春の快メール

松江塚利樹

春の快メール(1)

 「かわいそうにねぇ、まだ若いのに……」

繰り返される同情の言葉に僕はとてもうんざりしていた。僕は毎朝決まった時間のバスに乗って登校している。学校のほうに行くバスが1時間に1本しかないからだ。

 バスに乗った後、いつもならつり革や手すりに捕まって終点まで揺られているのだが、今日はたまたま乗り合わせたおばあさんが「ここ空いてますよ」と僕に空いている席を教えてくれた。僕にとって空いている席を見つけるのはちょっと難しいので、教えてくれることはとても助かる。「ありがとうございます」とおばあさんにお礼を言って席に座り、終点までの約15分間ゆったりと寛いでいられるはずだった。

 席は教えてくれたおばあさんの隣だった。僕が腰掛けるや否や、おばあさんは独り言のように「大変ねぇ」と話し掛けてきた。僕はおばあさんのいる方向にチラリと顔を向け「はあ……、別に大丈夫です」と、曖昧な返事をし顔をそむけた。

「これからどこに行くの?」

「学校です」

「学生さん? 何年生?」

「高校1年生です」

こちらの無愛想な物言いに何も感じないのか、それともただ単に無視しているだけなのか、おばあさんは次から次へと僕のプライバシーに係わる質問を投げかけてくる。

「生まれたときからなの?」

「いいえ」

「じゃ、事故か何かで?」

僕は心の中で小さなため息をつきながら

「小学生のときに病気で失明したんです」

と言ったとたん「あらぁ、そう……、かわいそうに」と感情たっぷりに同情の言葉を投げかけてきた。いいかげんいやになってきたし、面倒くさくもなってきたので、その後の「一人で学校までいけるの?」とか「お父さんやお母さんはついてきてくれないの?」などの質問には適当に生返事をしていたところ、そのうち質問攻めもなくなり、おばあさんはしきりに口の中でもぞもぞと「大変ねぇ」とか「かわいそうにねぇ」と何度も呟いている。僕はこの重たい空気に絶えられなくなり、とにかく早く到着してくれと考えてばかりいた。

 バスがターミナルに滑り込み、終点を知らせるアナウンスとともにドアが開いたとたん、僕はすぐさま立ち上がり一目散にドアに向かった。ステップを降りているとき、隣にいたおばあさんから「頑張ってね」と言われたが、聞こえなかったふりをして何も言わず白い杖で段差を確認しながら外に飛び出した。

 失明してからというもの、時々このおばあさんのように根掘り葉掘り僕のことを聞きたがる人がいる。世の中には障害者に対してなれなれしく接してくる人も少なくないようで、お互い見ず知らずにも係わらず、どこに住んでいるのかだとか、これからどこに行くのかだとか、どうして目が見えないのかなど、僕のプライバシーを侵害するようなことを平気で聞いてくることは意外と多い。しかも聞いているほうは全く悪気というか、その質問が僕のデリケートな部分を土足で踏みにじるような失礼な発言をしているということなんてこれっぽっちも感じていないのだから、かえって性質が悪い。障害者になってから約4年、この手の質問攻めにも慣れてきたし、僕のように黒目の色が薄くて、常日頃から白い杖を持ち歩いているのだから、今更隠すことは何もないんだけど……。

 僕の名前は沢木孝一、横浜市内の盲特別支援学校に通う高校1年生だ。一般的には全盲とか視覚障害者などと言われているが、生まれたときから失明していたわけではない。そろそろ夏に入ろうかという小学校5年生のある日、電気のついていない暗いところでは、いつまで経っても暗闇に目が慣れず何も見えていないことに気づいた。そのときは目が疲れているだけだろうとあまり気にしてなかったが、数日後、景色に関係なく目の下のあたりに泥水のような濁りが見えたとき、初めて自分の目に何か異変が起こっているのではないかと不安を感じるようになった。

 地元の眼科医で診察してもらったが、設備の整った病院できちんと検査したほうがいいと薦められたため、都内にある某大学病院で精密検査をしてもらった結果、僕の目は「網膜色素変性症」という進行性の病気であると診断された。この病気は景色や表情など見たものを目の中でスクリーンのように映し出す網膜と呼ばれる部分に黒い色素が付着する病気で、現代の医学でも治療する方法がなく、失明は避けられないとのことだった。

 その後、僕の担当になった先生の指示により、毎日目薬を差したり、薬を飲んだり、定期的に大学病院で診察してもらい、できるだけ病気の進行を遅らせようと試みた。しかし、処置もむなしく病気の進行を抑えることはできず、初めは下のほうにだけ見えていた濁りはドーナツのように周囲に広がり、日に日に見える範囲はどんどん狭まっていった。そして、診断から約1年後の小学校6年生の夏、僕の両目は完全に見えなくなってしまったのである。

 病気が少しずつ、そして着実に僕の目から光を奪っていくに連れ、僕の心の中はどうしようもない不安とか怒りとか悲しさなどの感情ばかりに支配されてしまい、学校など他人がいる前では特に気にしてない振りをしていたが、自宅にいるときは自分の部屋に引きこもり、とにかく少しでもこの不安感を忘れようと布団にもぐって目をつぶり無理やり眠ろうとしていた。それでも時々自分の感情をコントロールしきれず、ちょっとしたことで両親に対していじけた態度を取ったり、理不尽な八つ当たりをぶつけることもあった。

 だが、いざ失明してみると思ったほどの感情の乱れはなく、むしろ冷静なくらい「これで本当に見えなくなったんだ……」と、やっと諦めがついたような心地さえ感じられた。失明してから4年近く経過した今だから言えることなのだが、もしかしたら一番感情が乱れることって人生のどん底に突き落とされるまでの間で、いざ本当に突き落とされたとき、どん底で思うことは「絶望」ではなく「諦め」だと思う。中途半端な希望をもてる余裕があるからこそ、影も形もない絶望が見え隠れする。そして、諦めることができるからこそ、自分の置かれた立場を客観的に見ることができ、これから先どうやって生きていこうかと前向きに考えられる新しい余裕が出てくるのだろう。

 だから僕も時間はかかったが、諦めることである程度気持ちを切り替えることができ、以前よりはまだ冷静にこれからの学校生活や日常生活をどうやってこなしていこうかと考えられるようになった。それは父や母も同じだったようで、約1年間の猶予があったおかげでそれなりの覚悟はできていたらしく、僕が「全然見えなくなった」と訴えても特にうろたえるような素振りは見せず「そう……」と呟いただけだった。

 5年生の3学期から一人で登下校するのが難しくなったので、母はパート先と相談して勤務時間を変えてもらい、朝は一緒に登校し、午後になると教室の前まで迎えにきてくれるようになった。授業では主にクラスメイトがいろいろと助けてくれた。他の教室に移動するときは誰かが必ず手を引いてくれたし、黒板に板書された文字や図などは太目のマジックペンを使ってわら半紙に書き写してくれる人もいた。テストのときは先生の隣に座り、先生が問題を僕の耳元でささやき、回答するときは僕が先生の耳元で答えをささやくことで受けていた。

 しかし、失明したことで文字の読み書きができなくなってしまったことから、このまま地元の中学校に進学しても満足に授業を受けることはできないのではないかと担任の先生に言われたことをきっかけに、両親を交えて進学先について検討した結果、市内にある公立の盲特別支援学校の中学部に入学することになった。そして今からちょうど3年前、僕は全盲の視覚障害者としてこの学校へ入学したのだ。

 白い杖を左右に振って駅前から学校まで続く黄色い点字ブロックの上を歩きながら

(あのおばあさん、明日も同じバスに乗るのかな……)

とちょっと重たい気分を引きずりながら、僕は学校まで徒歩10分の道のりを急いだ。(続)

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