真夏の潤い(3)

 滝沢さんは急に黙りこくってしまった。

「何かまずいことでも起きちゃったんですか……」

と、僕はおそるおそるといった感じで尋ねてみると、「うん……」と話し始める前のような調子に戻ってしまった。多分、今まで話してくれたことは前座のようなもので、これから話そうとしていることが僕に聞いてほしいことなのだろう。急にテンションが落ちたこと、最初に言っていた「嫌われちゃったみたい」という発言からして、今までのような明るい話ではなさそうなことは容易に想像できた。

 「先週のことなんだけど……」と、滝沢さんは躊躇いながらも、少しずつ言葉を紡ぐようにして話し始めた。それによると、その日は部活がなく、特にすることもなかったのですぐに下校することにした。すると、昇降口のところに上原さんがおり、ちょうど彼女も下校するところだった。

 この頃にはすでに顔なじみになっていたので、滝沢さんは何も気負わず「一緒に帰ろうよ」と誘った。いつものように他愛のないことを話しながら駅へと向かっていたが、一緒に帰れる機会なんてめったにないとばかりに、ちょっと調子に乗った滝沢さんは

「ねえ、今日暑いし、時間もまだ早いからさ、何か冷たいものでも飲んで行かない?」

と誘ったところ、今まで快活に話していた上原さんが急に黙りこくり、滝沢さんの目には何となく困ったような表情になってしまったらしい。

「……ごめん、今日はちょっと……」

と上原さんはぼそりと言った。誘いに応じてくれなかったのは正直残念だったが、突然だったし、彼女にも都合というものがあるだろうと納得し、その日はそのまま帰った。

「まあ、そういうことはよくあることですよ。別に気にすることでも……」

「これはこれで別にいいんだ。ただな、昨日のことなんだ……」と滝沢さんは話しつづけた。

 昨日の放課後、やはり特にすることもなかったので、滝沢さんはもしかしてと淡い期待を抱きながら昇降口に向かうと、案の定ちょうど上原さんも下校するところだったので、前回と同様一緒に帰ろうと声をかけた。

 下校中、お茶に誘いたい気持ちに駆られたが、理由は何にしろまた断られてしまうのが怖かったため今回は諦めることにした。もうすぐ梅雨明けを迎えようとしている7月の午後、日は傾きかけているとはいえ、初夏の日差しが容赦なく照り付け、滝沢さんは喉が渇いて仕方なかったし、隣の上原さんも暑さにやられたのか、何となく元気がないように思えた。

 ホームに着くなり「ちょっと待ってて」と上原さんを残して、滝沢さんは自動販売機に向かった。一人だけ飲むのも何だしと思い、軽い気持ちでオレンジジュースを2本買うと、すぐに上原さんのところに戻った。

「これ」と滝沢さんはオレンジジュースを上原さんの手に握らせた。きょとんとしている彼女に

「オレ喉渇いちゃったからオレンジジュース買ってきた。お金はいいから飲んでよ」

と言うと、上原さんはすっと手を突き出し

「……私いらない」

と滝沢さんにつき返した。

「えっ……。本当にお金のことなんか気にしなくていいんだよ……」

「……いい」

「……もしかしてオレンジジュース嫌いだった……?」

「いらないっ!」

いつもの上原さんらしからぬ破棄捨てるような言い方に一瞬あぜんとしてしまったが、上原さんが強固なまでにつき返そうとしているオレンジジュースを受け取り、そのままカバンにしまいこんだ。

 それからというもの、上原さんの表情は硬くなってしまい、すっかり無口になってしまったが、当の滝沢さんは何が彼女を不快にさせてしまったのか理由がわからず、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 「上原さん、かなり遠慮深いところあるから、いくら缶ジュース1本だけとはいえ、そう気軽におごってもらうような人じゃないと思いますよ。だから、そんなに重たく考えることではないと思うんですけど……」

かなり思いつめているような雰囲気を感じたので、僕は励ましの気持ちをこめて軽い調子で言ってみたが、滝沢さんは「それはな!」とやや語調を強めて

「ただオレの話を聞いただけならそう思うかもしれないけど、そのときの彼女はなぁ、何て言うか……、いつもの上原さんらしからぬブスっとした不機嫌そうな声音で、あんまり雰囲気よくなかったんだよ。……オレはただ蒸し暑いからちょっと喉でも潤してほしいなって気持ちだけだったのに、あんな風な態度取られちゃ……気にするよ」

そのときの様子を思い出したのか、話しているうちにだんだんと声のトーンが下がり、最後のほうには消え入りそうなくらい弱々しい声になっていた。もし滝沢さんの表現が妥当ならば、はき捨てるような言い方やブスっとした不機嫌そうな声音というのは、いつもの上原さんの様子からは想像できない。

「つまりなぁ、彼女にとっては、オレは一緒に登下校する程度の友達ならいいけど、それ以上の関係になることは望んじゃいないってことなんだろうよ」と滝沢さんは投げやりな調子で言うので、僕はフォローのつもりで

「……よくわかりませんが、それは被害妄想というか考えすぎなんじゃないですか……」と言ってみたが

「だったら缶ジュースくらいもらってくれてもいいと思わないか? あそこまで拒否するってことは、オレとは一定の距離を置きたいんだよ。……それに証拠だって掴んだもん」

「……証拠って?」

「上原さん、彼氏がいるんだよ」

「ほお!」と僕は思わず驚きの声をあげてしまった。意外といえば意外だが、上原さんの性格とか雰囲気を考えればそういう人がいても決しておかしくはない。勢い込んで「どうしてわかったんですか?」と聞くと「今日たまたま見かけたんだ」と答えた。

「……今日?」

放課後のこと、今日は部活のある日なので、僕と滝沢さんはコンピュータ室にいた。活動が始まってから間もなく、プリンターのインクが切れていることに気づき、滝沢さんは事務室までインクを取りに行った。事務室は昇降口の傍にあるのだが、ふと見ると出入り口のところに立っている上原さんの姿を見つけた。特にどの部にも入っていない彼女は、部活動のある日は、掃除が終わるとほぼ必ずすぐに下校している。実を言うと、滝沢さんは今朝もいつもどおり上原さんの姿を見つけたが、昨日のこともあり声をかけることができずにいたのだ。

 声をかけようかどうしようかと戸惑いながら2・3歩彼女のほうに歩み寄ると、上原さんの前に1台の車が停車していることに気づいた。うちの学校はスクールバスが出入りする関係で、昇降口を出ると駐車スペースがあり、すぐに通りに出られるようになっている。

 すると、上原さんの傍に見慣れない男の人が現れ、とても親しげな様子で彼女の手を引きながらゆっくりと目の前の車の助手席に乗せると、その男の人は運転席のほうに回り込み、数秒後にはそのまま走り去ってしまった。

「その男の人ってどんな人でしたか?」

「……どんな人って言われても……。年齢はオレくらいだと思うよ」

「……言い切れますか?」

滝沢さんは弱気な口調で「……多分」と言った。滝沢さんが見えていると言っても、彼も視覚に障害のある弱視だ。たまたま目に入ったからとはいえ、きっと初めて見かけた人の容姿なんてきちんと把握できるとはちょっと思えないし、親しげな様子と表現していたが、おそらく滝沢さんの思い込みも入っていることだろう。

「ご兄弟とか、家族の方が迎えにきただけじゃないですか?」

「あのな! 上原さんは普段一人で登下校しているんだ。わざわざ家族が学校まで迎えにくる必要なんてないだろ」

言われてみればその通りだ。滝沢さんは続けて

「ご兄弟って言ったけど、彼女お兄さんとかいるの……?」

「……わかりません、聞いたことないです。つーか滝沢さん聞いたことないんですか?」

「……オレも聞いたことない。家族の話なんて全然しないからな……」

この3ヶ月を振り返っても、僕が上原さんとまともな会話を交わしたことなんてほとんどないし、家族構成など彼女のことについてはほとんど何もわかっていないことに気づかされた。

「……あの様子だと、きっとその男とデートしに行ったんだよ、そうに決まってる」

うちの学校では極めて珍しいことではあるが、女子高生が放課後、校門前で待っている彼氏の車に乗ってデートするというのはありえることなのかもしれない。

「……先週から今日くらいまでさ、上原さんに何か変わったことあった?例えば落ち込んでいる様子だったとか、イライラしているみたいとか……」

僕なりに上原さんの最近の様子を思い出してみたが、いつも戸塚と仲良くしているし、授業中もいたってまじめだし、昼休みは図書館で録音図書を借りるなど、これといっていつもと変わったところはないように思える。

「……特に変わった様子はなかったと思いますよ」

「さっきのおまえの反応をみると、上原さんに彼氏がいるとかいないってことについては全然知らないみたいだな」

「初耳です」

滝沢さんはため息をひとつつくと、残りのオレンジジュースを一気に飲み干し「つまらない話につき合わせて悪かった」と言いながらトレイを持ち上げた。

「一応受験生だから、あんまり遅いとうっさいんだ。そろそろ出ようか」

と言われたが、あいにく僕が乗るバスがくるまでしばらく時間がある。

「バスがくるまで2・30分ほどあるんで、オレはもう少しいます。オレに気使わなくても大丈夫ですよ」

「そっか……。悪いな、お疲れ」

 僕は真正面のカウンターで2杯目の飲み物を注文し、再びソファに腰をおろした。アイスコーヒーを口に含みながら、僕は滝沢さんの話について順を追って思い出していた。新入生歓迎会での出会い、白杖のハプニング、滝沢さん朗読のMDなど、甘酸っぱくもほんのりとした温かみを感じさせる前半の話とは対照的に、滝沢さんが差し出したオレンジジュースをかたくなに拒否したり、放課後に見知らぬ男の人の車に乗って行ってしまうなど、いつもの上原さんらしからぬ不可解な点が目立つ。

 しかし、上原さんも一人の人間だ。時には不愉快な気持ちを相手にぶつけてしまうこともあるだろう。それならば、何が彼女を不愉快な気持ちにさせたのかが問題だ。滝沢さんは、上原さんを残してオレンジジュースを2本買い、ごちそうするつもりで彼女に手渡した。今思い出しても、別に不愉快になるようなことなどはなかったように思える。それならば、滝沢さんが上原さんの傍を離れたときに何か起こったのだろうか……。

 見知らぬ男の人の件だが、滝沢さんは上原さんの彼氏と断言していたが、実際は一緒の車に乗って行ったところを見ただけで、彼氏と断言できるものは何もないと思う。うちのような特別支援学校では、家族が車で生徒を迎えにくるということがよくあるのだが、滝沢さんも言っていたように、上原さんは普段一人で登下校しているので、わざわざ学校まで迎えにくるというのはちょっとありえそうにない。それとも、この日だけたまたま何かあったのだろうか……。

 滝沢さんの推理どおり、その男の人は、上原さんの彼氏ということならば、一応筋は通るが、僕としては何となく納得できないものがある。上原さん自身は性格いいし、多分容姿もかわいいだろうから、彼氏がいること自体はさほど不思議ではないが、もし仮に彼氏だとしたら、わざわざ学校の出入り口で待ち合わせるようなことをするだろうか。うちの学校は生徒数が少ないので、他学部の先生や事務職員、調理師など、たいていの生徒の顔と名前は学校中に知れ渡っている。出入り口は事務室からよく見えるし、今日の滝沢さんのようにたまたま通りかかった先生などいたら、場合によっては学校中のうわさにもなりかねない。普段の彼女の様子からして、果たしてそんな真似するだろうか……。

 しかし、結局のところ僕は上原さんのことについてはほとんど何も知らない。僕が知っている上原さんなんて、ほんの一部分だけであって、もしかしたら堂々と学校の前で彼氏と待ち合わせをするような大胆なところも隠しもっているのかもしれないなと思った。(続)

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