春の快メール(5)

 安藤さんのアパートは確かに近かった。学校の前の通りを街道に向かってあるくこと数十メートル、路地に入ってすぐのところに松見ハイツはあった。

 玄関に入ると湿気を帯びた空気が肌に絡み付いてきた。手を引かれて1・2メートルほどの廊下を抜けると、足の裏に畳の感触を感じる。今の僕の目はよっぽど強い光でない限り明暗すらわからないのであくまでも体感的なものに過ぎないのだが、4月も中旬になり夕方でもまだ太陽は出ていると思われるのだが、どことなく薄暗いような雰囲気があり、ちょっと失礼になるが少しかび臭いような気もする。

 そんな僕の心の中を察してくれたのか、安藤さんは笑いながら「少し窓開けよう」と、居室の入り口から見て右手の窓をガラリと開けた。

「ここは北向きでねぇ、ほとんど太陽の光が入らないうえに地区30年の木造アパートときている。こうやって頻繁に空気の入れ替えをしないとすぐに部屋が湿っぽくなっちゃんだよ」

開け放たれた窓から入ってくる少し冷えた新鮮な空気が、部屋にたまったよどんだ空気をゆっくりと洗い流してくれたので、部屋の中には先ほどまでの絡みつくような湿気がスーっと無くなった。

「ここに決めたのは学校に近いからですか?」と聞くと

「そうだね、それも大きな理由だけど、家賃が激安ってこともあるかな」

「激安?」

「ここは日当たりが悪くて古いアパートだけど、賃料はものすごく安いんだ。共益費の中に水道料金も含まれていて、全部込みで2万円しないんだ」

アパートを借りたことがないので賃料の相場がいまいちわかっていない僕だったが、1ヶ月2万円で部屋が借りられるのは安いほうなんだろうなと思えた。「ふーん」とうなづいていると、「寒くなるから」と安藤さんはピシャリと窓を閉め、パソコンの電源を入れた。

「ここにパソコンがあるんだけど」

と、僕をパソコンデスクの前に座らせてくれた。触ってみるとわりと大ぶりなタワー型のデスクトップパソコンにブラウン管のディスプレイ、それにキーボードとプリンターとスキャナーがきれいに配置されている。型は古そうだが、電源を入れてからすぐにOSが起動するし、キーを押してから音声が出るまでのレスポンスもスムーズなので、そんなに悪いパソコンではないなというのが第一印象だった。

 早速問題のスキャナーに適当な活字文書をセットして読み取らせようとしたが、安藤さんの言うとおり何も反応がなかった。こういうパソコントラブルの原因はあっけないほど単純なことがあり、スキャナーの電源が切れているだけ、ケーブルが抜けているだけということも少なくない。まずはスキャナーの電源コードは抜けていないか、パソコンに接続ケーブルが繋がっているかを確認し、それから読み取りソフトの設定項目を一つ一つチェックしたが、特にこれといってトラブルの原因になりそうな症状は見られない。「だめかなぁ……」と不安そうに尋ねる安藤さんの声を聞きながら、僕は黙って考えた結果、トラブルの原因がわからないのならばと、安藤さんに

「安藤さん、このスキャナー買ったときにいっしょにCDロムがついていたと思うんですが、すぐに出ますか?」

とたずねると、安藤さんはちょっと困ったような調子で

「……パソコンのCDロムならまとめて引き出しにしまってあるけど、どれがスキャナーについていたCDロムなのかは……ちょっとわからないなぁ……」

「ここですね」

と僕は引出しを開けて手を突っ込んだところ、10枚くらいのCDロムがケースごと輪ゴムでとめてある束を発見した。おそらくパソコン本体についていたバンドルソフト、スクリーンリーダー、プリンターのドライバーなども含まれているのだろう。僕は自動起動しないよう1枚1枚パソコンに挿入し、CDロムの内容をみて調べることにした。

 何枚か空振りした後、スキャナーのドライバーが入っていると思われるCDロムを発見した。

「インストールされているスキャナードライバーを一度削除して、もう1回入れなおしてみますね」

と言ったところ、「はあ……」とあいまいな返事をした。おそらく聞きなれない専門用語にどう答えたものかと迷っているのだろう。かまわず僕はパソコンからスキャナードライバーをアンインストールしてからパソコンとの接続ケーブルを抜き、CDロムに入っているドライバーのプログラムをクリックした。数回キーを押しつづけると、インストール完了を知らせるメッセージが表示されたので、僕は再度接続ケーブルを差し込んだ。

 しばらくするとスキャナーからギイッギイッという機会音が聞こえ、安藤さんは「おっ」と嬉しそうな声をもらした。念のため読み取りソフトの設定を確認して読み取りを実行したところ、スキャナーからギイーッと機会音が聞こえ読み取りが開始され、数十秒後活字文書の読み上げが始まった。

「ああー、ありがとう、助かったよ」

安藤さんは心に引っかかっていた重たいものがなくなったような朗らかな調子でお礼の言葉を繰り返した。

「一時はどうなるかと思ったよ。どこが悪かったのかな……」

「何が原因だったのかはわかりませんでした。そういう場合は一度ドライバーを削除して入れなおすと直ってしまうこともあるのでとりあえず試してみました」

「そういうものなんだ」と安藤さんはわかったようなわからないような、狐につままれたような様子だったが、何はともあれ動けばそれでいいのだ。

 CDロムを片付けてパソコンの電源を落としていると、キッチンに立った安藤さんが「たいしたものはないけど、お茶でも飲んでいってくれよ」と言ってくれたので、僕は部屋の中央に置かれている折り畳みテーブルの前に座った。安藤さんは慎重な足取りでテーブルに近づき、ゆっくりとお盆を置いた。

「紅茶とクッキーなんだけど」

と言いながら僕の手を取り、お盆の上のティーカップとクッキーと砂糖の位置を教えてくれた。

「どうですか、うちの学校は……」

黙っていても仕方ないので、紅茶を一口飲んだところで当り障りのない質問をしてみた。「そうだねぇ」と安藤さんは少し考えながら

「いろんなものが目新しくて新鮮だから毎日が面白いといえば面白いんだけど、ほかの学生についていけないときがあって、どう対応していいのかわからなくてまごついたり、思い通りにいかなくて歯がゆい思いすることも多いかな」

「わかります!」と僕はすかさず同意した

「僕は小6のときに失明して中1のときにこの学校に入ったんですけど、確かに今までの学校とは全然違った独特な雰囲気がありますよね。ずっと前から通っている他の生徒にとってはそれが普通なんだろうけど、入学したばかりの頃は僕も戸惑ってばかりでした。僕は怖くて廊下を歩くのもおそるおそるって感じだったのに、他の全盲の生徒はまるで見えているようにスタスタ歩いたり……」

安藤さんは「そうそう」と笑いながら頷いていたが、急に真剣な声音になって

「失礼なこと聞くけど、失明したのは事故かなにかで?」

「いえ、網膜色素変性症なんです」

「そうなのか……」と深く息を吐き出しながら

「うちのクラスにも何人かいるよ、網膜色素変性症が原因で失明したり視野が狭くなっちゃった人」

「多いですよね」

安藤さんはコトンとティーカップをテーブルの上に置くと

「僕は交通事故が原因で失明したんだよ」

と話し始めた。それは僕に向かってというよりも、どことなく独り言のようなうつろな声音が含まれているように聞こえた。僕は前歯で噛み砕いたクッキーを奥歯で租借しながら何も言わず安藤さんの話に耳を傾けた。

「僕の実家は川崎市にあるんだけど、7・8年くらい前になるかな、僕は地元の公立高校に通っていたんだ。当時は特にこれといって変わったところなんて全然なくて、他の高校生と同じように生活していたんだよね……。でも、高2の終わり頃のことなんだけど、親父が急死したんだ」

失明の経緯について話すのかと思ったら、何となく予想外な内容に僕はちょっと話の筋が掴めずにいたが、そのまま黙って安藤さんの話を聞きつづけた。

「忙しい部署の責任者だったからかなり疲労がたまっていたんだろうな。親父が社内で倒れたって連絡が入って、慌ててお袋と一緒に搬送先の病院に駆けつけたんだけど、くも膜下出血を起こして意識がなくて、次の日にはあっけなく死んじゃったんだ」

「……そうだったんですか」

「それまでは大学進学を希望していたんだけど、うちはそんなに裕福じゃないから経済的な理由で進学をあきらめて、家計を助けるために就職することにしたんだ。でも、何も資格持ってなかったからなかなか就職先が決まらなくてね……かなり厳しかったよ。それでも何とか運よく1社から内定もらって、高卒の事務員だったから安月給だったけど選択の余地なんてないからね、翌年の4月からその会社で働くことになったんだ」

安藤さんはティーポットから自分のカップに紅茶を注ぎ、「お代わりいる?」と聞かれたので「いらないです」と答え、話の先を促した。

 「残業多かったし、決して楽な仕事じゃなかったけど、職場じゃ一番年下ってこともあって上司や先輩にかわいがってもらったよ。いやなこともあったけど、なんだかんだいってあの頃が一番充実していたかもな……。それなりに仕事をこなして、家のほうも経済的・精神的に落ち着いてきていたんだけど……。東京や神奈川に記録的な大雪が降った日があったんだけど覚えているかい?」

僕は記憶の糸を手繰り寄せた。確か一昨年くらいに大雪が降って学校が休校になったことがあったなとぼんやり思い出した。

「あの日も仕事で帰りが遅くなって、自宅の最寄駅から10分くらい歩くんだけど、大雪のせいで歩きにくいし見えにくいから、僕はわりとゆっくり注意しながら歩いていたんだよね。……そしたら後ろから大型のダンプカーが僕のすぐ傍を通り過ぎて目の前の十字路を曲がろうとしたみたいなんだけど、路面が凍っていたせいか、曲がるタイミングがずれちゃったみたいで、すぐ傍を歩いていた僕は後輪に接触して吹っ飛ばされて……」

僕は唾をごくりと飲み込んだ。おなかに力を入れているせいか、なんだか息苦しいものを感じる。

「そのまま気絶しちゃったみたいで気が付いたら病院のベッドの上だった。そして僕はお袋の声や物音は聞こえるんだけど、姿や周りの景色が見えないことに気づいたんだ。先生の話だと、命には別状はないけど吹っ飛ばされて地面にたたきつけられたときに頭を強く打っちゃったみたいで、視神経をやられちゃったんだ……」

「……頭を打って失明しちゃうんですか……?」

僕はおずおずといった感じで質問をはさんだ。

「うん、外傷性視神経障害って言うらしいんだけど、要は目で見たものを脳に伝える部分がだめになっちゃったらしいんだよね。残念ながら今の医学で治療することはできないって聞かされたとき、僕もそうだったけど、お袋の落胆振りは……、とてもじゃないけど傍にいるだけでこちらもより辛くなるほどだったよ」

 僕は4・5年前のことを思い出していた。担当医から僕の目は網膜色素変性症という病気にかかっており、しかも今の医学では根本的な治療法はないと聞かされたとき、僕は先生の言っていることの意味が把握できなかったのか、それとも僕の心が把握することを許さなかったのか、しばらくの間ぽかんとうつろな目を先生に向けたままぼーっとしてしまった。ふと母の「そうですか……」というため息にも似たかすれた呟きが聞こえたとき、僕は思わず母のほうを振り向いた。母はどちらかといえば気丈な性格で、僕が物心ついてからそういう機会がなかったからだと思うが、喜怒哀楽のうち哀の感情を露骨にすることはまずなかった。にもかかわらず、母はぎゅっと目をつぶり、頭はうなだれ、握り締めた拳はかすかに震えていた。母の姿が目に入った瞬間、それまで空っぽだった僕の心の中に何か波立つようなものが生まれ、その波が徐々に大きくなるに連れて、叫びだしたい、ここから逃げ出したい、誰かにしがみつきたいようなやり場のない感情があふれてくるのを感じた。僕は感情を殺すため、母から目をそらし見なかったことにしようとぎゅっと目をつぶったが、失明した今でもあの日の母の姿はどうしても忘れることができずにまぶたの裏に焼きついている。自分自身に不幸が降りかかるのもたまらないが、他の人が悲しんでいるのを目の当たりにするのもたまらない。その悲しませている原因が自分に降りかかってきた不幸であればなおさらだ。

 「そんなわけで会社をやめることになって、1年くらいかな……、ほとんど自室にこもって日がな一日寝ていたよ。何もできないし何もしたくないし何も考えたくなかったし、寝ていれば少なくても目がさめるまでは失明したって現実から逃げることができるからね。……何ヶ月かして少しだけ気持ちが落ち着いてきた頃、お袋が役所の福祉関係の部署にいって相談してきたらしいんだ。そしたら中途で失明した人に生活訓練をしてくれる施設があることを知って僕に勧めてきたんだ。最初は何もやる気がしなかったからあんまり気持ちは乗らなかったんだけど、しばらく考えてから、いつまでも逃げてばかりもいられないし、このまま引きこもってばかりもよくないと思うようになってさ、思い切って入所することにしたんだ」

「そこでパソコンとか習ったんですね」

「パソコンだけじゃなくて、点字の読み書き、歩行訓練、調理などなど、いろんな機器を使って工夫しながら生活していく術を教わったんだ。訓練できたってこともあるけど、入所して一番よかったのは似たような境遇の人たちと出会えたってことだね。自分と同じような不幸を抱えながらも、みんな前向きに生きていこうって姿にものすごく励まされたな。そういうみんなの姿に刺激されて、僕も今度は手に職をつけてまた自立した生活を送りたいなって気持ちが強くなって、この学校の理療科に入学したんだ」

「そうだったんですか。……なんか僕も似たような気持ちでしたよ、失明したばかりの頃は」

「そっか」と安藤さんは優しい声音で相槌を打ち、クッキーをぽりぽりとかじった。

「……ただ、いくら訓練受けたからといってすぐに何でもできるようになるわけじゃないからね。僕の場合はいまだに一人で外を歩くことに恐怖感があって、まだ遠出することはできないんだ。実家から通学するとどうしても2回乗り換えしなければならないし、そもそも自宅から駅までの道のりも自信ないんだ。……交通事故にあった場所ってこともあるんだけど……。学校とも相談して通学に便利そうなアパート探してもらったんだけど、使えるお金は限られているからとにかく安いところって言ったらここを教えてくれたんだよ」

「仕送りとかはないんですか?」

「お袋はパートで働いているけど自分の生活で精一杯ってことは知っているから、仕送りはしてもらってないんだ」

「……じゃあどうやって生活を?」

「一番大きいのは国から給付される障害厚生年金。その他には県と市からの手当てが少しと奨学金だから……、月10万円くらいでやっていかなくちゃならないんだよ」

安藤さんは力なくアハハと笑った。彼はあっさりと言っていたが、家賃に光熱費に食費、そしてその他雑多な出費を考えるとかなり切り詰めないとやっていけないんじゃないかなと思った。それに、安藤さんはおそらく20代前半くらい、そのくらいの年ならほしいものは山ほどありそうだし、付き合いだって多いはず。こればかりはどうにもならない問題だとしても、お金がないからという理由でほしいものを諦めたり、誘いを断らなければならないのはとてもさびしくてつまらないことなんだと思う。

 「あ、やばい」と安藤さんは恐縮するような感じで「つまらない話しちゃって悪かったね、かなり引き止めちゃったし」と言った。僕は右手を振りながら「いえいえ」と言い「またパソコンの調子が悪くなったらいつでも言ってください」と付け加えた。

「それは助かるな、なんせ僕は文書を書いたりホームページ見るくらいしかできないからとても心強いよ」

と言われ、僕は嬉しさと照れくささをない交ぜにしたような気持ちを感じ、少しだけ心が軽くなったような気がした。

 安藤さんはこれから街道沿いのスーパーマーケットで買い物をするというので、2人一緒に外に出て、アパートの前で別れた。今の時期は太陽が沈んでもあまり寒さは感じないはずなのだが、先ほどの安藤さんの話が心に引っかかっているせいか、僕は身を縮めながら小走りにバスターミナルに向かった。ふと立ち止まると、安藤さんがついている白い杖のカツカツという音がどんどん遠ざかって行くのがわかった。(続)

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