真夏の潤い(2)

 今日は僕が所属するパソコン部の活動日だ。掃除を済ませた僕は直接コンピュータ室に向かった。室内にはすでに数人の部員がおり、パソコンも数台立ち上がっている。僕はいつものように先輩や後輩と雑談し、いつものように活動前のミーティングが開かれ、いつものように使えそうなフリーウェアやシェアウェアの検証をし、いつものように最後のミーティングで活動内容を報告し、いつものように「お疲れ様でした」と声をかけてコンピュータ室を出て行くつもりだった。

 ドアに手をかけたとき、「沢木ちょっと待って」と僕のことを呼び止める者があった。誰かと思ったら、パソコン部副部長、普通科3年生の滝沢徹さんだ。彼とは僕が入部したときからの付き合いで、部活だけではなくプライベートな友人としても親しくさせてもらっている。滝沢さんから呼び止められることは別に珍しいことでも何でもないが、いつもと比べて声のトーンに張りがないことにちょっと引っかかるものを感じた。そういえば、今日はあまり元気がないような気がする。

「何でしょうか?」

と僕はくるりと振り返って、滝沢さんのほうに2・3歩歩み寄ると、彼のほうからもこちらに近づきながら「ちょっと時間あるか?」と聞いてきた。僕は「はい」と即答したところ、滝沢さんはやや小声で

「ちょっと駅前のハンバーガー屋寄ってから帰らねえ?」

とのこと。つまり、帰りにちょっと一服しようということらしい。部活が終わってからそのままみんなでお茶して帰ることはそれほど珍しいことではないし、たいていの場合滝沢さんがみんなに呼びかけているので、彼から誘われることも珍しくない。ただ、いつもなら数人誘っているにもかかわらず、今日はどうやら僕と2人きりで行こうとしている。

 何となく僕が不思議そうにしているのを察してくれたのか、滝沢さんは「おまえに話したいことがあるんだ……」と付け加えた。僕は「はあ……」とあいまいな返事をすると

「じゃ、昇降口で待ってるぞ」

と言い残してさっさとコンピュータ室を出て行ってしまった。

 教室に戻ると、軽音楽部の直樹とバレー部の戸塚が部活を終えて帰ってきており、2人から「一緒に帰ろうよ」と誘われたが、先約があるので適当に断り、僕はすぐさま教室を出た。

 昇降口に着くと、すでに滝沢さんが待っており、ハンバーガー屋へ向かう途中、僕は「何の話ですか?」と尋ねてみたが「まだ頭の中で整理できてないから、ちょっと待ってろ」と言うだけで何も教えてくれない。いつもなら、わりと陽気に何でも話したがるはずなのだが、今日は何だかやけに口が重い。仕方がないので、僕たちは何もしゃべらず、ただ黙って駅前にあるハンバーガー屋に向かった。

 入店するなり、僕たちはそれぞれ冷たい飲み物だけを注文し、うまい具合に空いていたカウンターの真後ろの席を陣取った。僕はアイスコーヒーに入れたガムシロップをかき混ぜながら、何を話すのだろうかと静かに待っていたが、滝沢さんもオレンジジュースをストローでカラカラとかき回すだけで、一向に話し出す気配がない。痺れを切らした僕は

「話って何ですか?」

と切り出してみたところ、滝沢さんは「うん……」と少々気弱に応じたかと思うと「まあ、沢木には直接関係ないんだけど……」と口の中でもごもごと呟いたかと思うと

「おまえのクラスに上原香織さんっているじゃん」

と言い出した。取りあえず「はい」と相槌を打つと

「……オレどうも嫌われちゃったみたいなんだよね……」

と力なく呟いたので、僕は思わず「はいっ?」と裏返った声を出し、やや大きめな声で

「付き合っていたんですかぁ?」

と口走ってしまった。

「違うよっ、そういうわけじゃないよ。声でかすぎ!」

「すいません……」

と僕は反省の意味を込めてややしょぼんとした声音で謝った。2人が付き合っていると早合点してしまったのは、数ヶ月前のこと、滝沢さんのほうから、上原さんに興味があるようなことを漏らしていたのを覚えていたからだ。

「だったら何なんです? 何か上原さんに失礼なことしたんスか?」

「……いや、別に失礼なことはしてない。……つーか失礼なことって何だよ?」

「……無理やり口説こうとしたとか……」

「アホっ!」

僕のおでこに何かが当たった。テーブルの上を手で探ってみると、滝沢さんが投げつけたと思われる、ストローを包んでいる紙を丸めたものが手に触れた。それを右手でこねくり回していると「何でおまえはそういう発想しかできんのだ?」と言われたので

「滝沢さん、ずっと前に上原さんに興味があるようなこと言っていたじゃないですか!」

と言い返した。滝沢さんは「ああ」と思い出したような声を出し、ちょっと閥が悪そうな感じで「そんなことも言ったな」と苦笑した。

 そして滝沢さんは咳払いをひとつして、「沢木の妄想が広がらないよう、ちゃんと説明するわ」と余計な前口上を述べてから話してくれた。

 僕たちの通う盲特別支援学校にも、生徒主体の自治組織となる生徒会があり、毎年4月には学年を超えた生徒同士の交流も兼ねて、生徒会主催の新入生歓迎会が催される。内容は、新入生の自己紹介、部活動や委員会などの学校紹介に続き、後半は予め決められたグループに分かれてお茶菓子を食べながら歓談するというものだった。そのとき、たまたま滝沢さんと上原さんは同じグループだったらしい。

「……まあー、なんだ、その……、彼女いつもにこにこしてるし、少しだけどしゃべってみて性格もよさそうな感じだったから、何となく興味が湧いてきたんだ」

ちなみに滝沢さんは弱視だ。上原さんは物静かであまり積極的に人に話し掛けるほうではなさそうだが、初対面であろうと彼女持ち前の明るさと礼儀正しさで誰にでも好意的に接してくれる人なので、滝沢さんが彼女について良い印象を受けたのはある意味当然のことだと思う。

「つまり一目ぼれですね」と僕が言うと「まあ、そんなとこだ」と滝沢さんは照れ隠しのつもりか、すました調子で応じた。

 ふと気づいたことだが、滝沢さんと親しくなって3年ほど経つわけだが、こんな風に恋愛に関する話をされるのは今回が初めてだと思った。思い返せば、滝沢さんに限っていえば、どこかのクラスの女の子に片思いをしているらしい、付き合っているらしいというような噂話すらも耳にしたことがない。滝沢さんは、うちの学校には幼稚園・小学部の頃から通っているらしい。

 あくまでも一般論なので一概には言い切れないが、特別支援学校は学校の性質上生徒数が少なく、生徒の中には自宅と学校を往復するだけという者もいるらしいことから、他の同世代の人たちと比べて、出会いが少なく、なかなか好きな異性にめぐり合う機会が限られてしまうのかもしれない。多分、新入生歓迎会での上原さんとの出会いは、彼にとっての初めての恋だったのだろう。

 「で、先ほど嫌われたかもって言ってましたが……、その後何か上原さんにアプローチしたんですか?」

「それなんだけどな」と滝沢さんはやや声のトーンを低くして

「気になるし、仲良くなりたいとも思うんだけど、学年が違ったり、委員会や部活で顔合わせる機会もないから、歓迎会以来全く接点がなくなっちゃったんだ。ほら、オレ小心者だから、おまえのクラスに行って話しかけるなんて大それたことできないじゃん」

自分で自分のことを小心者と言うのはいかがなものかと思ったが、確かに滝沢さんは積極的に女の子にアタックできるタイプではないということには合点がいった。もちろん口には出さないが……。

 滝沢さんの話では、どうにかして上原さんに近づきたい気持ちはあるものの、きっかけがない以上、話し掛ける勇気すら出てこない。もんもんとした気持ちを引きずりながら学校生活を送っていた連休明けのある日のこと、滝沢さんは川崎市内に住んでおり、通学にはJRを使い、途中東神奈川駅で乗り換えて学校の最寄駅まで行くのだが、その日は寝坊してしまい、いつもよりも遅い登校になってしまった。

「遅くなったとはいえ、充分間に合う時間だったからいつもと同じように登校したんだ。でさぁ、東神奈川駅で降りて乗り換えの電車待っていたとき、何気なく周り見てみたら、なんと上原さんがオレのすぐ傍にいたんだよ!」

「はいはい」と僕は頷き

「確か、上原さんは磯子に住んでいるはずだから、方向は真反対だけど、乗り換えのために東神奈川で下車しますからね」

「オレ、マジで驚いちまってさ。まっさか乗換駅で上原さんが、しかも文字通り目と鼻の先にいるとは思わないじゃん。……だけど悲しいかな、彼女全盲だからオレのことなんか全然気づかないんだよね」

「そこで声かけてみたとか……」

「……いや」と滝沢さんはやや奥歯に物が挟まったような言い方になり

「……オレ小心者だからさ、なかなか話し掛けるタイミングが掴めないっつーか、勇気が出なくてさ……。同じ電車に乗ったけど、どう話しかけたものかとずーっと考えちゃって……。結局、上原さんの少し後ろを黙って歩くことしかできなかったんだ」

「それって完全なストーカーじゃないですか!」

「うるさいっ!」と吐き捨てるような調子で言い放ったが、僕はからかい半分で

「しかも、相手が気づかないことをいいことに、全盲の女の子の後追いかけるなんて最悪ですよ」

「失礼なこと言うなっ!」

と滝沢さんはストローの先で僕の額を突っついた。額についたオレンジジュースを紙ナプキンで拭きながら「で、どうしたんですか?」と先を促すと

「……上原さんとの距離を縮められるチャンスかもしれないと思ったから、その日から、わざと登校時間遅らせたんだ。そしたら案の定、上原さんも毎日同じ電車に乗っていたんだ……」

「で、毎日ストーカー行為を続けたと……」

「だからストーカー言うなっ!」

「ということは、今までのストーカー行為が上原さんにばれて嫌われたってことですね。それは自業自得ってもんですよ」

「だから違うんだってば……」滝沢さんの語気が荒くなり、ややイライラしているような雰囲気を感じたので、いいかげん茶化すのもやめて、僕は彼の話を黙って聞くことにした。

 しばらくの間は何も話しかけられずに、ただ黙って上原さんの傍にいることしかできなかったが、今から1ヶ月ほど前のこと、ちょっとしたハプニングが上原さんを襲った。その日もいつもと同じように滝沢さんは上原さんの姿を見つけ、彼女が並んでいる列の後ろについた。1・2分後、いつも乗る電車が入線し、停車するとすぐにドアが開いた。列に沿ってゆっくりと前に歩みだしたとき、「キャッ!」と小さな悲鳴のような声が聞こえた。上原さんの声だと気づくや否や、滝沢さんは反射的に数人前にいる上原さんの元に駆け寄った。

 すると、何かを踏みつけたような感触が足の裏に伝わり、さっと屈んで確かめると白杖が落ちていた。おそらく、電車から降りてきた人に、白杖を蹴飛ばされたか何かをされ、手から離れてしまったのだろう。動揺しているのか、こちらに背を向け呆然と立ちすくんでしまっている上原さんの姿を見るや否や、滝沢さんは白杖を掴んで立ち上がり、「落ちてたよ」と彼女の手に握らせると同時に手を引いて一緒に電車に乗り込んだ。

「あ……ありがとうございます……、助かりました」

まだ動揺が残る上原さんから言われ、はっとした滝沢さんは彼女の手を握り締めていることに気づき、慌てて手を離した。何を言えばいいのかドギマギしてしまったが、取りあえず

「普通科3年の滝沢です……」と名乗ったところ「ああ!」ととたんに明るい声音になり

「上原です。確か新入生歓迎会のとき同じグループでしたよね……」

滝沢さんはこのとき、生まれて初めて「天にも登るような心地」を感じたらしい。

「よかったじゃないですか、話し掛けられるきっかけがあって」

「そうなんだよ」と滝沢さんは得意そうになり

「その後は、学校のこととか趣味のこととか、たわいのないことを話しながら一緒に登校したんだ。そして、その日を境に毎朝彼女の姿を見つける度にちゃんと声かけて、一緒に学校まで登校するようになったってわけなんだ」

 それからの2人はほぼ毎日一緒に登校するようにはなったが、滝沢さんとしては、もう少し親密な関係が作れないかと機会を伺っていた。そんなとき、上原さんは小説やエッセイを読むのが好きで、暇さえあれば学校図書館や市の中央図書館から借りた録音図書を聞いているとの話を聞いた。

「へー、本好きなんだ。どういうの読んでいるの?」

「そうだなぁ……、コバルト文庫とか好きだから、主に恋愛とかファンタジーかな。それとミステリ系も好きだな」

「……ふーん。好きな作家とかいるの?」上原さんが自分の好きな作家の名前を何人か挙げた中に、滝沢さんが知っている作家が一人だけいた。

 僕はこの話を聞いた瞬間、驚きで思わず口の中のアイスコーヒーを吐き出してしまうところだった。僕が知る限り、滝沢さんが愛読しているのは雑誌かコミックの類で、活字ばかりの本を読んでいる姿なんて全く想像ができない。

「滝沢さん、小説なんて読むんスか!」

「……いや、本当のことを言うと、オレが読んだのはその作家の小説をマンガ化したもので、原作は読んでないんだ。でも、原作者の名前知っていたし、そのマンガ面白かったから興味もっていたのは本当なんだぜ」

「なるほど」僕は合点がいった。

 つい勢いで「オレもその作家好きだよ」と言ってしまったところ「ホント」と予想外なくらい食いついてきたので、若干やばいなとは思いつつも、そのマンガのタイトルを言うと「私も好き。あれ面白いよね」と嬉しそうに言った。マンガとはいえ、基本的には原作と同じストーリーなので、どうにか話を合わすことができた。

「好きな人は好きなんだけど、あまりメジャーじゃないから知らない人多いんだよね。初めてだな、知っている人にめぐり会えたなんて」

「ふーん」と滝沢さんは平然を装っていたが、内心は生まれてから2度目の「天にも昇るような心地」を感じていたらしい。

「この前新作が出たんだよね」

と急に突っ込んだ質問をされ、一瞬困惑したがここは正直に

「へえー、新作出たんだ。知らなかった」といかにも初耳といった感じで答えると

「そうなの。早速うちの学校の図書館に入れてもらうようにお願いしたんだけど、購入してから音訳ボランティアに依頼するでしょ。だから録音版ができるのはかなり先になりそうなのよね」

「そっか……」

「早く読みたいんだけど、こればっかりは仕方ないからね……」

「ところで、その新作のタイトルは何て言うの?」

このとき滝沢さんの頭の中には名案が浮かんだらしい。上原さんから教えてもらったタイトルを頭の中に刻み付け、学校に着くや否やコンピュータ室に駆け込み、その小説の価格や出版社などを調べた。下校後、滝沢さんは川崎駅構内にある比較的大きな書店に立ち寄り、例の小説を買い、自宅に帰るとすぐに拡大鏡とポータブルMDを用意した。

 次の日、いつものように東神奈川駅のホームにいた上原さんを見つけると「これ」と言いながら1枚のMDを握らせた。

「……これは?」と上原さんが不思議そうな声音で尋ねると

「昨日言ってた例の新作、まだ最初のほうしか入っていないんだけど、オレが読んで録音してみたんだ。よかったら聞いてみて」

「ええっ、うそ!わざわざ……」

「……オレも新作に興味あったから、読むついでに録音したようなものなんだ。だから気にしなくていいよ。……こういうこと初めてやってみたから聞き苦しいかもしれないけど……」

「聞き苦しいだなんて……、そんなこと気にしなくていいよ。ありがとう、とっても嬉しいよ。帰ったら早速聞くね」

この日から滝沢さんは、週に1・2回のペースで、小説を朗読したMDを上原さんにあげるようになった。恐縮しながらも嬉しそうに受け取る彼女の姿を観るたび、滝沢さんは毎回「天にも昇るような心地」を感じていた。

 「へぇー、やりますね!」僕は心の底から感心した。活字の本を点字にすることを「点訳」、朗読して録音することを「音訳」と言い、本の分量にもよるが、1冊の本を点訳・音訳するには数週間から数ヶ月かかってしまう。僕たち視覚障害者が新刊図書を読むまでにタイムラグが生じてしまうことは、ある意味仕方ないことなのかもしれないが、読書好きの人にとってはいつも歯がゆい思いをさせられていることは否めない。

「いい感じじゃないですか。上原さん本読むの好きだから、それってかなり高感度あがりますよ。全然問題ないじゃないですか」

「オレもそう思ったんだよね……」と今までの快活さが急に引っ込んで、突然弱気な口調に変わった。(続)

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