真夏の潤い(1)

 無駄なことが必ずしも無意味なこととは思わない。日がな一日ぼーっとしている休日、その場の衝動で財布の紐を緩めてしまったショッピング、テレビ番組等で得たマニアックな雑学。これらは「時間の無駄」とか「無駄遣い」とか「無駄な知識」と揶揄する人がいるかもしれない。確かに、時間だけはどう足掻いても絶対に取り戻すことはできない、自由に使えるお金なんて高が知れている、雑学なんて進学や就職試験には絶対に出題されないなど、マイナスな側面があることは事実だ。

 しかし、見方を変えれば、ぼーっとしながら空想に耽ることで想像力を豊かにしたり、お金を使うことそのものがストレス解消に繋がったり、雑学によって物の考え方や会話の幅を広げるなど、プラスの側面もある。僕の自論のひとつに、一見無駄なことと思われるようなものをたくさん積み重ねることが、人の魅力、心の豊かさ、考えの深さに繋がって行くものだと思っている。

 だが、世の中にはどう考えても無駄以外の何者でもないものも存在することは否めない。あと2・3週間もすれば待ちに待った夏休みになろうとしているある日の体育の時間、僕、沢木孝一が通っている盲特別支援学校も、他の学校と同様にこの時期は水泳が行われる。しかし、僕は先週末に夏風邪にかかってしまい、熱は下がったものの、まだ気だるさが残る病み上がりとあって、本日の水泳は見学している。先生たちからすれば、健康上の理由で授業に参加できないのは仕方ないとしても、一応体育の時間なんだから、授業の様子を見学することで学習しなさいという理屈はあるのだろうが、僕は全盲の視覚障害者だ。目が見えない者に見学しろとはどういうことだ?プールサイドにただ座っているのも暇なので、たまたま一緒に見学している生徒がいると、ついついおしゃべりしてしまうことがある。そうすると、決まってうちのクラスの担任である体育の川村一先生から

「見学者! 無駄話をしない!」

と一喝されてしまう、どっちが無駄なんだよ!

 うちの学校は、公立では珍しく、室内プールが設置されている。だから、雨が降っても気温が低くても、予定通り水泳の授業が行えるメリットはあるが、水着姿でも寒くないように室内の気温が高めに設定されているので、見学者にとってはジャージ姿で蒸し風呂に押し込められているようなもので、とにかく暑くてたまらない。しかも、今日の見学者は僕一人だけなので、こっそりと雑談することもできず、蒸し暑いプールサイドのベンチに腰掛けて、ただひたすら授業が終わるのを待つことしかできなかった。

 いや、厳密には見学者はもう一人いる。クラスメイトの上原香織だ。上原さんは今年の春に入学してきた新入生で、中学生の頃に事故だか病気だかで失明し、中学卒業後に生活訓練を受けてから高校進学した関係で、僕たちよりも2つ年が離れている。上原さんも何がしかの事情で今日の水泳は見学しているはずだが、プールサイドには彼女の姿はなく、なぜか図書館で読書をして過ごしているらしい。こんな蒸し暑いところにじっと座っているよりも、冷房の効いた図書館で点字の本を読んだり録音図書を聞いて過ごしたほうが絶対に有意義に決まっているが、他の生徒には許されていない。どうして上原さんだけなんだろう。

 知り合ってからまだたったの3ヶ月で、僕は同世代の異性と仲良くなることが苦手ともあって、上原さんのことはあまりよく知らないが、水泳の見学のことも含めて、彼女には時折不可解なものを感じることがある。上原さん自身は明るくて礼儀正しく、クラスで一番仲が良い戸塚直子はじめ、口下手な僕、無愛想な林秀幸、お調子者の武ちゃんこと武田陽一、ちょっぴり間の抜けた直樹こと高橋直樹にも好意的だし、重複障害をもつ近藤雄介と山本美奈にも丁寧に接している。

 そんな非の打ちどころのない性格の持ち主なのだが、時折何か物思いに耽るようにぼんやりしていることがあり、そういうときに呼びかけても、なかなか気づいてくれなかったり、反応もやや虚ろな感じで、心ここにあらずといった様子が伺える。そんな姿を目の当たりにする度、僕は彼女が普段表に出さない、心の奥底に潜めているネガティブな感情を垣間見たような気がしてならない。

 僕自身も小学校6年生の頃に網膜色素変性症で失明したという過去をもっているのだが、4年経った今でも、時折進学や就職に対する将来への不安、失明した現実を受け止めなければならない苦しみ、視覚障害者として生きていかなければならない空虚な気持ちを感じることがある。おそらく、上原さんも人生の途中で失明してしまったことについて、まだまだ心の整理がついていないのかもしれない。

 僕の中にそんな思い込みがあるせいで、彼女の明るくて礼儀正しく、誰にでも好意的に接する態度は、健気でしたたかな印象を与えるとともに、うっすらとした切なさが胸の中を駆け抜けることがある。

 授業も終わり、蒸し風呂のような室内プールからやっと開放され、僕は一人教室へと向かった。体育の授業は4時間目で、すぐに給食の時間になる。教室に向かう途中、あちらこちらで食器のふれ合う音を耳にしたり、食欲をそそるいい匂いが僕の鼻をくすぐった。

 教室に入ると「お帰り」と言われた、上原さんの声だ。他の生徒は着替えに手間取っているせいか、教室には彼女しかいない。上原さんは机を回りながらパタンパタンと何かを置いているようだった。

「……お盆配っているの?」

「そう」

僕の唐突な質問に彼女はあっさりと答えた。

「今週の給食当番、オレたちじゃないよ」と僕が言うと

「帰ってみたら誰もいなかったし、一人でじっと待っているのも何だからワゴン運んできちゃった」

盲特別支援学校では給食が出るのだが、1クラスの人数が平均10人前後と少ないので、1クラス分の食器なりおかずはひとつのワゴンに乗せられている。給食の時間になると、各階にワゴンごとリフトで運ばれてくるので、生徒はリフトのところまで行き、自分のクラスのワゴンを教室まで運ぶことになっている。

 うちのクラスは給食当番を2つの班に分け、隔週で担当することになっている。僕と上原さんは今週は当番ではないので、ワゴンを運んで配膳する必要はないのだが、着替えなどで帰りが遅れることを見越して、先に準備しているのだろう。こういうちょっとした気配りができる人を見ると、「大人だな」と感じる。

 上原さんが配膳しているのに、僕だけ座って待っているのも何なので、「オレもやるよ」と僕は牛乳ケースを掴んで配り始めた。間もなく、他の授業を受けていた雄介と美奈ちゃんが担任の原田雅子先生と補助職員の松川佳代先生に付き添われて帰ってきたが、先生たちは僕たちの姿を見るなり「気が利くねー」とか「素晴らしいっ!」と誉めはやした。

 その後、武ちゃんや直樹、林が次々とプールから戻ってきたが、今週給食当番の直樹が、僕が机の周りをうろうろしているのを雰囲気で察知したのか

「沢木ぃ、おまえ給食配っているの?」

「うん」

「どしたの急に?」

「おまえらがおっせえからだよ」

と僕は嫌味を言ってやった。直樹はフンと不満そうに鼻を鳴らしたが、こっちは当番でもないのに手伝ってやっているんだ、文句言われる筋合いはない。

 すると「ごっめーん。すっかり遅くなちゃったぁ」と今週給食当番の戸塚が教室に飛び込んできた。ほんの一瞬だけ帰ってくるのが早かった直樹は、さっき僕に言われた嫌味の鬱憤を晴らすがごとく「おっせえぞ戸塚! 何もたもたしてんだよ!」とやや攻めるような調子で言い放った。戸塚も負けじと

「女の子は身だしなみ整えるのに時間かかるのっ! これでも急いできたんだからね!」

と言い返した次の瞬間、上原さんが配膳をしている姿が弱視の戸塚の目に入ったのか

「上原さん手伝ってくれてるの!」

と素っ頓狂な声をあげ「ごめんね。私が遅くなったばっかりに……」と直樹のときとは対照的にしおらしい声音で謝罪し「あとは私がやるから」と席に座るよう促した。上原さんは微笑を浮かべているような声音で

「いいのいいの。女の子は身だしなみ整えるのに時間かかるもんね」

と言いながらギイと椅子をひいて腰掛けた。せっせとサラダをよそっている僕の姿も目に入ったのか「沢木くんも手伝ってたんだ、悪いね」と軽い調子で言ってきた。上原さんと僕、この差はいったい何なんだ?

 今週の給食当番が帰ってきたので、釈然としない気持ちを引きずりながらも、僕は自分の席に戻ることにした。上原さんの席の前を通りかかったとき、「あっ……」と彼女の声が聞こえたかと思うと、カラカラカラっと何かが床を転がるような音がして、僕のつま先にぶつかった。何かなと屈んで床を両方の手のひらで探ってみると、僕たちが授業中に点字でノートを取るときなどに使う筆記用具、点筆が手に触れた。きっと上原さんが机から誤って落としてしまったのだろう。僕は立ち上がると「落ちたよ」と上原さんに手渡そうとしたが、何分お互い目が見えないのでうまく手渡せないことが多い。「ありがとう」と差し伸べられた彼女の腕に僕の手がぶつかってしまった。次の瞬間にはうまく彼女の手の中に収めることができたが、ほんの一瞬、上原さんの腕に触れたとき、携帯電話のバイブレーションのようなジーンとした振動を感じた。少し違和感はあったが、上原さんに変わった様子がないので、気のせいだろうと思い、僕はそのまま自分の席に座った。(続)

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