春の快メール(2)
僕はいつも4番目だった。いつものように「おはよう」と言いながら教室に入ると、いつものように高橋直樹と武田陽一と戸塚直子がすでにいて、これまたいつものように「おはよう」とあまり覇気のない挨拶が返ってくる。僕はバスの関係でどんなにスムーズに着いたとしても8時10分より前に登校することはない。教室に入るとほぼ必ずこの3人がいる。もしいないとすれば、たまたま教室から出ているか、学校そのものを休んでいるときで、彼ら・彼女よりも早く登校することはまずありえない。
ちなみにこの3人は幼稚園・小学校の頃からこの学校に通っており、出会ってからかれこれ10年の付き合いになるとのこと。僕はこのクラスの中ではわりと直樹と武ちゃんとつるんで行動することが多い。2人とも生まれつきの全盲らしいが、直樹には絶対音感があって、たいていの曲ならCDを聴くだけでコピー演奏できるし、武ちゃんは運動感覚がよく、特に球技は得意ときている。楽器には無縁で感の鈍い僕にとってはこの2人の能力は羨ましく感じるとともに、とても魅力的にも思える。そんなすばらしい能力をもった彼らと一緒にいることは僕にとってとても刺激的なことなのだ。失明してよかったことなんて何もないと思っているけれど、もし失明していなかったら彼らと出会うことなんてまずなかったんだろうなと思うとちょっと不思議な気分になる。
僕は机をつたいながら自分の席にたどり着き、とりあえず背負っていたかばんをドサリと机に置いて座った。
「沢木くん」
呼びかけてきたのは戸塚だ。彼女は僕がくる前から後ろの席の直樹と武ちゃんに何やら話していたみたいだったが、急に呼びかけられたため「あん?」と間の抜けた返事をして後ろを振り向いた。
「あのさぁ、今直樹くんと武ちゃんにも話していたんだけど、あさっての土曜日にみんなで映画観に行かない?」
「なんの映画?」と聞くと、戸塚はとあるハリウッド映画のタイトルを挙げた。その映画は全米で大人気のサスペンス映画の最新作で、僕もテレビやラジオを通じてタイトルは知っていたし観たいとも思っていた。しかし
「あれって洋画じゃん。日本語吹き替え版は上映してないだろ」
僕たちの場合字幕スーパーを読むことができないので、どんなに観たくても洋画を映画館で楽しむことはできない。時々日本語吹き替え版が公開されることを除けば、数ヵ月後に出されるDVDソフトをお店でレンタルしなければならないのだ。
「それがねぇ」と、戸塚は「そう突っ込まれると思ってた」といわんばかりに茶目っ気たっぷりな感じで
「たまたま知ったんだけど、東京を中心に活動しているボランティアグループがあってね、視覚障害者が映画館で映画を楽しめるよう副音声をつける活動をしているんだって。そのグループがね、あさっての土曜日に渋谷でこの映画の副音声付映画を上映するの。すごいでしょ!」
戸塚はやや興奮気味に僕に言った。彼女は根っからの映画ファンで、話題の映画には目がない。ただ、戸塚は全く見えないというわけではないが、生まれたときから視力が弱く、めがねやコンタクトレンズを使って強制してもほとんど視力がない、いわゆる弱視と呼ばれる生徒だ。僕はよくわからないが、彼女曰く、いつも白い霧みたいなものがかかっているような見え方で、周囲数メートルしか見えないし、お天気によっては自分の足元ですらも見えなくなるらしい。その程度の視力しかないからだろう、大きなスクリーンの映画館だと、近すぎては全体が見えないし、かといって遠く離れるとぼやけてよく見えない。当然スクリーンの字幕スーパーなんて彼女の目でも読めないと思う。そんな事情もあって、話題の映画を映画館で、しかも副音声付で楽しめるというのは映画ファンの彼女にとってはたまらないことなのだろう。
「副音声付映画って、たまにテレビ番組についているやつと同じようなものなの?」と武ちゃん。
「私も初めてだからよくわからないんだけど、フロア内に電波を発信する装置があってね、それを使うと字幕を読んでくれたり、出演者の動作や情景描写を説明してくれる人の声がFMラジオから流れるんだって」
「なんでわざわざラジオの電波に乗せるんだ? そのままマイク使ってしゃべればいいのに」
「そのまま流すと他のお客さんに迷惑だからじゃないかなぁ。それにラジオならほとんどの人がもっているからわざわざ受信機用意しなくてもいいしね。しかも、そのボランティアグループすごくこっていて、女の子の台詞は若い女性の人が担当して、おじさんの台詞は中年くらいの男の人が担当するらしいんだよ」
「本格的だな」
と武ちゃんは関心したような声で言った。
「でしょ。こんなチャンスめったにないからみんなで行こうよ」
戸塚は僕の右肩をポンポン叩きながら返事を促した。
「じゃ、行こうよ」と武ちゃん。
「悪いけど、オレはだめだな」と今まで黙っていた直樹が呟いた。「あさっての土曜日から一泊で京都に家族旅行なんだ、それで……」
「そっか、残念だな……。沢木くんは?」
頭の中のスケジュール帳を引っ張り出して思い出してみたところ、あさっての土曜日はまる1日何も予定はない。「オレも行くよ」と言った次の瞬間、教室のドアがスーっと開き、無言で誰かが教室に入ってきた。会話がピタリと止まり、みんなが足音に耳をそばだてていると
「あ……林くん、おはよう」
と戸塚が声をかけたが、林秀幸はぼそりと「おはよう」と呟いただけで、そのまま自分の席に座った。
林はほんの2週間前に入学してきた新入生だ。僕が知っていることは、中学までは地元の公立学校に通っていたことと、戸塚と同じく生まれつき視力が弱い弱視ということだけだった。彼はあまり愛想がなく無口で、ノリの軽い直樹や武ちゃんが話しかけてもほとんど反応がない。なおかつ、僕はそんなに積極的に話しかけるタイプではないので、この2週間林とはまともに会話したことがない。それにしても、ここはお互い見えない・見えにくい生徒が通う学校なんだから、せめて「おはよう」の一言くらい言ったらどうなんだ。登校順の法則から僕の次はたいてい林だから予想できないことはないが、やはり無言で教室に入られるとちょっと不気味だ。
「ねえねえ林くん」
一瞬の沈黙もなんのその、人見知りというものを知らない戸塚が林に土曜日の副音声映画について僕たちに話したことを再度繰り返し、そして「よかったら林くんも一緒に行かない?」と誘った。
(林は断るだろうな)
と僕は林の反応をうかがった。彼は戸塚の説明に何も相槌を打たずにただ黙って聞いていただけだったが、「行かない?」との問いかけにワンテンポ間を置いて「ああ」と、肯定とも否定とも取れない返事をした。「ん?」と戸塚が聞き返すと、挨拶と同様ぼそりと「オレも一緒に行くよ」と言った。
僕はすこぶる意外な感じがしたが、戸塚も同じだったらしく「ホント」とはずんだ声をあげた。もちろん誘いに応じてくれた嬉しさから出たものだろうが、いつもの林の無愛想振りを思えば9割方断られるだろうと思っていたに違いない。
「おはよう」
開け放たれたドアから柔らかなソプラノの声が響いた。僕と直樹と武ちゃんと戸塚がいっせいに「おはよう」と覇気のない挨拶を返すと、上原香織は慎重な足音を響かせながらドアから一番近い自分の机に向かい、ゆっくりと椅子を引いた。
「上原さん、今みんなにも話していたところなんだけど……」
と戸塚は今日3回目になる土曜日の副音声付映画について説明し、加えて「よかったら一緒に行かない?」と誘った。
「……行きたいんだけど、土曜日はちょっと……」
「そう……」と林のときとは対照的に明らかに残念そうな声を出した。
「ごめんね。でも次やるときは是非誘ってね」
と上原さんは心の底から申し訳なさそうな、そして戸塚が気落ちしないよう明るい調子で付け加えた。戸塚も「うん」と元気よくうなずいた。
上原さんは林と一緒にほんの2週間前に入学してきたばかりの新入生だ。彼女についても謎が多く、僕が知っているのは中学生のときに事故だか病気だかで失明した全盲で、中学卒業後は生活訓練をしていた関係で高校進学が遅れ、僕たちより2歳年上ということだけだった。上原さん自身は林と違って明るい性格で礼儀正しく、同性・異性問わずに好意的に接してくれる。特に戸塚とは同性で席が隣同士になったこともあり、出会ってからすぐに親しくなり、休み時間などは2人でよくおしゃべりしているのを見かける。
土曜日は午後2時に上映されるということなので、若干余裕をみて12時30分に学校の最寄駅であるJR大口駅の改札口前集合ということになった。僕たちの場合、見知らぬ場所に行くのはちょっと難しいこともあり、全員が問題なく集合できる場所となると、毎日通っている学校の最寄駅が一番集合場所に適している。
「じゃ、12時30分に大口集合ね、みんなFMが受信できる携帯ラジオもってきてね」
話もまとまったので僕は前に向き直ると「ねえねえ」と戸塚が再び僕の右肩をポンポンとたたいてきた。
「私たちはさ、12時くらいに国道のところで待ち合わせて一緒にいかない?」
盲特別支援学校は公立・私立含めても県内に3校しかなく、市内だけではなく他の市から1・2時間かけて通学する生徒も少なくない。そんな広範囲な通学圏にもかかわらず、偶然僕と戸塚は近所ではないまでも同じ区内に住んでいる。戸塚は国道沿いに自宅があり、国道を走るバスに乗って駅前商店街で降りそこから徒歩で学校に向かう。僕は直接JR大口駅へ向かうバスに乗るのだが、方向としては国道とは真反対になる。
「なんで?」と聞くと
「沢木くんがいつも使っているバスって1時間に1本じゃない。待ち合わせ時間にちょうどいいのがあればいいけど、へんな時間だと長い時間待たせることになるかもしれないと思ってさ」
土曜日の時刻表のことなんて全く頭になかったが、確かに戸塚の言うとおり12時30分に到着するバスがあるとは限らない。タイミングが悪ければ1時間近く待つことだって充分ありうる。逆に国道に向かうバスは複数の路線バスが通るので本数は多い。僕は心の中で戸塚の心遣いを感謝しながら「それじゃ、そうするか」と軽く返事をした。
先ほどから廊下のほうが騒がしい。音声の出る腕時計で時刻を確認すると、「午前8時38分です」と聞こえた。うちの学校にはスクールバスがあり、いくつかのターミナル駅を経由して学校まで運転している。しかしマイクロバスのため乗車できる人数に限りがあり、基本的にはうちの学校に通っている幼稚園児・小学生・重複障害児が利用し、その他独力で登校できる生徒は公共交通機関を使うことになっている。今まさにスクールバスを利用している生徒が登校してきたのだ。
「おはよう」と担任の先生3人と一緒に近藤雄介と山本美奈が入ってきた。ここの学校に入学してたくさんのカルチャーショックを受けたが、そのうちのひとつが1クラスに担任の先生が複数いるということだった。盲特別支援学校では視覚に障害をもった児童・生徒だけではなく、重複障害の児童・生徒も通っている。1クラスの人数は少ないが、生徒によっては1対1で指導しなければならない、まる1日、目を離してはならないなど、1クラスに担任が一人だけではとても対応しきれないということらしい。うちのクラスでいえば、体育の川村一先生、同じく体育の清水恵先生、そして国語の原田雅子先生の担任に加え、補助職員が5人もいる。
雄介は先生に付き添われながら僕の左隣の席に座った。彼は聞くところによると小さいころから全く見えない・聞こえない視覚聴覚障害で、知力もあまり高くなく、発する声も唸り声になってしまうので会話を交わすことは不可能だ。時々自分の思いが相手に伝わらないためか、感情のやり場に困るためか、奇声をあげたり手足を振り回してしまうことがあり、僕も数回たたかれたりつねられたりしたが、さすがに3年以上付き合っているとあたりまえのこととして流すことができるようになる。
美奈ちゃんは先生が押す車椅子に乗って教室に入り、そのまま林の右隣についた。彼女は脳の病気とかで、視力は少しあるようだが、手足が思うように動かなかったり、言葉がうまく話せなかったり、知力もあまり高くないなど、かなり重たい障害をもっている。僕が美奈ちゃんと初めてあった頃は言葉にならないまでも声を発することは頻繁にしていたが、最近はほとんど声も出さず、出たとしてもか細い声しか聞こえてこない。あまり考えたくないが、もしかしたら彼女の脳の病気って今も進行しているのかもしれない。
クラス8名全員がそろったところで、日直の直樹が「起立」と号令をかけ朝のショートホームルームが始まった。僕は先生からの連絡事項を聞きながら、さっき戸塚が「FMが受信できる携帯ラジオもってきてね」と言っていたのを思い出し、お調子者の武ちゃんはきっと忘れてくるだろうから余分にもっていってあげようと考えていた。(続)
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