱しい声音で応じていた。

 瞬時に僕は先ほどの宮城先生との握手のことが脳裏を過ぎり、僕の中に衝撃が走った。戸塚のお父さんや田場さんはしきりに「大丈夫ですか?」とか「ご自愛ください」と言い、宮城先生は快活な調子で「そんなに心配することはないですよ」と笑って応じていたが、僕は身震いするような動揺を覚え、何も言葉が出なかった。

「どうしたの沢木くん?」

ぼんやりしていたせいか、戸塚が心配そうに声をかけてきた。「いや、何でもない」と生返事をし、僕は席を立った。

「それでは失礼します。お父さん、私先に帰ってるね」

僕たち2人はエレベーターホールに向かって歩いていたが、空ろな表情を浮かべてぼーっとしていたせいか、再度戸塚は「どうしたの急に……」と怪訝そうな声音で聞いてきた。心の動揺が落ち着くに連れ、記憶の中のいくつもの情報が浮かんでは消えていく。僕の頭の中で、バラバラだと思っていたいくつもの点が、ゆっくりと繋がり合ってひとつの線を作ろうとしているが、僕の心が線になることをどうしても許さなかった。信じられない、信じたくない、できることなら杞憂に終わってほしいと切望するが、一度頭に浮かんだ推測はそんな僕の気持ちとは裏腹に、僕の頭の中に、そして心の中にどっかりと居座っている。

 駅前で戸塚と別れ、彼女は東口、僕は西口のバスターミナルに向かった。帰宅するなり母から「すぐできるからカバン置いたら食堂にいらっしゃい」と言われたが、あまり食事する気分にはなれず「調べ物があるから、2・30分したら行く」と言い残し、僕は自室に入るや否やパソコンの電源を入れた。(続)

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