真夏の潤い(4)

 うだるような暑さとはまさにこのこと、夏とはいえ朝からこの暑さはたまらない。僕は額にうっすらと汗を浮かべながら、学校までの道のりを急いでいた。

(今朝は滝沢さん、上原さんと一緒に登校してくるのだろうか……)

ふとそんな考えが頭を過ぎった。他人事とはいえ、部活の先輩とクラスメイトに関わることだけに、昨夕から何となく心に引っかかっている。気になる女の子から不可解な態度をされた、他の男の人と仲良くしているところを見かけた、そんな心の傷を抱えた状態で、いつものようにホームの上で電車を待っている彼女の姿を見かける。多分、僕だったらいつものように声かける勇気は出ないと思う……。滝沢さんの胸の内を想像すると、僕まで気持ちが沈むような心地を感じるのはなぜだろう……。

 8時20分過ぎ、上原さんが教室に入ってきた。僕は耳を使って、彼女の声色や戸塚との会話の内容から自分なりに観察してみたが、上原さんの態度に変わった様子はないように思える。別にイライラしていないし、特に落ち込んでいる風でもない、まさにいつもの上原さんだ。やはり、一昨日の缶ジュースの件は、たまたま機嫌が良くなかっただけなのだろうか。

 朝のショートホームルームが終わると、1時間目の授業が始まる。うちの盲特別支援学校では、各生徒の身体状況や学習能力に応じた4つのコースが設けられており、卒業後の進路を踏まえたカリキュラムが組まれている。僕と上原さんと戸塚と林は同じコースなので、自然とこの4人といる時間が多くなる。

 今日の午前中は、時間割の関係で1時間目から4時間目まで同じ普通科1年生教室で受ける授業が重なっている。室内プールを備えたうちの学校でも、冷房があるのは音楽室やLL教室などの一部の特別教室だけで、一般教室には設置されていない。一応、授業中は窓を全て開け放しているが、ほとんど風が入ってこないどころか、かえってセミの声が耳につくばかりで、先生の話に全く集中できない。暑いのは先生も同じようで、教科書を読み上げたり、開設をする声に、何となく張りのない、やや気だるそうな調子が含まれているように思えた。

 午前中の授業も半分が終わり、2時間目と3時間目の間の15分休みになった。僕は朝からのうだるような暑さにすっかり参ってしまい、点字用紙を団扇代わりにバタバタと扇ぎながら、机の上で伸びていた。すでに武ちゃんと直樹が教室に戻ってきており、誰も出て行った様子がないことを考えると、おそらく林も教室にいるのだろう。林は無口な男なので、すぐ傍にいてもこちらが察知できないことが多々ある。

 机の上でぼんやりしていると、右隣の戸塚と上原さんの会話が自然と耳に入ってきた。

「上原さぁん、今日は何だか元気ないみたいだけど……、大丈夫?」

「……うん、平気だよ。……でも急に暑くなったから、ちょっとばててるかも……」

「暑いよねー。私この時期になると無償にジェラートが食べたくなって、いつも学校の帰りにね……」

戸塚はアイスクリームが大好物で、夏に限らずほぼ1年通してよく買い食いしている。確かに去年の今頃、よく途中のコンビニでジェラート買っては幸せそうに食べていたっけと思い出した。あまりにも頻繁にジェラートばかり食べているので、僕は心の中では「太るぞ」と思っていたが、さすがに女の子にストレートに言うほど僕は非常識な人間ではない。あるとき戸塚から「沢木くんも食べたら、おいしいよ」と言われたので

「太るからいらない」

と言ったら、急に脛に激痛が走ったことも思い出した。

 女の子同士の会話を盗み聞きするような趣味はないが、耳に入ってくる2人の会話を聞いていると、戸塚が指摘したように、相槌を打つ上原さんの声音にはあまり元気がなく、少々大儀そうな雰囲気さえある。体調でも崩したのだろうか。僕の夏風邪が移っていなければいいのだが……。

「……ところでさ、上原さんってバレーボールは好き?」

と戸塚は急に話題を変えた。

「……うん……、好きだけど……」

「ホント! だったらさバレー部に入らない? 今年進入部員が全然入らなくって、秋に先輩たちが引退しちゃうとちょっと厳しくなるんだ。視覚障害者のバレーボールだからちょっとルールが違うんだけど、もし好きなら絶対に楽しいから一緒にやろうよ。上原さんまだどの部にも入ってないでしょ……」

(上原さんにバレー部は向かないだろ……)

僕は心の中で突っ込みを入れた。視覚障害者が行うバレーボールを「フロアバレーボール」と言い、文字通りボールを床に転がすようにして打ち合うのだが、近距離にもかかわらず、力いっぱいスパイクしてくるので、本当に体を張ってブロックしなければならないし、下手すれば顔や足の間にボールが直撃することだってある。僕はこのスポーツがいやで仕方ないのだが、視覚障害者の世界ではかなり人気のあるスポーツで、学生だけではなく、社会人も地元のクラブチームなどに入って、平日の夜や週末に楽しんでいるらしい。戸塚としては、クラスで一番仲の良い上原さんと一緒に部活もしたいという気持ちから誘っているのだろうが、いくら部員確保のためだからとはいえ、あんな痛い思いをする激しいスポーツに上原さんを誘うのは、ちょっと強引すぎやしないかと思う。

 案の定、上原さんもあまり気乗りしないらしく、「うーん……」と口篭もってしまい

「……面白そうだけど……、ルール違うからちょっと馴染まないかも……」

「ルールは違うけど、基本的には一般の6人制バレーボールと同じだよ。……もしかして中学のときとかバレーやってた?」

「……途中でやめちゃったけど……バレーボール部だった……」

「それなら是非入ってよ! 上原さんならきっと戦力になるから」

「……今はいい」

畳み掛けるような戸塚のラブコールに、上原さんの声のトーンはだんだん低くなり、困惑しているというよりも、むしろ迷惑そうな不快な調子を帯びているような気がして、机の上で伸びている僕は思わず体を硬くしてしまった。上原さんの口調の変化に気づかないのか、戸塚が続けて「そんなこと言わずにさ……」と言うや否や

「いいって言ってるでしょ、しつこいな!」

 僕は思わず扇いでいた手をピタリと止めてしまった。僕だけではない、教室内に流れている時間そのものが塞き止められたかのごとく、一瞬みんなの動きや呼吸が止まったような雰囲気を感じた。決して声高に叫んだわけではないが、いつもは静かめで落ち着いた話し方をする上原さんが、戸塚に向かって、威圧的とも取れる履き捨てるような言い方をしたことそのものに驚いてしまい、正直誰が発した言葉なのかすぐには理解できなかった。

 当の戸塚も何が起こったのかとっさに理解できなかったらしく、あれほど陽気に話していたにもかかわらず、一瞬言葉を失ったように黙りこくってしまった。時間にして10秒程度の沈黙をおいて、少しずつ状況が把握できるようになってきたのか、何かしらの感情がむくむくと芽生えてきたのか「……どうしたの急に怒ったりして……」と戸塚はおずおずと、そしてやや怪訝そうな声音を含めて上原さんに話しかけると「うるさいなぁ」と一蹴されてしまった。

「……そんな言い方しなくてもいいじゃない!」

戸塚はいきり立ち、だんだんと語気も強くなってきた。戸塚は根は陽気で快活な女の子だが、時々自分の気持ちをコントロールできずに感情的な言動が現れることがある。上原さんの態度に一種のパニックを起こしたのか、やや声を荒げて詰め寄っている。

(やばいな)

険悪な雰囲気に、僕は机にうつ伏せになりながらどうすることもできずにドキドキしていると、戸塚の真後ろの席に座っている林が

「……喧嘩するなら外出てやってくれよ」

とぼそりと、それでいてはっきりとした口調で言った。とたんに戸塚は不快感剥き出しに「何よぉ!」と、怒りの矛先を林に向けてきた。

 そのとき、タイミングよく3時間目の始業を知らせるチャイムが鳴り響き、間もなく数学の岡部俊彦先生が入ってきた。先生は凍りついたように身動きをしない僕たちを見て不思議に思ったのか

「おーい、もう3時間目始まっているぞー。高橋くんと武田くん、早く次の教室へ行きなさい。……沢木くん、いつまで寝ているんだ、早く準備しなさい」

僕は金縛りが解けたようにガバっと起き上がり、そそくさと教科書や筆記用具を机に並べ始めた。同時に、武ちゃんと直樹は一言もしゃべらず、2人そろってバタバタと逃げるように教室を出て行ってしまった。

(助かった……)

授業が始まったおかげで、戸塚のテンションも急激に下がり、険悪な雰囲気は息を潜めた。 その後は何事もなかったかのようにたんたんと授業が進められ、戸塚も上原さんも、先生の問いかけなどにはいつものように応じていた。しかし、それは上辺だけで、彼女たちの間には、ギクシャクとした不穏な空気が渦巻いている。2人とも、授業中はおろか給食の時間ですらも、隣同士であるにもかかわらず、お互い相手が存在していないように一言も言葉を交わさず、まるで互いを黙殺しているように思えた。

 戸塚はものすごい勢いで給食を食べ終えたかと思うと、さっさと体育館へ出かけてしまった。黙ってもくもくと給食を食べている上原さんは、そんな戸塚の様子を耳や肌で感じとりながら何を考えているのだろう。

 僕はお箸でつまもうと、給食の煮豆と格闘しながら、先ほどの出来事を思い返していた。戸塚は、上原さんにバレー部に入らないかと勧誘した……、ただそれだけだ。捕らえ方によっては、少々強引な誘い方だったかもしれないが、何度思い出しても、上原さんを不快にさせるような発言があったとは思えない。なのに、あのときの彼女の態度は、この3ヶ月間の付き合いで感じていた、明るくて礼儀正しい普段の様子からは全くかけ離れたものだった。会話の内容から、中学生の頃にバレーボール部に入っていたみたいだから、多分バレーボールそのものに不快感を抱いたわけではないはず。それならば、何が彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうか……。

 僕は15分休みの件と、昨日の滝沢さんの話を頭の中で重ね合わせてみた。滝沢さんは缶ジュースをご馳走しようとした、戸塚はバレー部に勧誘しようとした。普通に考えれば、どちらも別にどうということもないはずだが、とたんに上原さんの態度が変わってしまったこと、当の本人、いや、おそらく他の人にも何が彼女を不快にさせたのか原因がわからないことが共通している。しかし、どう考えても缶ジュースと勧誘、この2つを結びつける共通点が見つからない。もしかしたら、これら2つは直接は関係なく、彼女を不快にさせている根本的な原因が他にあるのだろうか。もしそうだとしたら、普段からイライラしていたり、始終不愉快そうにブスっとしていてもおかしくないと思うが、そんな様子はほとんどない。ほとんどないからこそ、今回のような態度を見せられると非常に面食らってしまう。やはり、滝沢さんと戸塚の何かに原因があるのだろうか……。

 僕にとっての最大の問題は、戸塚の機嫌がすっかり悪くなってしまったことだ。(放課後までに戸塚の機嫌が直ればいいな……)と思いながら僕は肩をすくめた。(続)

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