春の快メール(6)

 ポンと右肩をたたかれたと思ったら「おはよう」と声をかけられた。

「ああ……おはよう」

もうすぐ12時になるというのに「おはよう」はないだろうと思いながらも僕は戸塚に同じ挨拶を返した。最近特に感じることだが、おはようというのは本来は朝の挨拶であるはずなのに、昼間であろうともその日会った友達にまず最初に交わす挨拶になっている。街中を歩いているときなど、やはり同じような感じで「おはよう」と言い合っているのを耳にすると、これもひとつの日本語の乱れなのかなとふと思ってしまう。

 僕は戸塚と2人国道沿いのバス停で先に落ち合い、一緒に待ち合わせ場所に指定したJR大口駅の改札口前に集合し、そこからみんなで渋谷で行われる副音声付映画を見に行くことになっている。再びバスに乗って10分、商店街の傍のバス停で降り、そこから徒歩で向かえば約束の時間には充分間に合う。

 2人でたわいのないことをしゃべりながら商店街をてくてく歩いていると、戸塚が急に「あ……」と小声で言い急に立ち止まった。「どうした?」と聞いても「うん……」と呟くばかりでまともな返事をしない。理由がわからず少しじれていると

「ごめんなさい。どうぞお通りください」

と右斜め前方から女の人の声が聞こえてきた。どうやら狭い歩道の真ん中で商品を見ていたのか何かで人が立ちふさがっていたので、戸塚はどうよけようかと迷っていたらしい。戸塚は少し見えているといっても普通の人のようにはっきり見えているわけではない。よけたつもりで陳列された商品などにぶつかったら面倒なことになる。

 僕らは声をそろえて「ありがとうございます」とお礼を言いながらゆっくりと女の人の前を通り過ぎようとしたとき、「あ」と今度は男の人の声が聞こえた。

「もしかして沢木くん?」

と男の人から急に名前を呼ばれたので少々戸惑いながら「……そうですが」とおずおずと答えると「やっぱり」と嬉しそうな声が返ってきた。一般的に、顔には見覚えがあるが名前が思い出せないということがあるように、僕は人の声を聞いてすぐに名前が思いつかないということがよくある。僕が返答に困って沈黙していると

「僕だよ、安藤だよ」

思いがけないところで思いがけない人に会い、僕は慌てて「ああ、どうも!」と改めて安藤さんに挨拶した。一緒にいる女の人が「知り合い?」と安藤さんに問いかけている。

「彼は僕と同じパソコン部の部員で、さっき話したスキャナーを直してくれた人なんだよ」

「そうなんだ、へえー」

と女の人は心底関心したような声を出した。声からして安藤さんと同じくらいの年代で、心地よい丸みのあるつややかな声は清楚な印象があり、彼女の髪の毛からだろうか、漂ってくる甘い香りが僕の鼻を刺激した。

「さっき安藤さんが話してくれたんだけど、とてもパソコンに詳しいんだってね、感心しちゃった」

「いや……、そんなに詳しいってほどでもないです」

直したといってもただドライバーを入れなおしただけの単純な作業だ。そんなことで関心されてもかえって恐縮する。

「こんにちは。沢木くんと同じクラスの戸塚直子です」

今まで黙っていた戸塚が自己紹介をした。そういえば戸塚と安藤さんは初対面だった。安藤さんからも

「理療科1年の安藤正和です、よろしく」と自己紹介があり

「ガイドヘルパーをしています岡島朋美です」と女の人も自己紹介をしてくれた。

「ガイドヘルパーって、横浜ライトハウスがやっているやつですか?」

戸塚が岡島さんに質問した。横浜ライトハウスとは市内にある視覚障害者を対象とした福祉施設で、点字・録音図書の製作、用具の販売、スポーツや文化活動などのイベントの開催、市民に視覚障害者への理解を促進するための啓発活動などを行っている。

「ええ、大学2年生のころにガイドヘルパーの研修を受けて、それからずっとさせてもらっているの」

「大学生なんですか?」

「ちょうど先月卒業したばかりで、……今はフリーター兼受験生ってとこかな」

「受験生? 大学院に行かれるんですか?」と僕。

「岡島さんはとっても福祉に関心のある人で、いろんな福祉施設でアルバイトしながら現場の状況について勉強して、来年の1月に社会福祉士の受験をするんだよ」

安藤さんの返答に僕と戸塚は2人口をそろえて「へえー」と感嘆した。

「いやあね、今年落ちちゃったから受験までアルバイトしているだけよ。まあ、いろんな現場見てみたいから福祉施設でアルバイトさせてもらっているってのはあるけどね」

岡島さんは照れくさそうに笑いながら言った。戸塚は岡島さんにかなり関心があるらしく、立て続けに

「じゃ、ガイドヘルパーの他にも何か…?」

「平日は11時から夕方4時まで東横線の東白楽駅の傍にある『やじろべえ』って授産所のスタッフしていて、作業の手伝いや食事介助なんかをしているの。それとボランティアだけど手話通訳も少しやっているから、平日の夜とか土日に以来があればガイドヘルパーとか手話通訳とかしているかな。バイトばっかりで全然勉強できてなくてどうしようもないんだけどね」

「そんなことないです。まだ先の話しですが、私も福祉系の大学にいって資格とって、福祉施設で働きたいと思っているんです」

「ホント! 是非頑張ってほしいな。福祉施設で相談員や指導員として働いている視覚障害者の人もいるからね」

岡島さんはパッと花が開いたような明るい調子で戸塚に言った。

「僕が入所していた施設にも視覚障害をもった職員の人がいたよ。僕はその人から点字やパソコンを教わったんだ」と安藤さん。

「いらっしゃいますよね! でも、ああいう福祉施設って採用されるのが難しいみたいですね……」

「福祉施設はどこも経済的に苦しいから、たくさん人を雇うことができないんだよね。それにお給料もそれほど高くないみたいだし……。私の自給ももしかしたらそこらのコンビニやファーストフードの店員なんかよりも安いかもしれない。交通費だって全然でないから授産所まで自転車通勤しているもん」

「自転車! 大変ですね……」

「家は岸根公園の近くなの。だから自転車でもそんなにかからないのよ」

「ところで安藤さんはこれからお出かけですか?」

戸塚と岡島さんの話が一段落ついたところで僕は安藤さんに聞いた。

「……いや、ただの買い物だよ」

と安藤さんは取り澄ましたような様子で答えた。

「どうしても必要なときは家の近くのスーパーに行くけど、週に1回ガイドヘルパーをお願いしてこの商店街で買いだめしているんだ。ここの商店街はスーパーよりもずっと安いし、ガイドヘルパーと一緒ならゆっくり商品見てもらいながら買い物できるしね」

「確かにそうですよね」と僕は強く頷いた。CDでも本でも、僕たちが一人で何か買い物するときには店員さんに声をかけて探してもらうのだが、ある程度買いたいものが決まっていないと店員さんにお願いすることができない。逆にいえば、漠然と「服が買いたいから何があるか教えてください」とか「食料品がほしいから棚に並んでいる商品を教えてください」なんて頼んでも店員さんはどう対応していいか困ってしまう。こういう場合、気兼ねする必要のない家族とか友達などと一緒にいけば、ゆっくりと自分のほしいものを説明してくれたり、並んでいる商品名を読みながら歩いてくれるので、そのときの自分の気分とかお財布の中身に合わせて買い物を楽しむことができる。

「一人だと自分の好きなように買い物できないから辛いですよね。それなら、もう少し頻繁にガイドヘルパーにきてもらってはどうですか」

と僕がいうと、安藤さんは少しばつが悪そうな感じで

「……いやあ、そうしたいのはやまやまなんだけど、ガイドヘルパー利用するとお金取られるからね……」

「無料じゃないんですか!」

「収入によっては無料で利用できるらしいんだけど、僕は少しだけ自己負担があるんだ、それで……」

僕は一昨日の安藤さんの話を思い出し、すぐに「すいません……」と誤った。安藤さんは全然気にしてないというような明るい調子で

「いいよいいよ、一人暮らしにも慣れればそのうちガイドヘルパー使わなくても買い物くらい自分でできるようになるだろうし」とその場を取りもってくれた。

「それまでは、週1回だけでもガイドヘルパー利用してくれれば私のできる範囲でお手伝いさせてもらうわ」

と岡島さんは安藤さんに向かって言い、安藤さんは「ありがとう」と微笑みながら言った。

「ところで沢木くんと戸塚さんはこれから……」

と安藤さんに聞かれたとき、僕と戸塚は2人同時に「あ!」と叫び、みんなと待ち合わせしていることを思い出した。

「いけない、すっかり忘れていた。沢木くん急がないと遅刻よ」

「ごめんなさいね、すっかり引き止めちゃって」

と岡島さんは謝ったが、元はといえばこちらが引き止めたようなものだ。僕たちは挨拶もそこそこに急いで駅に向かった。

「ねえねえ」と戸塚はにやにや笑いを浮かべているような声色で

「岡島さんってとってもきれいでかわいらしい感じの人だったよ」

と言ってきたので「そうだろうね。オレもそんな感じがした」と同意した。

「あの2人仲よさそうだったよね。付き合っているのかな?」

と言ってきたので「それはないだろ。あくまでもガイドヘルパーと利用者の関係だろ」と否定した。

「そうかなあ。私あの2人お似合いだと思ったんだけどなぁ」

戸塚はそんなことをぶつぶつと言っているが、僕はあまり興味がないので無視することにした。女の子って自分の思い込みだけでカップルを作りたがるところあるよな。(続)

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