バーチャル・リレーション

松江塚利樹

(1)

 幸せな一日を予感させる要因は、その日どんな目覚めを迎えたかに大きく左右されるものである。どんな疲労感を感じていても、柔らかな羽毛布団に包まれてゆっくりとまぶたを閉じていく瞬間、全身の力が抜けてだんだん意識も遠のいていく。どんなに仕事が行き詰まっていても、恋や将来や人付き合いなどの悩みがあっても、この時ばかりは全てのしがらみから開放されたような心地よさを感じるものである。

 主が眠りに落ちた後の部屋は、時が止まったかのように一切の変化がなく、目覚めるまでほぼ同じ状態を保ち続けている。聞こえるものといえば自分の胸から吐き出される深い寝息だけ、動くものといえば時を刻む部屋の壁掛け時計の秒針だけだ。

 ある瞬間から東の空の端が白み始め、静止を保っていた街は徐々に動き始める。窓のカーテンの隙間から差し込む陽光がだんだん長くなり、薄暗い自室にほのかな光が広がり始める。その光の帯が少しずつ地面を這うように伸び続け、枕に頭を静めている自分の顔に届いたとき、目から入る僅かな刺激とその暖かさに感覚が呼び覚まされゆっくりとまぶたを開く。

 そんな目覚めを迎えた朝はどんなに前の日に疲れや気がかりなことがあっても、よく眠ったという充実感と新しい一日の新鮮な爽快感が、心身にすっきりとした晴れやかな気持ちを与えてくれる。

 だが、これが非常識なヤツからの電話や我が物顔で路上に爆音を立てるバイク野郎の集団、自分で用意したにも関わらず無機質な電子音をかなきり立てる目覚し時計の雑音が突然耳に入るのは、まるでゆっくりとおいしいお茶を飲みソファーで寛いでいた喫茶店から何の前触れも無く突然誰かに羽交い絞めにされ、そのまま地面を引きずられて外に放り出されたような驚きとやるせなさ、そして大きな不快感と少しの怒りの気持ちが交錯するという、なんとも理不尽な気分にさせられる。

 今日の僕の目覚めもそういった部類のいわゆる「不快な目覚め」にあたるものだろう。どういうきっかけで目覚めたか、それまでどんな夢を見ていたかも覚えていない。気がついたら意識があったというのが今のところ妥当な表現だろう。目覚めたときの僕は左向きに横たわっていたせいだろう、左の肩から肘にかけてしびれが走り、おまけに額や首筋、パジャマの袖口や襟ぐりにうっすらと寝汗の後がある。すでに夏も終わり、むしろ朝夕は肌寒さを感じるくらいの気候になったというのに……。

 枕もとの目覚し時計に目をやると、蛍光塗料で青白くぼんやりと光る数字と針が3時50分を指し示している。夜から朝になろうとしている曖昧な時間だ。

 僕の場合性質が悪いことに、一度目覚めたらなかなかすぐに眠れない体質ときている。時間に几帳面な性格と、何に対しても心配性な性格が生んだ悲しい習性なのだろう。たいていの場合は布団にくるまってぼんやりと朝が来るのを待つか、ラジオをつけて適当な深夜番組に耳を傾けているというのが僕のパターンだ。

 何となく体が火照っていたので、ぼんやりする頭をもたげながら隣の台所へいき、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出しペットボトルごとくちに流し込んだ。熱っぽい体に冷たいものが入ると、肩の力がスッと抜けて安堵のため息がもれる。気分が落ち着くと、駅から近いことだけが売り物の築20年のボロアパートのサッシを打ち付ける雫の音が耳についた。キッチンの窓をそっと開け格子の間から外を眺めると、暗いながらも細かな雨粒がたまえなく落ち続けているのが目に入り、すぐ傍の木々の葉に水滴が打ちつけられ跳ね返っているのがよく分かる。いつから降っているんだろう、昨日はそんな様子はなかったのに。

 雨が吹き込む前にピシャリと窓を閉め、再び僕は布団にもぐりこんだ。寝つきが悪いのは承知の上だが、何もすることがないのに起きていても仕方がない。かといって眠くもないのに布団の中で体を横たえてじっとしているのはわりと苦痛なものである。これが退屈な会議や単調な事務仕事の時なら絶対に思いもしないことなのに。

 いやな目覚め方をしたとき、なかなか寝付けないとき、これから必ずやってくる新しい一日を寝不足のままで過ごさなければならないのかと考えるだけで気分がどんよりと重くなる。そして一人静かな部屋でじっとしていると、その隙を狙ったように徐々に頭の中にじわじわと広がってくるものがある。まただ、またいやな想像ばかりが駆け巡る。これは単なる僕の被害妄想なのだろうか……。

 社会人になってからろくなことがない。金銭的な余裕は無くても自由で、、ある意味体たらくな生活をしていても十分やっていける学生の頃だったらきっとこんなこと考えなかっただろう。少なくても今は自分の時間ややり方が100%認められる立場ではない、あくまでも自分の所属する組織がいい方向に動くことだけを考え、それを最優先にして自分の生活スタイルを築かなければならない。でも、学生と社会人、自分たちのポジションが変わっただけで、いともたやすくお互いの関係性さえ捻じ曲げられてしまうものなのだろうか。いや、僕自身がヘンに意識しすぎているだけじゃないのか。その自分の意識や先入観に勝手に自分を振り回して、都合が悪くなると無理やりそっちの方向に理由を結び付けているだけではないのか。いや、全く無関係というわけでもないだろう。

 …まただ、また考え始めている、ここ最近はいつもそうだ。ヘンな方にしか結論が持っていけない今、できればこんなこと考えたくないのに、どうしても頭から離したり無視したりできない。僕は再び上半身を起こし、サイドボードの上野充電ボックスに刺しっぱなしにしている携帯電話を手に取り、何かメールが届いていないかチェックすることにした。

 寝る時はマナーモードに設定しているから着信しても音は鳴らない。朝起きて携帯メールの受信チェックをするのはすでに僕の日課になっている。とは言っても、友達から頻繁にメールが届くというわけではない。受信すればたいてい数通は入っているが、ほとんどは望まないダイレクトメール、通販の情報や店の案内、卑猥な情報も少なくない、いわゆる迷惑メールの類だ。それというのも、僕は某有名メーカーの携帯電話を使用しているのだが、初期設定でそれぞれの携帯電話に与えられているメールアドレスのIDが、自分の電話番号になっている。こういうダイレクトメールを送る側にとってみれば、適当な11桁の番号、いや頭3桁はすでに決まっているので残り8桁の数字とホストアドレスさえ組み合わせれば無作為に送ることができる。これほど楽なことはないだろう。懸命な人ならば、すでに携帯メールアドレスの書き換え登録を済ましているのでそういう心配は無いが、僕は変更届をするのが面倒なこと、友達など電話番号さえ教えれば自ずとアドレスも覚えてもらえること、こういうメールは確かにうっとうしいが、どうしても避けたいというほど不快には感じていないこと、それらの理由が重なっていまだに初期設定のままでメールアドレスを使用しているのだ。

 案の定、今朝も例にもれず宣伝の類のメールばかりだった。人目件名を見て、それらを手際よく削除しながら読み進める。今日も特にめぼしいものはないのかと思いかけてたとき、ひとつのメールに目がとまった。ほとんどの場合件名を書かないので、すぐに差出人が目に飛び込んでくる。それまでとは打って変わって、反射的に中身を開き目で内容を追った。

 受信日時を見てみると、「3:33」と表示されている、僕が起きる少し前だ。何とも不自然な時間だが、別段驚くことのほどでもない。僕は考えながらすでに手馴れた指裁きで返信を打ち始めた。(続)

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