(2)

 結局あれから眠ることはなく、そのまま出勤となった。不思議なのは、いつもより早く起きたからといってゆとりを持って準備に取り掛かれるわけはない。中途半端に目覚めた頭では、そんなにテキパキと行動できるものではない。テレビをつけいつもの番組を流しながら、やかんで湯を沸かし食パンをトースターに放り込みフライパンを暖める。熱せられたフライパンに油を引き、その上にハム・卵を次々と落としていく。油の弾ける音に続いて、香ばしいハムとまろやかな卵の香りが嗅覚を刺激し、朝の食欲をそそる。

 ハムエッグの焼き加減がそろそろ頃合のころ、「チン」という歯切れの良い音がしてトーストができあがったことを知らせてくれる。その狐色に焼きあがった食パンを手早く大きめの皿に載せ、続けてフライ返しでフライパンの上野ハムエッグを器用に掬い取り同じ皿に載せた。一人暮らしの身、よけいな洗い物は増やしたくないがための横着である。すでにさきほど沸かしたやかんのお湯でコーヒーを入れ、いつものメニューによる朝食が始まった。

 朝のテレビ番組というのは便利なもので、ニュースにしろスポーツにしろトレンドにしろ決められた時間に決められた時間内にそれらの情報を流す。特にいちいち時計を気にしなくても、「スポーツが終わった、そろそろ出かけるか」といった具合に自然とどのタイミングで出かける準備をすればいいかが自ずと身についてくる。僕は空になった皿とコーヒーカップを流しに置き、顔を洗い歯をみがき、髭をそり髪を整え、クローゼットのスーツを鷲づかみにするがごとくひったくると即座に袖を通した。

 家を出たのはやはりいつもと同じ時間になってしまった。アパートの前の細い通りを道なりに歩き、一軒家やアパート、駐車場やゴミ捨て場を通り過ぎると、右手に滑り台やブランコなどのちょっとした遊具とペンキの剥げ落ちたベンチが2・3客あるだけの小さな児童公園が見えてくる。その角を公園を横目に右に曲がると駅前の商店街にぶつかる。ここを東の方向に歩けばすぐに駅に着く。いつもならアスファルトや商店のシャッターを照り返す朝の白銀の光を浴びながら液への歩みを進めるのだが、今日はあいにくの空模様、そうもいかない。とは言え、季節は秋、もうすでに薄暗くなりつつある時期なのだが。

 都心に向かうのぼり電車、毎朝の事ながら乗車率は半端ではない。今朝も電車がゆっくりとホームに滑り込み、今から乗るであろう車内の様子を伺えば、立っている乗客はみなつり革や手すりにしっかとつかまり、両の足でしっかりと地面を踏みしめている。次々と流れ行くドアのガラスには、どれも一応に窮屈そうに人々の肩や後頭部がぴったりと張り付き、ドアが開閉したら飛び出しそうな勢いだ。それに引き換え、窓のガラスから見える後頭部のなんと優雅で落ち着いたことだろう。ある者は新聞を眺め、ある者は宙を見据え、ある者は船をこぐ。こんな狭い車内にも、はっきりと天国と地獄が分け隔てられているのだ。もちろん僕は地獄雪、ドアが開くと共に乗客の隙間に無理やり自分の体を押し込みはじき出されないようにする。僕が降りるのはこの電車の終着駅だから、どんなに奥に入っても降りるのにはなんら問題は無い。ドア付近より奥の方が若干空いてはいるのだが、結局のところはそんなに大差は無い。しかも今日は雨降り、互いの湿った雨傘がももや脛のあたりにはりつく、乗車する前にちゃんと雫くらいきってもらいたいものだ。僕は、カバンの中から今朝方とどいた新聞を取り出し、空いている片方の手だけで持ち読み始めた。

 目的の駅に着いた。小さなドアが一斉に開き、そこから一様に次から次へと人を吐き出す。僕もその流れに乗って歩き出す。複数の路線が交差している乗換駅だから、時折流れが崩れて人が縦横無尽に錯綜し、互いに肩をぶつけながら各々の目的に向かってひた歩く。改札を抜ければ、僕の勤めるオフィスまでは後数分だ。自宅と同じで、駅から近いというのが僕の勤め先の唯一の利点だ。その他にいいところはないのかと聞かれたならば、言葉を無くして考え込んでしまうのが正直なところである。

 少々くすんだ灰色の外壁を持つ鉄筋のビル。僕はその雑居ビルの小さなエレベーターホールに歩み寄り上のパネルを指で押した。清潔感のある新しい貸しビルで、まだ5年も経っていないとか。僕が入社するずっと前、このビルの新築と同時にうちの会社が事務所ごと引っ越したらしい。だから、うちのオフィスはきれいで清潔感がある。あ、もう一つ利点があったか。

 縦に長い金属質の箱に乗り込み、静かに動き始めると出入り口上部のオレンジ色に光る数字ランプを目で追った。今までいた1階は、某有名コンビニエンスストアが入り、朝・昼・夜と時間を問わずまずまずの盛況ぶりを見せている。こういうオフィス街の中に、いつでもおにぎりだのお茶だのサンドイッチだのと買えるのは、始終仕事に追われ自社の発展のために労力を惜しまない企業戦士たちにとってこれほど便利なものはない。確かに僕も重宝している。…とは言え僕は全てを仕事に預けている企業戦士というわけではないが。

 2階は英会話スクールで、テレビ等で大々的な宣伝を打ってはいないものの、電車の中ずり広告ではよく見かける名前だし、街を歩けばたまに看板が目に飛び込んでくるくらいだから、おそらくそれなりに各地に展開しているのだろう。こういったカルチャースクールの類には興味が無いのでただ無知なだけかもしれないが。そういうこともあって、この英会話スクールの講師なのだろう、たまに欧米人と乗り合わせることがある。別段言葉を交わすわけではないが、エレベーターと言う特殊な環境上、そこでたまたま居合わせただけでも妙な緊張感が働き、必要以上に相手を意識してしまう。乗り合わせるといっても、1階と2階、もしくはその逆の間だけ。時間にすれば10秒もないだろう。当然、相手はそんな僕の目線はおかまいなしに、さっさと降りてしまうのだが。

 そして3階が僕の勤め先のあるオフィスだ。工場に各種部品を受注発注する重化学メーカーで、社員数も20人に見たないほどの中小企業だ。僕は開け放たれたドアにスッと体を潜らせ「おはようございます」とすでに出勤している数人の先輩や上司に向かっていつもの挨拶の一言を投げかける。そのうちの何人からか「おはよう」とパソコンやら書類に目を向けたままボソリと返してくれる。僕はそのままデスクに向かい、カバンを置くとそのまま備え付けのパソコンに電源を入れ立ち上げる。僕は経理と言う任務上、パソコンに向かったままデスクの上に山積みになっている各種伝票に目を通しそれをデータとして打ち込んだり、必要に応じて請求書や領収書の発行するのが主な仕事だ。出社したら、特に勤務中は必要なこと意外ほとんどしゃべらない。別に職場関係がうまくいっていないわけではない、昼休みには一緒に飯を食べるような仲間はいるし、週末のアフターファイブには上司から飲みに誘われることも少なくない。ただ、入社半年で他に似たような世代のヤツがなく、僕以外は全て先輩社員、しかも一番近い都市の人でも30歳ときている。今まで同年代のヤツとしか付き合いの無かった僕にとっては、どういうスタンスで会話なり距離なりを取ればいいのか躊躇してしまい、どうも言葉少なになってしまう。

 午前中は突然追加で受注された部品のやりくりに追われ、半分も終わらないうちに昼休みになってしまった。それぞれが午前中の緊迫した空気から開放され、パソコンの電源を落としたり書類を一まとめにバインダーに閉じこんだりと昼飯の準備を始める。僕は切りのいいところで終えたかったので、みなが片付けている間もなおパソコンにデータを入力し、そろそろ切り上げようかというつもりだった。ふと見ると、いつも昼を共にする先輩がこちらの方をチラチラ観察している、どうやら昼食を誘うタイミングを伺っているらしい。

 僕はその視線に気付くと、そそくさと電源を落としたが、すぐには応じず「ちょっと待っていてください」という合図の会釈をし、すぐに廊下に歩み出てトイレの更に向こうの非常階段の踊り場に立ち携帯電話を取り出した。今から真理子のところに電話をするのだ。

 真理子は僕の彼女だ。別段こそこそする必要なんかはないはずなのに、やはり職場のデスクから堂々とかけるのはいささか気が引ける。目的だってたいしたことはない。ただ、今日の夜にあって一緒に食事するから、その確認の電話を一本入れたかっただけなのだ。

 コンクリートが剥き出しの冷え冷えとした踊り場では、電話の呼び出し音がより一層大きく響く。4回…5回…6回…、「ガチャリと電話が繋がる。

 「もしも…」

 「こちらは留守番電話センターです。お客様のメッセージをお預かり…」

僕は舌打ちをひとすし、即座に電源を切った。時間は12時10分を回ったところ、真理子の会社もすでに昼休みのはずなのに。最近こういう些細なすれ違いが目立ってきたような気がする。単なる僕の考えすぎだろうか。ある意味、この頃では当たり前となりつつあることだけに、再度電話をかける気にもなれず、そのまま背広のポケットにその小さな電話をねじ込んだ。(続)

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