真夏の潤い(5)

 「もうちょっとゆっくり歩いてくれよ」

「歩いているわよ」

戸塚がブスっとした調子で答えた。放課後、僕と戸塚は駅前商店街を抜けた国道沿いにあるバス停目指して歩いていた。というのも、僕たちは「創立120周年記念事業委員会」の委員をしているのだが、うちの学校が今年で創立120周年を迎えるにあたり、今年の秋の文化祭までに記念誌を作成することになっている。記念誌の内容は、在校生や卒業生、ゆかりの深い先生方などから、現在の学校の様子・在学当時の思い出・これからの視覚障害児教育に求めることなどについて執筆していただき、集めた原稿を冊子にし、文化祭で配布するのだが、この記念誌作成が思った以上に難航した。5月の連休明け、先生たちが名簿等を頼りに執筆してくれそうな人をピックアップし、原稿依頼をした。分量は、スペースやレイアウトの関係もあって、400字詰原稿用紙1枚、点字で提出する場合は600文字程度とし、1ヵ月後の6月上旬までに提出するようお願いしたが、実際は締切日を過ぎても思ったほど原稿が集まらず、催促の電話を入れなければならない、また提出しても分量がはるかにオーバーしているなどの理由で修正や再提出をお願いしなければならないなどのトラブルが重なり、結局全ての原稿がきちんと出揃ったのは、6月の半ば過ぎのことだった。しかしながら、提出された原稿は点字で書かれたもの・手書きで書かれたもの・パソコン入力されたデータ形式になっているものなど、媒体がまちまちなので、それら全てを活字と点字にしなければならない。活字と同様、展示の文書を作成するためのパソコンソフトもあるので、全盲の生徒が点字の生原稿を読んで、点字と活字のデータを、弱視の生徒が活字の生原稿を読んで、同じく点字と活字のデータを作成する。そして、それらのデータを元に製本し、通常の活字版に加え、点訳版・拡大文字版・録音版の4媒体を作成するわけだが、点字の本を作成するとなると、学校にある印刷設備だけでは不十分だし、何よりも製本作業そのものが学生の手にあまる。そこで、製本作業についてはNPO法人ランプの会に依頼することになった。

 「ランプの会」とは、主に横浜市内に居住する一般市民の方たちが運営しているボランティアグループで、視覚障害者への情報保証を目的に、点訳・音訳・拡大などを行っており、数年前には法人格を取得しNPO団体として活動している。

 当初の予定では、夏休み前に、全ての原稿をデータ化したものを入稿することになっていたが、回収が思うように進まなかったことから、急遽原稿を受け取り次第すぐに点字・活字のデータにし、ある程度まとまったところで、順次ランプの会にメールで送ることになったのである。

 メールによる入稿がほぼ完了した頃、ランプの会から学校に連絡があり、原稿の一部を仮点訳及び仮拡大してみたので、レイアウトや文字の大きさなど実際に見て確認してほしいとの依頼があった。ランプの会の事務局はJR鶴見駅の傍、つまり僕と戸塚の地元ということで、僕たち2人はこれからランプの会の事務局に行き、仮原稿を確認しに行くのだ。

 地元とはいえ、下校ルートとは全く外れてしまうので少々面倒な思いを感じていることは否めないが、依頼内容はただ原稿を読んで読みやすい・読みにくいなどの感想を伝えるだけ。作業としては楽なものだが、僕にとっての最大の問題は、同行する戸塚の機嫌が非常に悪いということだ。15分休みの一件があってからというもの、昼休みや5・6時間目の授業、そして掃除の時間でさえもほとんど口を開かず、動作もどことなく荒々しいものを感じる。このような不のオーラは目が見えなくても伝わるもので、僕や武ちゃんや直樹は、この件については無関係であるはずなのに、いつものように気軽に声かけられない空気を察知し、3人とも戸塚とは距離を置いている。

 また、掃除が終わって、特別教室の鍵を返しに職員室に向かっている途中、15分休みのことなど全く知らないはずの中学部の後輩から

「昼休みにみんなでバレーしてたとき、戸塚さん何だかイライラしているような気がしたんですけど……何かあったんですか?」などと聞かれる始末。

「どうしたんだろうな、あいつ」と適当にお茶濁しておいたが、そのあいつとこれから2人きりで出かけなければならないと思うと少々うんざりする。

 教室に戻るや否や、「そろそろ行くわよ」と、カリカリプリプリした感情を凝縮したような声音で呼びかけ、僕の準備が整うとすぐに教室を飛び出してしまった。正直、ここまで自分の感情を、周囲の目も気にせずに、ストレートに表現できる人も珍しい。

 一応右腕を捕まらせてくれたが、歩くスピードが異常に速い。あまり話しかけられる雰囲気ではなかったが、さすがに歩きにくいので「ゆっくり歩け」と言ったところ「歩いている」と、完全に僕のお願いは無視されてしまった。女の子とはいえ、普段から体を動かしている戸塚の早足に、机にへばりついてパソコンや読書ばかりしている万年運動不足の僕の足が追いつくわけもなく、僕は彼女に振り切られないよう必死に足を動かしていた。

 彼女に出会って3年経つが、こんなに不機嫌な戸塚を見るのは初めてかもしれない。戸塚は、何かいやなことがあると、ほぼ必ずといっていいほど僕や武ちゃんや直樹に愚痴をこぼしたり、一人でぶつぶつと文句を言っている。おそらく、心の中の不快感を言葉にして体の外に吐き出すことで、自分の気持ちを静めているのだろう。実際、昼休みにぶつぶつ文句言っていたと思えば、放課後には何事もなかったかのようにケロっとしていることも珍しくない。

 しかし、今の戸塚は、15分休みに起こった上原さんとの一件については一言も口にしていない。あくまでも僕の想像だが、おそらく今心の中に渦巻いている感情をそのまま言葉にするということは、上原さんに対する怒りとか憎しみといった誹謗中傷が飛び出すことは想像に難くない。しかし、それを口にしてしまうと、彼女の中で大切に積み上げてきた上原さんへの信頼感なり友情を自らが踏みにじることになり、結果として自分で自分を傷つけてしまうことにもなりかねない。

 戸塚は、生まれつき視力が弱かったため、幼稚園の頃からうちの盲特別支援学校に通っている。入園当時、戸塚の他に直樹と美奈ちゃんがおり、小学部に上がったときに武ちゃんと雄介が入学してきた。そして、中学部に上がったときに僕が入学してきたわけだが、9年間の義務教育時代、戸塚たちはほんの5・6人しかいないクラスで学校生活を送ってきた。戸塚と同性のクラスメイトに美奈ちゃんがいるが、彼女には大変失礼な物言いになってしまうが、視覚以外にも障害をもち、会話など、コミュニケーションを取ることそのものが難しい美奈ちゃんとは、戸塚が望むような友達付き合いはできないと思う。小学生の頃から武ちゃんや直樹とは仲良しだったが、多分同じクラスに自分と気の合う同性の友達がいないことに、寂しさを感じることがあったに違いない。

 中学生の頃、戸塚は登校してカバンを机に置くや否や、すぐに他学年のクラスの女の子のところへ遊びに行っていた。昼休みには体育館でバレーボールをし、部活のない放課後にも他学年のクラスで他の女の子たちと群がり、そのまま一緒に下校することもあった。

 しかし、この春に上原さんが入学してきたことで戸塚の学校生活はガラリと変わった。昼休みのバレーボールは相変わらずとしても、朝は教室で上原さんが登校するのを待っているし、放課後には2人きりまたは僕たち男子も交えて他愛のないおしゃべりに花を咲かせたり、どちらかが休んだときには、上原さんが点字、戸塚が活字のノートを読み上げて書き写していることもあった。きっと、戸塚にとって上原さんは10年近く待ちわびていた気の合う同性のクラスメイトと言っても決して過言ではないだろうし、掛け替えのない友達でもあるはずだ。その掛け替えのない友達から浴びせられた威圧的な発言と不機嫌な態度……。創造すらもしていなかった上原さんの言動に、戸塚は深く傷ついたことだろうし、何が上原さんの気に障ったのか、その場に居合わせた僕ですらもよくわからないのだから、当の戸塚は、なぜあんなこと言われなければならないのか困惑していることだろう。そして、自分の中にある不快感をどう発散すればいいのか、気持ちを落ち好ける術がないことに戸惑っているはずだ。

 「なあ……」と僕はおそるおそるといった感じで戸塚に声をかけたが、彼女からは何も反応がない。かまわず僕は「……15分休みにさぁ……、オレたまたま戸塚たちの話聞いていたんだけど、別におまえは上原さんに対して何も失礼なことは言っていないと思うぜ……」

「あっそ。人の話盗み聞きしないでよね」

と戸塚はこちらの方には目もくれず、真っ直ぐ正面を見るような調子で言い放った。盗み聞きも何も、あれだけ大きな声で話しているのだから、同じ教室にいればいやでも耳に入ってくる。戸塚の物言いにちょっとカチンとくるものがあったが、僕まで不機嫌になってしまっては話が進まない。ここは少しだけ大人になって気持ちを落ち着けて

「……オレ思うんだけど、今回はお互いの気持ちというか、伝えたいことがちゃんと届かなくて、すれ違いが起こっちゃったような気がするんだ……」

戸塚は何も答えない。僕は慎重に言葉を選びながら

「傍で聞いていても、戸塚の言葉に何か上原さんを怒らせるようなニュアンスなり意味が含まれているようには思えないんだ。でも、自分は普通に会話しているつもりでも、聞き様によっては相手を不愉快にさせたり、傷つけてしまうことだって充分ありえるんだ。だからって、それを口にした人が悪いというわけじゃなくて、こちらの言葉に対して相手がどんな感情を抱くかなんてわかりっこないんだから、お互いの気持ちがすれ違っちゃったとしてもある意味仕方のないことなんだよ……と思うよ。今はイライラしているから冷静に考えることができないかもしれないけど、お互いの気持ちが落ち着いたところで、あのときの自分の気持ちなり伝えたかったことを改めて話してみれば、わりとすんなり誤解が解けるかもよ」

「別にイライラなんかしてないもん。大きなお世話だよ!」

 今の戸塚には何を言っても無駄らしい。ここまで心を砕いても、肝心の戸塚が聞く耳をもっていなければ意味がない。少々投げやりな気分になった僕は、心の中で「もう知らん、勝手にしろ!」と毒づいた。そのとき、ガスッと右ひざに鈍い痛みが走ったかと思うと、戸塚の「あっ!」という叫び声が耳に入った。次の瞬間、僕のすぐ前でガッシャーン……ボトボトと聞こえ、「大変!」と戸塚は状態を屈めてしまった。ひざの痛みは大したことはないが、突然のことに何が起こったのか状況を把握することができず、ぼんやりと突っ立っていると

「馬鹿野郎!」

と怒鳴り声が聞こえ、ドタドタと誰かが近寄ってくるような気配を感じた。声の調子から推測すると、おそらく50前後くらいの男の人で、怒鳴りつけてきたせいもあり、恐持てのいかつい親父のような印象を受けた。更に降りかかってきた出来事に、僕はすっかり動揺し、戸塚は屈んだ姿勢のまま「……ご……ごめんなさい」とおたおたしている。

「何ぼんやり歩いているんだよ! 荷台のもの全部道にぶちまけやがって! これ今買ってきたばかりなんだぞ!」

「すいません……」

先ほどのブスっとした態度はどこへやら、戸塚は神妙ながらもはっきりした口調で再度謝罪した。僕にもだんだんと状況が飲み込めてきた。通学路は途中から駅前の大通りに入り、そこには様々な商店が並んでいる。おそらく、この男の人は自転車を使って買い物をしており、お店に入っているときに駐輪していたところ、たまたま通りかかった僕がぶつかって倒してしまい、今まで買ったものを全部ひっくり返してしまったのだろう。いつもなら、体がぶつかる前に戸塚が気づく、または僕のもっている白杖で察知することができるのだが、戸塚の心が乱れていたことで注意力が散慢になり、加えていつもよりも速い速度で歩いていたことで勢いがつき、僕たちが気づく前に倒してしまったのだろう。少しずつ事の重大さを認識するに連れ、背中にスーっとしたものが走り、僕の顔はだんだんと青くなった。

 取りあえず「すいませんでした」と頭を下げたものの、男の人の怒りは収まらず「おまえらなぁ」ときつい口調でなおも迫ってきた。

「どうするつもりだよ! 狭い歩道をぼんやり並んで歩くんじゃねえよ!余所見しながら歩くな!」

「……申し訳ありません」

僕と戸塚は声をそろえて誠心誠意誤ったが、男の人はバンと足を踏み鳴らし、忌々しそうに舌打ちした。

「ちゃんと前見ていないからこういうことになるんだよ、馬鹿野郎! どこに目つけているんだ! だいたいなぁ……」

突然男の人は言葉を切り、数秒間黙りこくってしまった。

「……おまえら目悪いのか……」

今までの勢いが急に衰え、気の抜けたような声音で呟いた。どうやら僕たちの目の色、または僕がもっている白杖に気づいたらしい。「目悪いのか?」と聞かれても、どう答えたものかと僕たち2人が躊躇していると、思わず出てしまった自分の失言に動揺したのか、言葉にならない声を2・3度呟いたかと思うと

「もういい。さっさと行け」

と小声ながらも吐き捨てるような調子で言い、黙ったままあたふたと散らばった荷物をかき集めるような雰囲気を察知した次の瞬間には自転車に乗ってどこかへと行ってしまった。

 男の人がいなくなってからも、僕はぽかんと突っ立っていたが、今まで屈みこんでいた戸塚がすっくと立ち上がり「なあに、アレ!」と先ほどのようなブスっとした声音で呟き

「自転車倒したのは私たちのせいだけど、何が『ちゃんと前観ていないから』よ! こっちは元々見えにくいっつーの。知らないからって言っていいことと悪いことがあるわよ! しかも私たちが視覚障害者だってわかったとたん急に逃げ出して、感じ悪いったらありゃしない!そもそも通学路の点字ブロックの上に自転車止めとくなっつーの!非常識もいいとこよ!」

今日は戸塚にとって厄日なのか、15分休みの一件で不機嫌になっているところに加え今のハプニングだ。「行くよっ!」と戸塚に怒鳴りつけられるような声音で言われ、僕は腫れ物にでも触るような手つきでこわごわと彼女の右腕を掴んだ。僕は戸塚に引っ張られながら一緒にバス停目指して歩いていたが、道々彼女は「たくもぉー!」とか「あったまくんなぁ!」とか「むかつくなぁ!」など、苛立ちながらぶつぶつと言い続けている。ここまで気持ちが乱れてしまうと、もう何も言うことができない。僕はできるだけ彼女の神経を逆なでしないよう、口を真一文字に結んで、黙ったまま彼女に着いて行った。

 国道沿いを走るバスに揺られること30分弱、終点で下車した僕たちはランプの会の事務局がある駅前の雑居ビル目指して歩いた。区内に住んでいる視覚障害者には有名な団体なので、ほとんど迷わずにたどり着くことができ、僕はやっと緊張の糸を緩めることができた。彼女には悪いが、今の戸塚と一緒にいると、こちらまで不愉快な気持ちにさせられる。僕はさっさと依頼を済ませ、彼女の傍を離れたかった。1階の自動ドアを抜け、エレベーターホールに入ると、突然戸塚は「あ!」と小さな叫び声をあげた。また何か起きたのかと、僕はうんざりしながらも身をすくめていると、前方から「おや?」という、優しげでのほほんとした中年くらいの男の人の声が聞こえてきた。

「どこかで聞いたことのある声だな」

と記憶の糸を手繰り寄せていると、戸塚がその男の人に向かって叫んだ。

「お父さんじゃない!」(続)

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