(6)

 ヒカルは、最寄り駅から自宅までの十数分の道のりを小走りに向かっていた。左右に広がる折り目正しい一戸建て住宅の群から、それぞれ室内の灯りやテレビの音声がもれている。ひとつひとつの箱の中には、そこで暮らしているという生活感や人のぬくもりに溢れているが、ヒカルが今歩いているこの通りそのものには、人の気配すらも感ぜられない鬱蒼とした静寂と闇に覆われている。聞こえるのはサラサラと鳴く秋の虫の声と、自ら発しているカツカツという靴音だけ。

 人っ子一人見あたらない物寂しい住宅街だ、家路への足取りも自然と速まるというもの。ヒカルは、大きく左に曲がりながら傾斜するなだらかな坂道を登り、少々砂埃にまみれて黒ずんでいるフェンスの間を縫ってエントランスに入った。歩みを勧めながら、エレベーターホールの上部の回数を示すランプを仰いだところ、2台のエレベーターは何れも7と9を表示していた。ゆるめていた足取りを再び速め、ヒカルはエレベーターホールを突っ切りそのまま奥手の階段に足を向けた。どうやらじっと待つよりも、階段を使った方が早いらしい、せっかちと言えばせっかちなのだろうが。

 1階から2階、そして3階に上がるとそのままフロアの方に進んでいった。左右に同じような間隔でいくつもの金属質のドアが並ぶ。ヒカルは右に曲がり、一番手前のドアの前で立ち止まった。305、どうやらここが自宅らしい。

 ドアの前に経ち、鍵を取り出そうと鞄を持ち上げる。すると、「ピロピロ」っと奇怪な電子音が鞄のそこから聞こえだした。もうすぐ10時半になろうとしている時間、こんな静かな夜に、しかもマンションのフロアという場所ではよりいっそう甲高く聞こえるものだ。ヒカルは一瞬ふいを付かれたように動作が止まったが、次の瞬間には鍵を探すのをやめて音の犯人であるところの携帯電話を鞄の奥底から取り出した。ここには非常灯くらいしか灯りとなりそうなものはないが、かまわず形態のバックライトを使ってディスプレイの文字表示を目で追うと、ヒカルは人目確認してそのまま鞄の中に放り込んだ。続けて、手早く鍵を取り出しドアノブにねじ入れ、ドアをさっと開け、できるだけ音がしないようにゆっっくりと閉めるとそのままドアをロックしチェーンをかけた。

 靴を脱ぐとすぐ右手は洗濯機、そしてキッチンである。流し台には、朝食の時に使ったお皿やらマグカップやらフライパンがほとんど無造作に放り込まれている。傍らの三角コーナーには、二日分の野菜の皮やら切りくず、卵の殻などの生ゴミがぎっしり詰まっているのを見て、そういえば明日はゴミの日だなと薄々思い出す。

 左手は壁で、途中にたたみ半畳ほどのスペースがあり、突き当たりがお手洗い、向かって右側が洗顔ルーム、左手の扉がバスルームになる。玄関から数歩直進すると、フローリングの部屋にはいることになる。たたみに直せば8畳ほどになるだろうか、一人暮らしのワンルームマンションにしては大きめな間取りと言えるだろう。入り口そばのスイッチが押され、室内はパッと明るくなった。

 いつもなら、この部屋の主は鞄をベッドの上に放り投げ、堅苦しいスーツから身軽なかっこうに早変わりしそのままテレビのスイッチを入れる。そこからは、ベッドに腰掛けテレビを見るか、留守番電話のメッセージをチェックするか、はたまた流しにため込んでいる洗い物を片づけるか、それはその日の気分によりけりである。だが今日はスーツも脱がずにそのままベッドの上に腰掛け、枕元の灰皿を横に置きくわえたタバコに火をつけた。そして、先ほど鞄の中にしまった携帯電話を引っ張り出し、数回ボタンを押した。

 差出人はカズからだった。ドアの前で鍵を探しているとき着信音を聞いた瞬間にもうヒカルには分かっていた。受信日時は10:25、ヒカルはこれより30分以上前にカズへのメールを送っている、きっとその返事が返ってきたのだろう。早速中身を見てみようと思った瞬間、再びメールの着信音が響いた、これにはちょっと驚いた。見るとまたカズからである。きっと、1通じゃ書ききれなかったのだろう。結局、その後のメールも含めてカズから4通のメールが続けて届いた。

 『メールをありがとう。まずは出会った時に遡ります。友達つながりで知り合った子なんだけど、すぐにお互いうち解けて仲良くなって、間もなく交際が始まりました。その頃はまだ二人とも学生で、それなりに時間にも気持ちにもゆとりがあったせいか、すごくお互い気兼ねなくつき合えていたと思います。わりと頻繁に会っていたし、二人で過ごした時間はすごく楽しくて分かれる時間になるとすごく後ろ髪引かれるような気持ちがしたし、実際にそんなことを素直に口にしていました。ごめん、続きは次のメールで。 カズ』

 『でも、卒業して社会人になり、それぞれが新しいスタートを切ったあたりから、僕らの関係が希薄になったような気がしてなりません。具体的には会う機会が少なくなったり、彼女の態度や発言がどうもとげとげしく感じられて、以前よりもそっけなく思えて鳴りません。僕自身も、何となく自分のことで精一杯になって相手のことに以前よりも気遣えなくなっているって己を振り返って反省するところもあるのですが。3通目に続きます。 カズ』

 『環境が変わって慣れていったり、その中で自分の居場所を作るのはとても労力のかかることです、それは僕も同じです。単にこれは、お互いの生活が変わったから起こる一時的なものに過ぎないのでしょうか。でも、ある程度親しく交際していた関係が、こんなことで変貌してしまうものなのだろうか。以前との関係のあまりにも大きなギャップに、単なる一過性のものと割り切れないのが正直なところです。つまり、僕が悩んでいるのは、環境の変化をきっかけに関係が希薄化しているのではないかということです。』

 『もしそうだとしたら、僕たちは結局そうなる運命にあったのだろうか。もしそうなら、どうしても打開したい。もし事実がそうなら、それを受け止めることができない。それでこんなメールを出しました。今日のデートもそんな感じでした。あくまでも僕の主観だし、限られた文字数でしか表現できないから、僕の意図していることが言葉足らずで不適切なものだったかもしれません。でも、最後まで読んでくれてとても感謝してます、ありがとう。 カズ』

 メールはそこで終わっていた。ヒカルは一気に4通のメールを読み終えると、加えていたタバコを灰皿でもみ消した。すでに吸い殻が一本あるから、これは2本目ということになる。形態をベッドの上に置き、そのまま続けて3本目のタバコに火をつけて、ふうと紫煙を細く吐き出した。しばらくの間、タバコをくゆらせながら天井を見つめて物思いに耽っていたが、タバコをもみ消すやいなや、再び携帯電話を手に取り数十分前のカズと同じように電話の上に指を走らせた。


 僕はオフィスにいた。まだ昼休みまでには1時間ほど早いが、どうも目が疲れて仕方がない。少し目を休めようと、今まで打ち込んだデータを保存し、そのまま事務所を出た。目の疲れと共に、どうも頭がぼんやりするので、事務所脇にあるレストルームの洗面台で顔を洗った。ハンカチで顔を拭い、正面の鏡に自分の顔を映すと、案の定頬が赤らみ目の下にうっすらと隈ができている。元々平日は十分な睡眠時間が取れているわけではないが、今日の体調は最悪だった。別に前日の酒による二日酔いではない。

 結局、僕が家についたのは11時半近くになってしまった。それというのも、地下鉄のホームのベンチで30分近く時間をつぶしてしまったせいだ。メル友に形態メールを送ったせいなのだが、何せ内容が内容だけに言葉を選び出すまでに一苦労だし、どうしても複数にわたる長いメールになってしまう。また、僕の持っている形態はわりと小さいものなので、長時間チマチマと指を動かすのはかなり辛い作業になる。

 それでも、自分なりにはその時に伝えたいことは伝えて、そのまま真っ直ぐに家路を目指した。自宅に着き、風呂だ着替えだとなんだかんだと休む支度をしていた深夜0時頃、ハンガーに引っかけておいた背広のポケットからバイブレーションにしたままの形態の振動が耳に入った。急いでポケットの中の携帯電話を取り出すと、案の定先ほど送ったメールの相手、ヒカルからだった。やはりヒカルも数通に分けて返事をよこしてきた。まあ、ヒカルの場合長目のメールをくれることは珍しくはないのだが。

 そのメールを読んで、あまりにもヒカルの指摘が僕の胸に突き刺さるものであり、考えさせられるものだったので、すっかり眠る気分にはなれなくなった。正確に言えば、布団の中で目をつぶってもずっと頭から離れないのである。明け方あたりになって、やっとうとうとと眠り書けたが、すぐに起床時間となり、結局はほとんど無睡状態での出勤になってしまった。

 ヒカルのメールの返答に対する僕なりの解釈と、これからすべきことはまだ完全には整理がついていないのが正直なところだ。少々躊躇するところはあるものの、僕は洗面所の前で背広のポケットに手を突っ込んだ。(続)

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