(4)

 「ごめーん、お待たせ」

と、真理子は白い肌に頬を赤く上気させながら店内に入ってきた。そんなに広い店でもないので、躊躇することも無く真っ直ぐ僕のほうに歩み寄り隣に腰掛けた。きっと走ってきたのだろう、息が若干乱れている。目元に掛かった長い前髪をかき上げながらそっと笑みを浮かべたが、その微笑みはどことなく不健康的で不自然な印象すら抱かせた。

 「マルガリータ」

メニューから目を上げた真理子はカウンターの奥のマスターにそう注文した。マスターはコクリと頷くと、キッチンペーパーの上に塩をしき、淵にしぼりレモンをつけたグラスをその上におき、テキーラだのコアントローだのをシェイカーに入れ振り始めた。その一連の作業と流れが何とも華麗で無駄がなく、その手さばきたるや、舞の名手のようなしなやかさと上品さがあって、単調な動作ながらもつい見とれてしまう。

 「マルガリータです、どうぞ」

差し出されたグラスを満足げに口元に寄せる。熱心にメニューを見ていたわりには、いつも同じ者を注文する。どうやら、最近の真理子のお気に入りらしい。

 「あんまり寝てないみたいだね、なんか疲れ気味らしいし」

 「そうなの、ちょっと遅くまでね」

グラスの3分の1ほど飲み干し、カウンターに戻しながらそう呟くように言った。口をつけたあたりの淵の塩が剥げ落ち、かわりに真理子のローズ系の口紅が残っているのがうっすらと見える。

 「仕事、忙しそうだね。特にここのところは」

 「うん、そうね。それでもだいぶ慣れてはきたんだけど、基本的にやること多いから」

 「どう、少しはデータベースくらい作れるようになった」

 「あ、平気平気。和樹のおかげで少しは使いこなせるようになったわ、ありがとう」

和樹とは僕のことだ。真理子は卒業後、某生命保険会社に就職したのだが、どうやら顧客情報のデータを管理することが彼女の仕事らしい。しかし、そのデータを管理するために使う端末の操作で躓いてしまった。元来、真理子はコンピュータの類はほとんど無縁な生活を送り、大学の卒業論文ですらも百数十枚の原稿用紙にせっせとペンを走らせていたほどだ。携帯電話にメール機能がついているのだろうが、僕の前で誰かにメールを送ったり着信をチェックしているところなんて一度も見たことはない。もちろん、僕は一度も真理子にメールを送ったことなんてない。それくらい、ITには無縁な女なのである。

 彼女曰く、やれば便利なのだろうが、そこまで必要性を感じないと言う。物を書くならノートとペンがあれば十分だし、情報だってテレビや新聞・雑誌で事足りる。別段、急ぎの用がそう頻繁にあるわけないし、むしろすぐその場で返事が返ってくる電話のほうが便利だということだった。真理子の物の考え方・価値観が独特というよりも、今の彼女にとって実際にそういうものを必要としない生活スタイルが形成されているのだろう。

 でも、この春からその生活スタイルがガラリと変わってしまった。そのひとつが、コンピュータの必要性に迫られたことだ。「ガラリと変わった」とは言っても、単に表計算ソフトに予め用意されているシートの項目にデータをインプットするだけなので、この一人一大、いや複数のコンピュータを使いこなしているような昨今においては、それこそ文字を書く一つの手段として当たり前となりつつある。しかし、なんせまともにキーボードにも触れたことのないような人である。自分に与えられた業務がこういうことだと知ったとき、さぞ青くなったことであろう。

 そこで真理子は僕に助けを求めた。僕もそんなにコンピュータについて明るいわけではないが、当時から日常的に使っていたし、経済学部だったこともあって簡単なマクロの組み方くらいは知っている。あまり高いお金は出せないという要望もあって、一緒に中古取扱店で適当なパソコンを買ったり、テキスト代わりになりそうな本を探しにいったことを覚えている。元々飲み込みが早い方なのだがかなりの努力もしたのだろう、連休を迎える前には必要最低限のことはすっかり習得してしまった。だが、自宅に自分専用のパソコンを持ったのにも関わらず、別にインターネットをひくわけでもなく家に持ち帰った仕事以外では使っていないみたいだ。本当に必要最低限でしか使わず、後は相変わらず真理子なりのアナログな生活を送っている。冷静に考えれば、彼女は単に今必要なことが欠けていたからそれを補っただけで、別段興味が無ければそれ以上のことをする必要はないのである。いろいろなことができるからといって、こんな小さな箱に何でもやらせようとすること、そして全てを委ねてしまうこと事態が間違いなのかもしれない。

 この頃だろうか、真理子が僕の手を借りなくても自分ひとりで仕事がこなせるようになってから、何となくお互い疎遠になりつつあった。今思えば、これが最初の兆候だったのだろう。

 「この間さ…」

と唐突に真理子の口が開く。

 「うちの営業に小阪さんっているんだけど、その人がね…」

と自分の職場について話、僕は「うんうん」とか「で、どうなった?」などと適当な相づちを打ちながら会話を運ばせる。

 「なんか私もあっけに取られちゃってさあ…、結構信じられないことするんだよね」

と、ひとしきり話す。僕は「ふ~ん、すごいね」などとこれまた適当なことをこぼし、その場繋ぎにグラスを傾ける。先にいただいていたこともあって、僕のグラスは2敗目のサイドカーになっていた。なんとも返答や先の話の展開に困ったとき、目の前のグラスや料理に手が伸びるのが僕の癖だ。今日はそのペースが速い、サイドカーですらももう残りわずかだ。

 「どう、最近和樹の方は…」

 「そうだなぁ、ぼちぼちだよ」

会話の返答としては最悪極まりないのだが、実際にそうなのである。単調な仕事の内容に不満がないのかと聞かれれば無くはないのだが、それは何となくの欲求不満であって具体的にどうこうというのはない。職場との人間関係だって、可もなく不可もなくそれなりにうまくやっているし、基本的にみんなまじめに仕事に取り組む人たちなので、真理子の会話に出てくるような個性的な人も話も別にないのである。

 そもそも真理子が勤めているのは外資系の保険会社だ。僕のように、一つの部屋の中で社員全員が収まり、同じ部屋の中でそれぞれのデスクごとに役割が分担されているような中小企業とはまるで違い、社員数や建物といった規模からして桁違いなのである。交わる人が多ければ、個性的な人・自分とは異なる価値観の中で生きている人と遭遇する機会も多くなることであろう。

 「でさ、近いうちに研修の機会を設けて、私にも顧客管理だけじゃなくて外回りもやってほしいみたいなの。会社としては、一人にいろんなことやらせたいみたいなんだけどね、できれば営業ってやりたくないんだよね。うちの場合営業がメインになるわけだけど、どうも会社の利益とかビジネスなんてものに執着がないから、商品を売り込むためにあの手この手を使っていろんなこと言って契約結ぼうってのに、なんか抵抗感あるんだよね。なんか、ちょっとだけ泥臭いもの感じちゃうし。…そもそも、私そんなにうちの会社に愛着ないし」

真理子はケラケラと笑った。僕は再び「ふ~ん」と頷き、グラスを傾けた。ついに2敗目もなくなり、僕は真理子と同じマルガリータを注文した。

 「3杯目?ペース早いのね、今日は」

 「うん、なんか喉乾いちゃってね。真理子は全然飲んでないね」

 「違うよ、和樹が早いだけだよ。それにまだ明日も仕事があるんだもん、そんなにガブガブ飲めないわよ。あんまり夜通しのんびりできるわけじゃないし」

と、不服そうにぼそりと言う。…これだ、こういう少々言葉の端々にとげとげしいというか、相手、つまり僕を突き放すような発言が目立つ。僕が聞き逃していただけなのだろうか、昔はこういうこと言わなかったような気がする。一緒に食事していても、どことなく発言や態度の中に自己本位なニュアンスが含まれ、とても自分のことで精一杯という印象を受けてしまう。真理子自身、僕と会えばしきりにしゃべり続けるが心底会話を楽しんでいるとは思えない。これは僕の主観だが「会ったから何か取りあえず話す」なんて考えてしまう。正直、僕もここ最近は真理子と会っても昔ほど楽しいとは思えなくなっているのは事実だ。

 「ちょっと失礼」

と席を立った、トイレに行くのだろう。僕は「そろそろか」と心の中で呟いた。彼女がトイレなどで席を立った後、もう帰ろうと告げられる。話の端を折るきっかけなのだろう、これもここ最近のことだ、意図的なのかそうでないのかは知らないが。僕はすぐさま手持ちのカクテルを飲み干した。

 案の定、今日はここで帰ることになった。時刻は9時30分になろうとしている頃、帰るにはまだ早い時間に当たるのだろうが、別段引き留める気にもならなかった、どうせ断られるのは目に見えているんだし。そのまま夜風の吹きすさぶ繁華街を駅の方に向かい、僕は地下鉄、真理子はJRの方に消えた。「またね」とお互い手を振りながら。

 地下鉄のホームで、僕は暗闇の中で薄ぼんやりと光に照らされている線路の方に目を落としていた。真理子がいなくなるとなんか寂しくなる。これは会えない寂しさとはまた違う、さっきのことを思い出して、なんとなく楽しくなれなかったこと、うまく運ばなかったこと、そんな後味の悪さからくる寂しさなのだ。最近、俺たちはうまくいっているのだろうか、どうもお互い気持ちがすれ違ったりはしていないか、そして真理子との間に溝を感じちゃいないか…。そんなネガティブな想像ばかりが頭の中を支配する、考えたくないことなのだが。

 僕なりに考えるのだが、やはり学生から社会人になって、お互いの環境が変化したせいなのだろうと考えている。勤めている以上、どうしても仕事中心にならざるを得ない、そうでなければ食べていけない。それゆえに、今まで抱え込むことがなかったストレスとかいらだち、それにそもそも環境が変化したことによって人付き合いや役割などに適応するための労力は計り知れないものがある。そう考えれば、自分本位な発送になっても不思議ではない。でも、もう一つ捨てきれない想像として、僕らはひょんなきっかけから交際が始まった。お互いそこそこフランクに接していたとしても、やはりどこかで気を遣ったり、相手に対して気を引いてほしいという努力もあった。時がたつにつれ、そんな気遣いがなくなり、いい意味でも悪い意味でもお互いの存在が当たり前となってきている。そうすれば、相手の今まで見えなかったところ、悪く言えばぼろも出てくるだろう。今まで僕が知らなかっただけで、真理子は元々ああいう風にどことなく粗野でとげとげしい態度の持ち主だったのかもしれない。ある型にはまった関係ができている、もしくはそういう風に表現されるようになった後にこういうことに気づくのはかなり戸惑うものがある。

 僕としては後者よりも前者の想像であってくれと切望する反面、どうしても後者の考えも捨てられないものがある。それにもう一つ、第3の想像として、流れとしては前者の通りなのだが、これは単なる一過性のものではなく、確実に僕たちの間の関係性が変化しているのではないか。真理子がああいう態度であるのも、僕が何となくすれ違いを感じているのも、結局はそういう方向に流れているのではないだろうか。そんな考えにたどり着いたとたん、僕は変な脱力感を覚えた。どれも想像だが、元々否定的な方向に走りがちな僕は最後の想像が妥当なような気がしてならない。果たして真実は…。

 列車の到着を告げるアナウンスがホームに木霊する。それにはっとした僕は俯いていた頭を上げ、乗車の準備を始めた。その時、背広のポケットからブルリと振動を感じた。(続)

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